03 勝利への渇望 ⑮
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その時、何が起こったのか。正確に把握出来た者が、どれだけ居ただろうか。
構えよ、と言う言葉にも、至って自然体のまま立ち続けていたリアが、伝統ある開戦の合図と共に低く身を沈めた。その手には剣の一つもなく、きっとこの場の誰もが彼女には武器の心得がなく、純粋に魔法だけで戦う他に術がないのだと勘違いしただろう。
音もなく地面を蹴った小さな体躯が、闘技場の向こう側に立つ男までの距離を、一瞬にして詰める。魔法騎士『見習い』のお手本のように、剣を構えて攻撃の術句を詠唱しようとしていたセルゲイが、次の瞬間には目の前にあったリアの姿に、愕然と目を見開くのが分かった。それでも突然の事態になんとか対応しようと、剣を振りかざすだけの反射神経があったことは褒めるべきなのかもしれない。
ただ、彼女相手に闇雲に振り回した剣は通じなかった。軽く横に軌道を逸らしたリアは、目にも留まらぬ速さで踏み込み、剣を捧げ持つセルゲイの手甲に蹴りを叩きつけた。普通は剣を持つ相手に丸腰で挑む、なんて命知らずな真似をする奴はいないし、余程の手練でもなければ剣を前にしただけで怖気づく。それだけ、剣が……命を刈り取る武器の与える恐怖心は、人間に躊躇と言う致命的な隙を与えるものだ。
故にこそ、正統な剣技しか身に着けていない、戦場の一つにも出たことのない平和な時代に生まれた貴族が、格下だと侮っていた相手から不意の攻撃を受けたらどうなるか……その答えの全てが、そこにあった。
「っ、があッ――!」
いとも簡単に命綱である主武器の剣を叩き落とされたセルゲイは、恐らく手に走っているだろう激痛に対して、反射的に全身を強張らせた。弾き飛ばした剣には目もくれず、セルゲイの懐に潜り込んだリアは、ガラ空きの柔らかい腹に容赦なく拳を叩き込む。
「かひゅっ」
ドスッ、と言う嫌な音と共に不意打ちの衝撃で呼吸を奪われ、悲鳴を挙げることも出来ずに身体を折り曲げたセルゲイに、パッとリアが距離を取るように離れた。これで終わったか、と自分があの攻撃を喰らったかのような錯覚に、嫌な汗をかきながら腹を撫でたところで『それ』は起こった。
「ガッ――?」
何が起きたのか、純粋に分からないと言う表情。それを浮かべた顔面が、文字通り吹き飛んだ。
「え……」
思わず、自分の口から無防備な声がこぼれ落ちるのを、堪えることが出来なかった。
リアがセルゲイから距離を取ったのは、決してセルゲイの気絶か降参を待つためなどではなかった。それは、徹底的に勝ちを取りに行くための、単なる予備動作に過ぎなくて。
ドサリ、と。
顎を蹴り飛ばされた衝撃で、完全に意識を刈り取られたセルゲイに、タンっと相手を落とした足で軽やかに地面に降り立ったリアは、そのまま倒れ伏すセルゲイへと間髪入れずに迫った。
(喰われる)
その時きっと、誰もがそう反射的に恐れを抱いた。この先に待ち受けているだろう、目の前の残酷な光景から目を背けてしまいたい恐怖心と、目を逸らすことの許さない圧倒的な存在感が、異様な沈黙となって闘技場を支配していた。
いつの間にか、どこかに隠し持っていたナイフを手にしたリアが、油断なくセルゲイの上に伸し掛かりピタリと喉元にそれを突き付けた。自分の首筋に牙を向けられているような感覚に息苦しさを感じながら、永遠にも感じられる時間をただ、いつ食い破られるとも分からない喉笛と沈黙の中で待った。
「そこまでっ、勝者は第二階位・レイリア!」
その数秒の永遠を破り、ようやく審判の……『門番』から終わりを告げられても歓声が上がることはなく、ただ誰もが固唾を呑んで彼女を見つめていた。門番の声が耳に届いたのか、スルリと手慣れた様子でナイフを仕舞い込んだリアは、そっとセルゲイの頬に手を伸ばす。極限まで高まる緊張の中、甘く柔らかい子供の声が響いた。
「……セルギウスさん。セルギウスさん?大丈夫ですか?決闘、終わりましたよ。起きられますか……すみません、手当てできる人がいたら呼んでください。たぶん、大丈夫だとは思うんですけど、倒れた時に頭を打ってるかもしれないですし」
テキパキと脈を取り、呼吸を聞き、瞳孔を確認し、手慣れた様子でセルゲイを楽な姿勢に整えてやる姿は、まるで小さな医者だと思う。自分でボコボコにした相手を介抱しているのだから、一部始終を見ていた人間にとっては世にも奇妙で恐ろしい光景だったけど。
救護の人間が到着し、セルゲイが運ばれて行く頃には、闘技場内にもボソボソとした声が満ちあふれ、一つの大きな喧騒へと変わっていた。
(冗談、でしょ……)
遅れてやって来た実感に、手が震える。正直、あれだけセルゲイを煽っていた僕でさえ、ここまでの実力差があるだなんて思ってもみなかった。




