01 伸ばす手の先へ ⑧
リアと同じ匂いのする森を、何かに衝き動かされるように駆け抜けて、パッと視界が開けた瞬間だった。
(みつけた)
ふわりと光の糸が途切れ、在るべき場所へと還って行く。あの日見た銀色の狼が護るように寄り添い、ゆるりと開かれた金色の瞳が僕を貫く。樹冠の隙間から降り注ぐ淡い光の中、その傍らで赤子のように小さく丸まり、森にくるまれるようにして彼女は眠っていた。
『きれい、だ……』
気付けば、そんな言葉がこぼれ落ちていた。ハッとして口元を抑えるも、彼女が目覚める様子はなく、穏やかに上下する背に安堵の息が漏れる。
一度口にしてしまえば、これまでの苛立ちや憎しみはどこに忘れて来たのか、ひどく凪いだ心で目の前の光景を受け止めている自分がいた。その燦めくような白髪と、今は閉じられている森の瞳を思えば、物語の中でしか触れることの出来ない森の民・エルフの姿が浮かび上がる。これまで、その可能性を考えたこともなかったのが不思議なくらいだった……滅びの種族だと言う事実さえ無ければ、もっと早く疑っていたのかもしれない。
顔にかかる髪をのけてやろうと無意識に手を伸ばし、不意に『その存在』のことを思い出して、ビクリと全身が動きを止める。恐る恐る顔を上げれば、想像していたよりもずっと近い場所に森の王者の瞳があって、縫い留められたように呼吸さえ出来なくなる。今まで、自分がこの神々しい狼を前にして、平然としていられたことが不思議だった。
『……その子に触れても、いい?』
当然ながら、返事は帰らない。帰らないが、まるでこちらの言葉が通じているかのように、彼は静かにひとつ瞬きをした。覚悟を決めて、そろそろと手を伸ばして彼女の口元にかかった髪をどけてやると、ここへ逃げて来ながら泣いていたのか、頬には涙の乾いたような痕が見えた。
この学院において、無知は罪だ。
学びの機会は誰もに平等に与えられていて、それに手を伸ばすことなく現状に甘んじている者から順に排斥されていく。ただし、その『学び』に手を伸ばすための術は、その情報は決して平等に与えられている訳ではない。
(お前だって、もう気付いてるはず……ただ頑張れば報われる場所じゃないことくらい)
学ぶ権利を与えられるのは、暗黙の『学院則』に従い実力を証明した者だけ。正しい努力の仕方をしなければ、全ては無駄事だ。本来は『それ』に気付けるかどうかを試す側面があったのだろうけれど、今や『それ』を知っている者が門戸を叩くことが前提の規則となってしまった。僕や彼女のように、何も知らずに入って来る馬鹿などおらず、そうした『不調法者』は彼らに必要とされていない。こちらは世界の悪意に疲弊している間に、正解からはどんどん遠ざかっていく。違いは、すべての元凶であるたった一本のピンだって言うのに。
イゾルデにおいては、身分や派閥を振りかざすことは最も重い罪とされているが、人脈と情報が全てを握る魔法科棟においては有名無実の法に他ならない。この場所では、誰もが『上』を目指して登り続けている。目指し方を直接に教えることは許されないが、知っている者は常に知っているのだ。
そして彼女は、まだ出発点に立ってすらいない。そして僕は、この涙を前に、どうすればいいのか見当もつかなかった。そもそも、追い駆けて来てどうするつもりだったのか。
(そもそも、コイツは僕の立場を脅かす敵だ……この場所で、独りで立って歩いていけないのも自己責任で)
だけど、今のコイツは、かつての僕だった。
何も知らずに、明文化されていない規則で雁字搦めになった世界へ放り込まれて、誰もがその文脈に従って生きていて、規則を知らないたった独りの自分を嘲笑い、罵り、排斥しようとする。不安で、痛くて、寒くて、今すぐにでも逃げ出したいくらいで。それでも、為さねばならないことがあるから、呼吸を殺して自分を殺して、自分の脚で何度でも立ち上がるしかなくて……それでも、どこにも道は見えない。
だから、ひとり静かに涙を流す場所があったって、許されるだろう……許されるべきだ。女だからとかコドモだからとか、そういうことは関係なくて、ただ尊厳のために。
(無知は、罪だ……だけど、誰にだって罰する権利はない)
ここにいる僕は、単なる異物なのだと既に理解していた。ただ、それでも何か出来ることがあるのだとすれば。
眠る彼女の背に、手をかざす。彼女を護る金色の瞳が、ただ僕を見ている。
ぽつりぽつりと『言葉』を落とし、音が、寒さが、この世界のあらゆるものが、彼女の眠りを妨げることのないよう、風に願いをこめて柔らかなヴェールを紡いだ。たまには、こんな気まぐれがあったって良いだろう。
大切な幼子に毛布をかけるように、そっと。
生まれて初めて誰かのために捧げた魔法を残し、僕はその場を後にした。
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