04 見送る背中 ⑮
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正直、目の前で何が起こっているのか分からなかった。
……言葉にするだけなら、簡単だ。男はリアの枕元に跪き、サラリと彼女の前髪を優しくかき上げて、そっと額にキスを落とした。その光景は声をかけることも躊躇うくらいに神聖なもので、僕の知るライナス・ブラッドフォードと言う男からは、想像もつかないような慈愛に満ちた仕草だった。
「覗き見とは、良い趣味をお持ちで」
僕を振り返って微笑む口元に反して、暗い色の瞳はこれっぽっちも笑っていない。ただその表情は、僕の良く知る『ブラッドフォードの倅』のもので、むしろ現実に帰って来たような不思議な安心感を与える。
ブラッドフォードの長子にして、嫡子にあらず。知略・武勇・人望、どれを取っても比類ない才を持ち合わせながら、その心臓に巣食う呪いから、生まれた時より出世の道を断たれていたはずの男。父上が見出して子飼いとし、それ以来いまに至るまで狂ったように危険な任務にばかり身を投じ、それでも彼はまだ生きていた。
この男の本性を、聡明な父上が見抜いていないはずもないだろう。ライナス・ブラッドフォードは筆頭貴族の家柄に生まれながら、エルディネ王家に対する忠誠心も、王国の民を庇護しようとするノブレス・オブリージュの精神も、それどころか貴族の一員であると言う自意識すら些末なこととして置き去りにしているように見えた。
故にこそ、この男が何を拠り所にして生きているのか、恐らくは誰も分からずにいた……その秘された、彼が意図して大切に仕舞い込んでいた心の在り処を、知らずに暴いてしまったことをこの瞬間に理解する。
「……殿下?」
敬意など微塵も感じさせない形だけの敬称は笑みを含み、同時にささやかな警戒心が透けて見えた。この血も涙もないような殺人者も、護るべき者の前ではこうなるのかと思うと、どこか座りの悪いような複雑な心地がした。
「薬を、持って来た……後の事は同門の僕がやる。お前は戻れ」
暗に『任務があるのだろう』と匂わせれば、ぞっとするほどに表情の抜け落ちた顔で男は頷きを返した。本当に身一つで駆けて来たのか、大した旅支度もなしに小さな背嚢だけを背負ったライナス・ブラッドフォードに、僕は今更のようにどうしようもない危うさを感じて、気付けば口を開いていた。
「……戦況は」
「おやおや、一応軍事機密であるはずなんですけどね」
無駄に軽口を叩いて見せる横顔を睨みつければ、男は眠るリアの髪を開き直ったように堂々と撫で付けながら、今日の天気についてでも話すような緩さで言葉を紡いだ。
「まぁ……マスター・フィニアスが直々に、それも長期で出払っていらっしゃるから、お気付きになっても無理はないでしょう。ゼクトがクラリスに『おいた』してるので、エルディネが介入しているんですよ。お陰で王の御言葉の伝令と、ちょっとした破壊工作に駆り出された訳でして」
想像していたよりも厄介な状況に、思わず頭痛を感じて溜め息を吐いた。同盟国の目を考えればクラリスを見捨てられないが、ゼクトと真っ向から戦になることは避けなければならない……その牽制のためのマスター・フィニアスか、と納得する。
しかしそれだけの事ならば、単騎で街一つ消し飛ばせる兵器と名高い師を呼び出すまでもなく、騎士団だけでも十二分に対応出来るはず。この男の口ぶりから考えるに、事はそう単純ではないのだろうが、これ以上のことは王族とは言え末席に名を連ねるに過ぎない『子供』に機密事項をペラペラと喋ってくれるとも思えなかった。
(……何より、僕自身がそれ以上を知る必要もない)
自嘲をこめて自分に言い聞かせ、真っすぐに男へと向き直る。
壊れ物でも扱うようにリアへと触れていた手が、どれだけ血に塗れているのか……噂ばかりで正確には知らない。今日も誰かを殺して来たのかもしれないし、何者かの耳に甘言を吹き込んで身を滅ぼさせたかもしれない。この男が動けば、一国の屋台骨を揺るがすことも容易いと聞く。
その噂も真実かと頷けるほどに、この部屋へと飛び込んで来た姿は手負いの獣のような殺気と荒々しさに満ちていて、父上の傍近くに控えて穏やかな笑みを貼り付けたように浮かべている、胡散臭い貴族の仮面はどこに行ったのかと言ってやりたくなった。これまでこの男がどうして父上に忠誠を誓っているのか不思議でならなかったが、もしかしなくてもそこで安らかな寝息を立て始めた小さな生き物のためなのかもしれない。




