03 病める時も健やかなる時も ⑤
バンッ
「エマっ……マダム、今戻ったっ」
この男にしては珍しく、お伺いも立てずに扉を開けて入って来た所を見ると、今回ばかりは本当に余裕がないんだろう。お陰様で、ぐちゃぐちゃとした益体もない回想からは、一気に引き戻された。それから
(エマで良いってのに……)
どうでも良いけど、どうしてか人の名前を頑なに呼ぼうとしないのは、魔法使いに掟でもあるのかってくらいのしつこさだ。ったく、調子狂うね。
「火は焚けてるし、水は汲んで来てあるよ。もっと水が必要なようなら、言ってくれりゃ家のモンに汲んで来させるけど」
私の言葉に、魔法使いは少し気まずい表情を浮かべて、首を横に振った。
「先に言っておけば良かったか……水も、火も必要ない。それより確認したい事があるのだが、この部屋に濡れて困るものはあるか?あなたも含めてだが」
「いや、そんな大層なもんはないけど」
「そうか、では部屋ごと洗わせてもらう。念のため少しの間、口を閉じて息を止めておいて欲しい」
「……はい?」
良いから黙って口を閉じろ、と言わんばかりに口元を引き結んだ男に、訳が分からないままに真似をする。それを確認して頷いた彼は、片膝をついて我が家の決して綺麗とは言えない床に右手を付いた。
《ユリート・イドラ……チェルテ・ラストレア・セクレ》
歌うような響きの『音』を囁くように落としながら、魔法使いの手から生まれた光の真円が部屋の隅まで広がる。その縁には何やら文字が書かれているみたいだったけれど、何が書いてあるのかは文字が読めない私にゃ分からない。
魔法が使われている所を、目の前で見るのは初めてだったが、それはそれは美しい光景だった。最初に忠告されてなけりゃ、アホみたいに口を開きそうなくらいには。
そして『それ』は起こった。
(なっ……)
何もない所から水が生まれ、生き物のように床を這い壁を駆け上っていく。サンダルを履いた足から頭のてっぺんまで水のひやりとした感覚が流れて行き、あっという間に私も部屋も水で満たされた。あたふたと魔法使いの方を見れば、彼が床から手を離す所であり、次の瞬間何事もなかったかのように部屋から水は消え失せた。
「へっ……え……」
夢でも見ていたかのように床はからりと乾き、私の手足だってこれっぽっちも濡れちゃいない。確かに全身が水に浸かった感覚があったのに、ただ『洗われた』と言う事実だけが残る。部屋の壁だの床だのにこびりついていた煤や汚れもすっかり洗い流されたのか、どこもかしこも妙にキレイで落ち着かない。
「……一先ずは、これで済ませるか。完全に消毒するには時間が惜しい」
魔法使いはブツブツとそんなことを言いながら立ち上がり、テキパキと薬の調合の準備を始めた。まずは女から見ても長過ぎるくらいの髪を手に取ると、どこからか黒い高そうな生地のリボンを取り出して、長い指先で器用にまとめ上げてしまう。いつもは髪に隠れがちなキリリとした綺麗なお顔が丸見えになって、私はどうやら思っていた以上にこの魔法使いは若いらしいという事を知った。
次にどうやってこれだけの量を持って来たのか分からないが、薬草やら何かの生物の切れ端が入ったビンやら、小さい壺みたいな鍋に何も入っていないように見える小瓶、他には何に使うのか見当もつかないアレコレがずらりとテーブルの上に並べられた。
「感染源であるディプルの毒液を基軸とし、先ずはエーテルを用いてその純化。毒性の除去のため、アドニスの花弁の抽出液を用いる。抗菌作用はアロカシアの根の乾燥粉末。解熱作用としてリンデンの葉……いや、リアの体格と年齢を考慮するにその花を蜜源とした蜂蜜が妥当か。丁度プリミティフ・アベイユに採らせた蜜がある。形質の記憶を遡れば、或いは……むしろ薬効の軽減に重点を置かねば。ダイアウルフの肝は少量で構わないだろう」
歌うように分かるような分からないような材料の名前を口ずさみ、その間に一度たりとも彼の手が止まることはない。
特徴的に捻じ曲がり、蝶の羽を片方だけ付けたみたいなアシンメトリーな茶色の小瓶から、中の黒い液体を何もないガラスの箱に数滴垂らす。その瞬間、箱の中で空気に溶けるようにして黒い液がふっと消えてしまう。その事は特に問題ないのか、男は動じることなく小さめのガラス瓶を手に取った。
中にはアドニスの花が零れそうなくらいに詰められていて、今咲いたばかりのように鮮やかな黄色が眩しく感じる。不意にそれが真冬に咲く花であることに気付いてハッとしても、私が息を呑み込んだ音など聞こえていないのか、魔法使いはピンセットで取り出したアドニスの小さな花弁だけを器用に摘んで取ってしまう。透明なガラスの皿の中に薄く何かの液体を張って、その上に花弁が落とされるとたちまち花弁も溶けて消えてしまった。
整然と並べた薬匙の中から一つを取り上げた魔法使いは、今度は琥珀色の見るからに重い液体の入った、特徴的な丸い葉の模様があしらわれた美しいガラスの小瓶を取り上げた。恐らくリンデンの蜂蜜だ……そんなもの、聞いたこともないけれど。リンデンと言えば良く木彫り細工に使ったり、樹皮をロープだとかにするのに便利な木だったと思うが、蜂蜜なんて採れたのかい。そもそもプリミなんとかってハチか何かか。きっと例によって例のごとく、一生関わり合いになることのない高級品だから私らが知らないだけなんだろう。
《レヴィ・レムナント》
持ち手のない壺のような小さく黒い鍋に、薬匙きっかり二杯分の蜂蜜がとろとろと垂らされる。男が不思議な言葉を繰り返し唱える度に、蜂蜜がキラキラ輝いて見えたのは気の所為なんかじゃないだろう。そこへ間髪入れずに、今度は深い青色の壺から茶色っぽい粉末を薬匙にのせて、蜂蜜の中に混ぜ入れる。甘くほろ苦い香りが辺りに漂い、何だっけアロカシアの根だったかとボンヤリ考えて、ようやくそれが有毒の植物だったことを思い出す。




