04 見送る背中 ⑫
その場から駆け出すと、ザラザラした耳障りな笑い声が回廊に響いた。耳をふさいでも私を追いかけてくる誰かの声が、やまない。
(いや、だ……来ないで……)
誰も、私を見ないでほしい。人間の世界が、こんなにも難しいなんて知らなかった。自分がこんなにも上手く出来ないなんて、思いもしなかった。
《ァ……リアッ!》
バサリ、と。
耳慣れた漆黒の翼が視界を横切って、肩にずしりと重みが加わる。いつもは大して重くなんて感じないのに、今日はどうしてか鉄の塊を置かれてるみたいで。
「……ナジーク」
《どうシた、顔が蠟ノようニ白イぞ》
それに答えようとして、上手く『声』の出ない自分に気付く。
まるで、言葉を忘れてしまったみたいに……言葉を使うのが、怖くなったのかもしれない。
(私って、こんなに弱かった……?)
もう、大丈夫だと思ってた。兄さんが、ナジークが、シエロが、シドが……そしてマスター・リカルドがいて。その人達が私を見ていてくれたら、それで良いと思ってたはずで。私には私の強さがあると、信じられた瞬間はどこに行っちゃったんだろう。
足は自然と森の方に向かっていた。人の気配を感じないこの場所に踏み入れれば、少しだけ息が楽に出来るような気がした。それでも、言葉は出なかった。
《……病弱なナイフ使いカラ、鳩ガ手紙ヲ預かッテ来たゾ》
(病弱な、ナイフ使い……)
その言葉にハッとした私は、ナジークが気遣わしげに差し出した筒を、恐る恐る受け取った。細くて小さな筒の中に入った羊皮紙を広げると、どこか懐かしい文字が飛び込んで来た。ちょっと雑に書いてあるようで、本に書かれてる字みたいな『きっちり』した感じがして、ちぐはぐな……少し丸みを帯びた優しい字。
(ライの、字だ)
手紙は、私を気遣う言葉から始まっていた。今の仕事の内容は明かせないけど、近くまで来てること。旅先で見た美しいものや、ちょっとハラハラするような出来事。最後は『まだまだ元気で生きてるから、心配しないように』で締めくくられて。
『いつでも君が笑顔でいてくれることが、僕とエルには一番なんだ。それだけは、忘れちゃいけないよ』
(ライは、優しいね……)
研究の進捗を尋ねる言葉なんて、ただの一つもなかった。最初から最後まで、私のことを気遣ってばかりで……自分の方が、きっとずっと危険な場所にいて、いつ心臓に巣食う呪いで死んじゃうかも分からないのに。
でも、そんなライのたった一つの願いでさえ、私は叶えられていなくて。研究だってやっと最初の一歩を踏み出したばっかりで……ライの命の期限が、あとどれだけなのかも分からないのに。こんな場所で、立ち止まってる。
思えば、あの森は優しさで満ちていて、私を傷付けるものなんて一つもなかった。あの日、メクトゥシ母さんに問われた覚悟なんて、全然できてなかった。
(帰り、たい……)
そう思った瞬間、もうダメだと分かった。
身体が重い。脚が、動かない。
膝をついて、柔らかな芝生の上に倒れ込めば、ひんやりしたそれに包まれて自然と目蓋が下りた。
《ァ……リア……リア!》
ごめんね、ナジーク。
でも、今は少しだけ眠りたい。優しい故郷の森を思わせる、この場所で。
ただ、眠り続けていたかった。
*
優しい指先を、感じた。
なにか大事な宝物にでも触れるみたいに、エルが私の頭を撫でてくれる時みたいな……そんな、ふわふわした気持ちになる温かい手。
でも、エルとは違う白くて柔らかい指先は、そっと私の頬に触れて離れていく。
歌声が、聞こえた。
柔らかくて包みこむみたいな、それでいてどこか悲しい歌。
それが別れだと、どこか記憶の底で知っていた。
行かないでと、届かない指先をいつまでも伸ばして――
*




