00 序 ④
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噎せ返るような血臭と、それでも掻き消されることのない乾いた砂の匂い。
開戦からどれだけの時が経っただろうか。あまりに呆気なく国境を踏み越えたゼクトの進軍は、クラリスの辺境を守護する兵団を尽く蹂躙していた。夜闇に身を隠すこともなく、朝日と共に侵攻を開始した傲岸不遜なゼクト軍であったが、砂漠の強い光と熱に不慣れな彼らを後押しするかのように、空には低く雲が垂れ込めていた。
その不吉な暗雲の下、降り注ぐ矢の雨も恐れることのないゼクトの戦士達は、矢避けのマントを翻して漆黒の戦斧を振るい、明らかに戦慣れしていないクラリスの兵達に容赦なく死を叩きつけて行く。鮮やかな蒼の装束を身に纏ったクラリスの兵は、その衣を黒く血に染め、絶望と恐怖のままに次々とゼクトの凶刃に倒れて行った。
「援軍は、まだなのかっ――!」
「連絡がない……俺達は見捨てられたのか?」
「まさか、ここを破られれば民に被害が及ぶぞッ、ぐっぁあああっっ……!」
言葉もなく入れ墨に塗れたゼクトの戦士の腕が振り抜かれ、その一撃に胴を叩き折られたクラリスの兵が、また一人息絶えた……その瞬間。
「退却だっ――退却命令が出たぞ――!」
響き渡る声に、クラリスの兵達は『ようやく』と言う安堵と、ここを破られれば誰がゼクトを止めるのかと言う後ろ髪を引かれる思いに挟まれながら、ゼクトの軍勢に背を向けて退却を始めた。ゼクトの戦士達は嬉々としてその敗走を追うべく戦斧を掲げたが、それを制止する一つの声が戦場に落ちた。
「待て」
それは決して大きな声ではなかったが、ゼクトの男達は今にも駆け出そうとしていた脚をギシリと留め、その日に焼けた強面に恐れと敬意を浮かべて振り返った。真白い髭と髪をたくわえ、眼に走る刀傷が削ぎ落とされた表情に凄みを与えるその男は、敗走するクラリスの背と既に血を吸い始めた不毛の大地を見渡し、眉間へと深く皺を刻んだ。
一人、突然の待機命令に肩を怒らせ、不満気な表情を隠しもせずに将軍である男に詰め寄ろうとする若者がいる。若者の愚かしさと男の冷酷さを良く知る周囲の男達は、出来得る限り関わるまいと視線を逸らして道を開けた。
「ゼクトの腰抜け共に、何を恐れる事がある……今が好機だ叔父貴。なぜ追わねぇ」
「……ならば貴様の隊が追え。存分に殺すが良い」
男の言葉に満足そうな表情を浮かべた若者は、戦斧を掲げて腹の底から鬨の声をあげた。青年の背に続く隊を見送り、灰色の髪を無造作に結んだ男が白髪の将軍に口元を寄せた。
「良いのか、将軍さんよ。さっきから、イヤぁな臭いがプンプンしやがる……ありゃ、死ぬぞ」
男の言葉に、将軍と呼ばれた男は鼻で笑って言い捨てた。
「死なせておけ。端からアレは戦力に数えていないし、そもそも大した兵も与えていない。戦場で死ぬ誉があるだけ、マシな死に様だろう」
「なるほど、ね……じゃ、俺は退却準備でもしときますか」
肩を竦めて背を向けた男に「そうしろ」とだけ将軍は告げ、男はすらりと儀杖を抜き放って挨拶代わりに振ってみせた。その後ろ姿に、武勇を重んじるゼクトの男達は侮蔑の色を隠しもせず、唾吐く者さえいた。
「悪魔に魂を売った男め……所詮は異国の売女が生んだ落とし子ってな」
「役にも立たない火花を散らすだけが能の、何が魔法使いだ。笑わせるぜ」
そんな非難の声にも男は笑みを深めて『言葉』を紡ぎ、高みの見物を決め込みながら着々と逃げ出す準備を整え始めていた。その視線の先には、敗走するクラリスの兵の背中へと追いつき、今にも戦斧を振り下ろそうとするゼクトの若き戦士の獰猛な笑みがあった。
「あーあー……そんな簡単な罠にかかっちまって。ご苦労さん」
男が呆れたような呟きを落とした瞬間、蜃気楼がごとくふっとクラリスの兵の姿が揺らぎ、幻影となって宙に溶けて行く。
「あ? っなんだ、これッ――」
嬉々としてクラリスの敗走を叩き潰そうとしていた男達が唐突に消えた敵影に戸惑い、更には何もない場所で泥濘に足を取られたかのような感覚に立ち止まる。
ドスリ、と。
不意に戦士の一人が、何もない場所から飛来した矢を胸に受け、声もなく崩れ落ちた。その姿に疑問を抱く暇もなく、一人また一人と蜃気楼の向こう側から来る矢の前に、成すすべもなくゼクトの戦士は斃れて行った。瞬く間に恐慌状態へと陥った戦線に、ゼクト唯一の魔法使いである男は「これだから、連携のなってねぇ寄せ集めは……」と悪態を吐き、ダンッと苛立たしげに儀杖を乾いた大地に打ち付けた。




