00 序 ②
「……怒りで我を見失い、誇りに身を喰い潰されたエルフの二の舞だけは避けねばならん。命あっての物種だ……我が一族は、故にこそまだ生きている。それが、彼らとの違いだ」
自身に言い聞かせるように呟いたアルマリクは、惑うように目を閉じた。
《キュイーッ……》
高く遠い呼び声に、男達は弾かれたように空を振り仰いだ。人の耳には単なる隼の鳴き声としか聴こえずとも、男達にはそれが主の友であるルフの声ではないことが分かっていた。
その響きに遅れるようにして、鉤爪で砂を抉りながら地を踏み越えるスケルツォの独特な足音と、巻き起こる砂煙の中に紅の布に身を包んだ少年の姿が浮かび上がる。その姿に安堵したような表情を浮かべた鷹の目の男は、己のスケルツォから降りて少年を出迎えた。
「シドニア、良く戻った」
「兄上」
スケルツォの背を優しく叩いて飛び降り、口元まで覆ったターバンを引き下げた少年……シドニアは、表情に乏しい瞳を柔らかく細めてアルマリクに歩み寄り、額を重ねて久方振りの再会を喜び合った。
「シャルクは、無事に着いたか」
「彼が迷うはずもない。帰り道も、お陰で最短距離を駆けて来れた」
良く似た二人の兄弟は、頷き合って互いの無事を確かめた。
「しかし、それにしても早過ぎはしないか。まだシャルクをやってから、それほど時間は経っていないぞ。エルディネ秘蔵の『ゲート』でもなければ、ここまで早くは帰って来れまい……それに」
シドニアの鳶色と黒が入り混じったような色の髪に鼻先を寄せた男、アルマリクは懐かしさや憧れ、そして微かな畏れの入り混じる表情で呟きを落とした。
「お前から、深い森の匂いがする」
その言葉に目を見開いたシドニアは自身の服に鼻を寄せると、こそばゆいような表情で笑った。
「リアと共にいて、大分麻痺していたな。気付かなかった……実はエルディネ国境沿いの森を、森の王者に乗せてもらって来たんだ」
「まさか、ダイアウルフの……? あの誇り高い神狼達が、背中に乗せて運んだだと?」
信じがたいと言いた気に眉を寄せる兄に、シドニアは苦笑する他になかった。
「まあ、伝手が少しだけ。それに時は移ろう……彼らも古の時代ほど保守的ではないし、何より家族を大切にする一族だ。群れの仲間の危機だと、事情を話したら分かってくれた。彼らも、森のざわめきを気にしていたが……それは後で良い。俺の許嫁殿は無事なのか」
「ルフが届けた情報によれば、王都を離れて安全な場所に身を潜めたと」
進み出たニルスが告げ、シドニアは淡々と頷きを返した。彼にとって一度会ったきりの許嫁ではあったが、ほとんどと言って良いほど戦力を持たない小国でありながら巨万の富を蓄え、ゼクトとエルディネに挟まれながらも強かに生き延びて来た両国にとって、この婚姻がどれだけ重要な結びつきとなるのかを互いに理解し合う運命共同体であった。
婚姻を交わすよりも先に、彼女を……それどころかクラリスと言う国家そのものを失うことになるかもしれないと、ずっと覚悟はして来たつもりでいた少年は、それでも兄とは異なり戦の匂いを直には知らなかった。敵影は無くとも、群れの仲間のひりつくような苛立ちと、物々しく完全に武装された姿にシドニアは浅く息を吐いて目を閉じた。
「クラリスは、何と」
「それが、エルディネから退却『命令』が出たと。よって手出しは無用、との事だが……エルディネから大きな兵力が動いた気配はない。あの国は、クラリスを見放すつもりか?」
訳が分からないと苛立たし気に首を振る兄に、シドニアは学院で垣間見たマスター・フィニアスの横顔を思い返していた。エルディネの最高戦力であり、リアとシエロの師である学院最強と名高い男のことを……そして今、その彼が長く学院を不在にしている事実を。
「……それは、素直に手出ししない方が良いだろう」
今のエルディネが、クラリスを手放すはずがないことをシドニアは……否、ここに居る面々は皆、理解しているはずだった。それでも遠く燻る戦の熱に当てられている男達を前に、己だけは冷静であらねばと少年は深く息を吸い込んだ。
「しかし、シドニア……!」
「我らイスカーンは、中立国だ」




