01 戦火を知らぬ眼 ⑬
重々しく告げられた言葉に、私はハッと目を見開いて彼の指先が触れる箱を見つめた。
儀杖……それが魔法使いにとってどれだけ重要なものなのか、さすがの私も少しは理解していた。使い手本人の力を最大限に引き出す、世界に一つしかない自分だけの魔道具。戦地で敵を殲滅するために展開する極大魔法とか、そういう大量の魔力を消費するような魔法を使う局面で抜き放たれる、つまりは平時に使われることはまずない代物。
それは熟達した魔法使いにとって、いざと言う時の生命線であって、同時に弱点の一つともなり得るからか、普段は人目に晒さないことの方が多い。王国に仕える魔導の心得がある騎士は、剣を儀杖の代わりとして携えていることがあるとも聞くけれど。
(フィニアス師の杖は……見たことないかも。エルの杖は、どんなだっけ……雪が降ったばかりの森みたいに銀色で、きらきらしてて)
そしてその杖を手にしている時、いつだって大切そうにそっと触れて、どうしようもなく寂しいって顔をする。いつかの約束だと言っていた、あの美しい水の鳥を送り出す時みたいに。
今年は独り、あの鳥を見送ったはずのエルの背中を想って、呼吸も思考も止まりそうになるのを、拳を握って足元の感覚を取り戻す。何か別のことを考えようと視線を彷徨わせれば、マスター・リカルドの儀杖が視界に映り込んだ。
私的な場と言うわけではないけれど、研究室の外で学生を相手に講義している時に比べて、ずっと無防備に解かれたローブの隙間からは、腰のベルトに差した黒曜の杖が覗いている。他の研究室で見かけるマスター達のきらびやかな杖に比べて、どこまでも実戦的な飾り気の無いそれには、どこか吸い込まれそうな闇色の宝石だけが握りに埋めこまれている。
(この杖を携えたマスターに、私は立ち向かった……んだよね)
いま思えば、それがどれだけ無謀なことだったのかと目眩がする。あの時は不意をつけただけで、今この瞬間に真正面からマスターと戦ったなら、きっと私は勝てないだろうなと彼の横顔を見つめながら思う。
目を閉じなくても昨日のことのように思い出せる、あの燃え盛る炎の中で見上げた真昼の夜空を。途方もない高みを前に、手をのばす勇気を。砕け零れて行く星の記憶の中、あの瞬間だけは確かに世界で私とマスターだけが互いを覗き込んでいた。
あれから決して短くはない時間を傍で過ごして、少しずつマスターのことを理解して、それでもあの時ほど互いの中に『踏み込んだ』ことはきっとない。そのマスターはと言えば、私がそんなことをつらつらと考えていることを知ってか知らずか、無意識のように自身の儀杖に触れながら、目を閉じて口を開いた。
「……自身の力を引き出す、言わば増幅装置としての儀杖は古来より存在していた。その本質は変わらずとも、時代を経てその『特別な道具』には少しずつ意味が与えられていった。親から子へと受け継がれる力、主へと誓う忠誠の証、自身の社会的地位と能力を示すもの……そして遥か昔、この学院が建った時代に遡る風習として、師から弟子へと贈る最大にして最後の餞と言う意味合いも持つ」
最後の、餞。
その言葉が意味するところを理解して、私は何もかもを飲み込んでマスターを見上げた。マスターは私の眼を通して、一瞬だけ別の何かを見ているような瞳をしたけれど、すぐに目の前の私に焦点を結び直して、どうしてか泣き笑いのような表情を浮かべた。
「本来ならば、道を修めた証として授けられるもの。その力の強大さに比して、貴様は未だ未熟だ。それでも、渡すならば今この時であると私は判断した……私が儀杖を授ける側に立つのは、これが初めての事だ。つまり、貴様は私の初めての弟子と言うことになる」
「シエロは、違うのですか……?」
目を瞬かせて尋ねれば、マスターは微かに強張った頬を緩めた。
「あれは、端から己の師は一人だけだと宣いよった。その男に認めさせるまでは、何者にも膝をつかないと……生意気で傲慢な奴め」
そう呟いたマスター・リカルドは、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうにすら見えた。眩しいものを、見上げるように目を細めて。きっとマスター・フィニアスのことを考えているのだと、どうしてかそう分かった。
フィニアス師――エルの兄弟子で、私にとっても大切な人。誰よりも高みにいるように見えて、それでいて誰よりも空に焦がれているような眼をする人。私の、師匠。
それでも――
「レイリア」
ひとつ、息を呑んで。
ああ……マスターでも緊張に震えることがあるのだと、その指先に知った。
「私を師と、認めるか」
そう、それでも。
私が膝を折る最初の相手は、貴方でありたい。
「もうずっと、貴方の弟子です」
この胸に階級章を留めた時から。この部屋の扉を叩いた時から。あの闘技場で命を賭けた時から。
この距離も、交わす言葉も、想いさえも……何もかもが初めて出会った時とは違うけれど、いつだって私の前に立って歩いていたのはマスターだった。その背中に、初めて自分の脚で追いつきたいと思った。こう在りたいと、思った。
「マスター」
その敬称を、ただの記号ではもはやなり得ないそれを、大事に大事に呼んで。
私は静かに跪き、私の持つ最大限の敬意を捧げた。




