04 見送る背中 ⑰
彼女にはきちんと帰るべき場所があって、愛してくれる人がいて、だからこそあんなにも身を削って研究に打ち込んでいる。理解した……理解させられて、しまった。リアが追われている時間は、ライナス・ブラッドフォードの心臓に仕掛けられた生命の砂時計だ。
「なんで……あんな、男」
思わず零れた言葉に、返事は帰らない。心の底から思い知らされたのは、あんな男でも僕より愛と言うものを良く知った顔で、大切なものに触れるような指先でリアを撫でる権利を持っているのだと言うこと。二人の関係性なんて想像もつかないけど、お互いに惜しげなく命を賭けるくらい想い合っているのだと言うことくらいは分かる。
リアはライナス・ブラッドフォードの声を聞いた途端、目に見えて容態が安定した。そんな風に、他人に影響されて揺り動かされる彼女を見ていると、どこか面白くない気分になるのを感じていた。分かっている……子供染みた、バカバカしい独占欲。
(汚い、本当に……)
僕は、彼女とは違う。
汚いものに塗れて、愛なんて裏切られるものに寄りかかりはしないと踏みにじって、声を殺して心を殺して、ただ生き延びるためだけに生きてきた。
だから、なのかもしれない……その純粋さが時折ひどく妬ましくて、この手でめちゃくちゃにしてやりたいとすら思う。その反面で、どうかこれ以上傷付かないで欲しいとも思っている。かつての自分を勝手に重ねて、矛盾した衝動が腹の中で渦巻く。
「リア……お前は、本当に」
何て言おうとしたのか、何を本当は言いたかったのか。
「シエロ」
背後からかけられた声に、心臓が止まりそうな感覚と共に振り返る。そこには分かりやすく顔一面に『心配』を貼り付けたシドニアが立ち尽くしていて、そろそろと僕の顔に伸ばされた指先を溜め息一つで叩き落とす。
「大丈夫、なのか」
「……リアなら熱は下がったけど」
わざと質問の意味を取り違えて『踏み込むな』と言外に告げれば、いつものようにシドニアは頷いただけで引き下がった。こいつのそう言う所だけは、付き合いやすくて悪くないと最近は思う。
(……気付いたら、つるんでたし)
当たり前のように僕の隣へ椅子を引きずって来て、すとりと腰を下ろす姿に言葉もない。それこそリアがいなかったら、一生こんな風には関わり合うことなく、そのうち記憶の中で風化していった存在に違いなかった。いや、一生妬んだままだったかもしれない。
僕と似たような境遇にありながら、シドニアと言う男はどこまでも自由に見えた。その意味では、シドニアとリアは見た目も言葉の訛りもまるで違うのに、兄妹かと思うくらいに似ている時があって。僕は多分、この二人が羨ましかった。
魔法をのめり込むほど楽しいと感じたことも、やりたいことでさえ何一つなかった。僕は唯一つの目的を遂げるためだけにイゾルデへと足を踏み入れ、そのことは一発でマスターに看破されて『学問を舐めるな』と吐き捨てられた。今ならその意味が、痛いくらいに分かる。僕がマスターの弟子になれなかった、理由そのものだと。
(結局、何も愛さないまま歩き続けて……何が残った?)
リアもシドニアも、何かの目的のために奔走していることは確かで、それでも二人の表情に虚しさを感じたことはなかった。何かに追われながらも、未知のものに目を輝かせずにはいられない姿は、かつて僕が捨てた『子供』の横顔で。
深々と溜め息を吐いてズルズルと姿勢を悪くして頭を抱えこめば、どうしてか慰めるようにシドニアが僕の背中を優しく叩いた。そんな不意打ちにも涙ぐんでしまいそうなほど、弱りきった自分に吐き気がする。
のろのろと顔を上げれば、相変わらず何を考えているのか分からない瞳の色と視線がぶつかる。ガラス玉めいた、得体の知れない瞳。これを見る度に、こいつの抱えた『何か』を考えさせられる。どんな痛みを抱えて、ここまで来たのかなんて。
「シエロ……シド……?」
不意に響いた声に、僕達は息を呑んでリアを振り返った。
所在なさげに彷徨う指先を、気付けばこの手で包み込んでいた。
へらりと安心したように笑う平和ボケした顔に、ずっとその顔でいたら良いと本気でそう思った。ずっとお前がそんな顔でいられるような、優しい世界なら良かったのに。
「……ここに、いる」
そっと落とされたシドニアの声に頷くと、リアは僕達二人の顔をぼんやりとした瞳で見つめて、どこか泣きそうな表情で告げた。
「あのね、助けて……くれる?」
そうして彼女が続けた『お願い』に、僕達は顔を見合わせて……きっと初めて同じ感情に身を任せて頷き合った。
明日も、その次の日も、時間が許す限りずっと――そう、かつてシドニアが口にした『約束』を、形にするような言葉に運命を感じながら。
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