01 戦火を知らぬ眼 ⑭
「―――」
頭を垂れる私の姿に、微かな息を呑む声が落ちた。程なくして衣擦れの音と共に、彼は封じていた箱をカタリと開けると、私の上に儀仗の影を落とした。
「……我、アズレア・リカルドは、汝、レイリアと師弟の契りを結ばん。いつ如何なる時も、護り、導き、その道行きを照らさんことをここに誓う」
私とマスターを中心に幾重にも展開されて行く複雑な誓約の陣の中、息が止まる程の魔力の奔流を全身に浴びながら、どうしてか涙の零れそうに懐かしく優しい感覚に身を委ねる。森の声が、聴こえる――
トン、と。
マスターが儀仗を軽く床に打ち付ければ、水面に落ちる雫のように力の波紋が広がっては、また消える。
《ディア・サヴェンタ・アビーシア、ディア・ラトレイ・ケイディオ……アレステ・ラ・ヴォーク》
盟約に従い、真実を捧げる。我が声に応えよ――
かつて聞いた魔法契約の起句が、ずっと柔らかな響きで部屋の中に落とされる。初めて出会ったあの頃より、ほんの少しだけ近くなった目線で、そしてずっと近い距離で。
《ディア・ロガール、ディア・ヴァラゴス……ラトレイ・ベネディア・ナ・グラシア・ヴィーア……サンシア・ルーレ・ディナメルシア、オリグ・シーラ・エイビア・ナ・イング》
我は祈る、我は寿ぐ。かの旅路に星の祝福を。力よ、螺旋となりて生命の源を示せ。
宙空で交わる視線が、偽りを紡ぐことの出来ない『言葉』よりも雄弁に全てを伝える。朗々と淀みなく重ねられる声の他には、互いの息遣いと鼓動に想う記憶だけが満ちる。
《アルブ・ネクシア・シルヴァ、シルヴァ・サルトゥス・レムナント……イレ・イング、イレ・ラグズ、イレ・シゲル……》
樹は森へと導き、森は記憶へと至る。其は生なり。其は癒なり。其は導なり。
三方へと重ねて配されるルーンが、古い盟約の力を呼び起こして風になる。マスターが明け渡そうとしている力を、そこに籠められた想いの全てを受け取ろうと手を捧げれば、しゅるりと繋ぎ止めるように光のリボンが結ばれて、息を呑む間もなく砕けては消えて行く。
これを最後の『授業』にするつもりなのだと、言葉はなくても全身が理解していた。マスターはいつだって多くを語ることはないけれど、誰よりも緻密で正確な魔法魔術に全てを捧げて、遥か高みへと手を伸ばし続ける背中に学びを宿す。
私は深淵を覗き込むように、その眼を見上げる……今この瞬間も、指先からこぼれ落ちて行ってしまいそうな全てを、彼が伝えようとしている何かを背負うために。
《リベル・ア・ケイディオ》
そっと翳された手の平が、私の瞳を覆う。まるで、全ての痛みから私を護るみたいに。
捧げた指先に何かが触れて、次の瞬間、全身へと雪崩込む記憶に息が止まる。
地中深く眠る冷たい朝。柔らかな熱と眩い世界に焦がれて伸ばした手。初めて深く吸い込んだ息に、感じた甘やかな水と風の香り。見も知らぬ影が生まれては老い、やがて消えて行く……悠久の時の流れの中で、私は彼らを見守っていた。
やがて誰よりも高く聳えた大樹は、優しい充足と孤独の中で眠りに就く。ただ、一枝を世界に落として――
《ディアーレ・リベルタ、イレ・アムニス……ラ・ヴェンナ・シーラ、エタ・ティオ・アビーシア》
描き、閉じよ。其は、全なり。我が名の下、ここに約を結ぶ――
熱を帯びた手の平に、盟約を導く魔力が満ちている。それを通してでさえ眩く感じる光が弾けて、私の全てに少しずつ馴染んで溶けて行くのを知った。
やがて森のざわめきのような力の呼び声が止むと、ゆるりとマスターはその手を離した。その名残惜しい程の温もりが消える頃、彼は掠れたような声で静かに言葉を落とした。
「私の力で与えてやれる加護など、この程度のものだが……さあ、立って貴様の杖を手にするが良い」
言われるままに立ち上がって顔をあげ、視界に映り込んだその儀杖の全貌に、私は息を呑んで目を見開いた。
「……きれい」
柔らかな色合いの……そう、ちょうど私の髪に良く似た色の白木が、天を指すように緩く捻じれながら枝を伸ばす。その枝が包み護るように宿すのは、生まれたてのダイアウルフが持つ瞳みたいに瞬く、澄んだ蒼色の宝玉。
所々にあしらわれた白銀の円環には、詩のようにも絵画のようにも見える美しい紋様が彫り込まれ、それそのものが私の知らない優しい力を宿していた。蔦のように伸びる蔓には眠るような純白の葉が揺れていて、陽光に透かせば葉脈を流れ行く穏やかな魔力の息遣いに、この杖が生きていることを理解する。
「かつて存在した、この世で最も高潔な種族……エルフの棲まう森を守護していた、白金樫の大樹から落ちた恵みの枝の一振りだ。その性質は靭やかでありながら、決して折れない」
その言葉にハッとしてマスターを見上げれば、柔らかでありながらも微かに苦味を含んだ横顔が、ゆったりと私に視線を向けた。
「……貴様の杖を作るならば、これを置いて他にはないと思った。私が持ち得る素材の中で、最も魔力の伝導率と受容量の高い代物だ。それを抜きにしたとしても、これ以上に貴様の力に馴染むものは無いだろう……魔力を注ぎ、手にする程にその木肌は深みと艶を増して行く。長く連れ添う相手だ、手をかけてやると良い」
指の腹でくすぐるみたいに、優しく触れるマスターの手付きに、その杖の中を漣のような感情が駆け抜けて行くのを感じた。この杖を、一から彼が作ったのだと想うだけで、途方もないものを受け取ってしまったのだと言う実感に目眩がした。
どんな想いで、どんな表情で、その時間を杖と向き合って過ごしたのだろう。この手にある杖は、どこまでも滑らかで優しく、陽だまりみたいに暖かかった。
「貴様は、これから伸びる。儀杖がその手に馴染む頃、きっと一人前になっている」
「……マスター」
どんな言葉なら、この胸にあふれる何もかもを伝えられるのか分からなくて。その瞳をじっと見上げれば、彼はどこかやり場なく視線を逸らして手を振った。
「良いから、黙って行け……精々、試練の前にある程度は使い熟せるようになっておくことだな。いざと言う時に命を預けるはずの道具に、振り回されていては話にならん」
どこまでも『いつも通り』のマスターに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになりながら、私はまだ身の丈に余るその杖を抱き締めて頭を下げた。
「大事にします、ずっと」
それからいつものように、さよならを言うつもりで口を開こうとした瞬間だった。
(マス、ター……?)
有無を言わさずに私を引き寄せた片腕が、不器用に私を閉じ込める。
「……生きて、帰れ」
その手は、その声は、どうしようもなく震えていて。約束が出来るほど強くないけど、こんなにも心を砕いてくれるこの人に、せめて私は大丈夫だと伝えたかった。
「はい、マスター」
そうして、きっと忘れずにいようと目を閉じる。
もう一度、この場所へと帰るために。ずっと――
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