04 見送る背中 ⑭
重く熱のこもった息を落とした私に、ライは慌てたような表情でオロオロと頭を撫でてくれる。額に触れる手の平が、冷たくて心地いい。私が安心して緩く息を吐き出すと、ライは囁くような声で語りかけた。
「……帰ろう、リア。僕は事情があって家までは送ってあげられないけど、熱が下がったらすぐにシアとネイトに連絡を取るよ」
「だ、め……」
ゆるゆると微睡みかけていたのを、その言葉にハッとして手を伸ばせば、優しくそれでいて有無を言わせない強さでライが私の指先を掴まえた。
「君がこんなボロボロになってまで、やるべきことじゃない。手紙にも書いたはずだよ、リアが笑顔でいるのが一番だって。最後に笑ったのは、いつだい?」
そんなこと、思い出せるはずもなかった。
笑うことなんて、ありふれた日常のはずで……シエロと、シドと、兄さんやナジークと一緒にいる時の私は、きっと沢山笑ってるんじゃないかと思う。
でも、今の私は笑い方も忘れてしまったみたいに、ライの目には見えているの?
「聞いたよ、ここでの生活のこと……世界が君を傷付けるなら、人間となんて関わらなくて良いんだ。それで君は、幸せだったはずだろう……今の君が不幸なら、ここにいる意味はないよ。少なくとも僕の目には、幸せそうには見えない」
今まで私を傷付けたことなんて一度もなかったライの言葉の全てが、ひとつひとつ私に細かな傷跡を残していく。それは多分、全てが正論だったから。
でも、だからこそ……この痩せ細った身体で、ライがここまで来てくれたからこそ、私は何もかもを思い出すことが出来た。私が求めるもの。この場所に立ち続ける意味。
トン、と。
彼の心臓に、そっと触れる。ただそれだけのことに、ライはひどく動揺したみたいにギシリと動きを止めた。
まだ、聞こえてる。この鼓動を、温もりを、二度と見失わないように指先で確かめる。
「ありがと、ライ……」
会いに来てくれたこと、私をこんなにも大事にしてくれること、これまでずっと私とエルのそばにいてくれたこと。
何もかもを一つの言葉にこめるなんてズルいことをしながら、私はここから離れるつもりはないと強い意志をこめて、指先を解いた。
その意味を正確に理解したライは、泣きそうに顔を歪ませて……それでも、頷くしかなかった。いつだって、私とエルにはどうしようもなく甘いから。
「……もうすぐ、戦争が始まるかもしれない。そのことを考えたら、今はネイトと一緒にいるよりも、中立都市であるイゾルデにいた方が安全だ……本当に、良いんだね?」
自分に言い聞かせるように言葉を重ねたライに頷きを返しながら、私は回らない頭でエルのことを考えた。あの塔に、たった独り……立ち尽くす背中が、振り返ることはない。
「エルには、言わないで……」
縋るように呟けば、ライは険しい表情を見せた後で、しばらくして諦めたように深々と息を吐いた。
「……分かったよ、君には負けた。そもそも君達親子に、勝てた試しなんてなかったのを忘れてたよ。こんな状態の君を置いてくなんて、心底不本意なのだけれど」
呆れたように言葉を落としたライは、椅子に座り直して部屋の中を見渡した。
本当に寝るだけのために使っている仮眠室は、読みかけの魔導書とアイデアを書き殴った羊皮紙、それから古ぼけたランプがあるだけで。いつもはその殺風景さに何も思わないのに、ライの瞳に触れていると思うとなんだか少し恥ずかしかった。
複雑そうな表情を浮かべたライは、ただそれ以上の『お小言』を言うこともなくて、労るように私の手を取ると、羊皮紙に触れてばかりで荒れた指先を包んだ。
「少し見ない間に、研究者の手になったね……」
ライがなぞる指の縁に、落としそびれたインクの痕が滲む。まだエルやマスター・リカルドみたいに、上手に羽ペンと付き合えない私は、しょっちゅうインクで手を汚してる。
今の私は、本当の研究者の手がどんなものかを知っていた。その手が紡ぐ言葉は先人の積み上げて来た知の地層に裏付けされ、どんな些細な魔法にも洗練された美しさが宿る。
私は学問の入り口に立っただけなのだと、近頃ようやく気付き始めたばかりで、覗き込んだ深淵の果てない闇に脚が竦む。私はその淵を、知った顔で廻り続けているだけ。
それでも、必ず。
決意をこめて彼の手を握り返せば、ライは柔らかく目を細めて頷いた。
「……君が眠るまで、ここにいるから」
どこにも行かないで、なんて言えなかった。
ライがこんな時に私を置いて行く決断が出来るのは、よほど差し迫った何かがあるからに違いなかったし、何より……私から手を離そうと決めたから。
必ず、ライのことは私が笑顔にしてみせる。ライを脅かすもの全部を癒やして、ずっと『家族』が一緒にいられるように。そのためには、まず私が笑顔にならなくちゃいけない。シエロが教えてくれたみたいに、胸を張って立つんだ……前に、踏み出すために。
「おやすみ、リア」
落ちて行く微睡みの中で、ただ優しい声だけが聞こえていた。
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