03 勝利への渇望 ⑨
マスター・リカルドはツカツカと作業台に歩み寄ると、立ち上がった私の手からひったくるようにして羊皮紙を受け取り、凄まじい速度で目を通し始めた。その目が私の訳を追う程に彼の表情は険しくなり、嫌な汗が背中を滑り落ちるのを感じながら、私は直立不動で恐ろしい沈黙の中を待った。
「……転写か」
私が手にした羽根ペンの状態を見て、ボソリと彼は呟いた。
「はっ、はい……その、ダメでしたか」
恐る恐る表情を窺うと、ギロリとした感情の読めない冷たい視線が帰って来る。
「訳せと言ったまでで、手段は指定しなかったはずだ。余計な質問をするな」
「……すみません」
肩を落として謝りつつ『それって良いってこと、それとも悪いってこと?』と、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。そんな私の混乱を余所に、彼は軽く鼻を鳴らして先程よりは幾分か丁寧に私の手から羽根ペンを取り返すと、ザッと無造作にペンを振って羽根に残っていた全てのインクを弾き飛ばした。
そうして突き返された羊皮紙には、ただ一言、こう書き加えられていた。
《ブロキオッソ》
あれだけの物量を訳して、すっかり古の『言葉』の目になっているはずなのに、その単語の意味を把握するのに時間がかかった。
つまりは『合格』と言うこと、で。
「貸せ」
短く叩きつけるような言葉が、私の思考を途切れさせる。のろのろと顔をあげれば、マスター・リカルドが胸元のピンをトントンと叩いて示していた。どういうことだろう、と立ち尽くしていると、苛立ち混じりの声が低く説明を吐き出す。
「その耳は無用な装飾品か?階級章をこちらに寄越せと言っている、二度言わせるな愚図め」
絶対に、そうは言っていなかったと思いながらも、余計な口は叩かずに慌ててピンを外してマスター・リカルドに手渡した。態度は冷淡ながらも、丁寧な手付きで位階を示すピンを受け取った彼は、彼自身も紫の宝石が輝くピンを外した。二つのピンを交差させるように捧げ持つと、囁くような声が部屋に響く。
《ディア・サヴェンタ・アビーシア、ディア・ラトレイ・ケイディオ……アレステ・ラ・ヴォーク》
盟約に従い、真実を捧げる。我が声に応えよ。
《ニテンサ・ナ・ヴァセゴ・ニーオ・プロト……ネクシア・レムナント、シーラ・ヴィーア……》
無垢より生まれし紫色の光よ、記憶を託し道を示せ……
厳かに沈んでいた空気が、湧き上がる誓約の魔力によってブワリと掻き乱された。その渦も、自信に満ちた深い声が呼びかける度に、一つの秩序をもって『舞台』を構築していく。古い魔法の盟約の匂いに、緻密な術句が指向性を与え、世界の片隅に新たな存在が書き加えられる。擬似的に、世界が書き換えられていく。
《イレ・ヴァハト・イレ・クロディオ……ルーレ・リベル……サンシア・ティーゾ・ニテンサ・ナ・ゼクス》
其は焔、其は血潮。循環し、解放せよ。其の力は赤き光となる。
《ラ・ヴェンナ・シーラ……エタ・ティオ・アビーシア》
我が名の下、ここに約を結ぶ――
締め括られた終句と共に、流れるような動作で無垢な石に、そっと唇が落とされた。その口付けと同時に、まだ何の色も持たなかった私の宝石が、焔の燃え上がるような赤へと染まって行く。
「貴様に第二階位・ゼクスを授ける」
そう告げるとスッと腰を屈めた彼は、あまりに自然な仕草で私の襟元に手を伸ばした。その無表情が息の触れ合うほど近くにあって、私は呼吸も止めたままに、目を伏せてピンを留めてくれるマスター・リカルドを、ただ見つめることしか出来なかった。
永遠とも思える時間が過ぎて、その一瞬の後にマスター・リカルドはピンの出来栄えを確認すると、懐から小さな銀色の鍵を取り出して机の引き出しを開け、中から一巻きのスクロールを取り出し、こちらに投げて寄越した。封蝋には、私の知らない紋章が描かれていて、封印の魔法がかけられているのが分かる。
「次の階層の指示だ。これで、紹介状に対する義理は果たした。用が無いならば、早急に立ち去れ。私には私の研究がある……貴様にこれ以上、関わっている暇はない」
「っ、はい」
先程までの不機嫌を通り越して、今度は少しも感情の読み取れない瞳と声に呑まれながら、私はコクコクと頷いてナジークを抱き上げた。完全に眠りこけているワタリガラスは、どうしようもなく暖かくて、生きている感覚を指先に与えてくる。扉に向かって歩きながら、胸元の燃え上がるような第二階位のピンの、誇らしい輝きが目に入った。
「あの……ありがとうございました!」
胸の奥から湧き上がる何かに衝き動かされ、クルリと向き直って半ばやけくそに大声で告げると、マスター・リカルドは僅かに眉を上げて……それ以上は表情を変えることもなく、用は無いとばかりに踵を返し、研究室の奥へと去っていった。
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