07 人間である、ということ ④
「そろそろ、君の兄上から降りて下さい。商業区に入りますので、彼の手綱を握って寄り添うように歩くこと。人混みでは立ち止まらず、私を見失わないように。よろしいですね?」
「はい、マスター」
振り返れば、これまで降りてきた坂の向こうにそびえ立つ石壁が、やはりどこまでも続いていた。商業区……さっきあの坂の上から見た、人が沢山いる場所だ。初めて足を踏み入れる空間に、少し緊張しながら兄さんから降りて、縋るように手綱をぎゅっと握る。
《リア、必ず傍にいる。恐れずとも良い》
《……ありがとう、兄さん》
兄さんだって、人間が沢山いるところは初めてに違いないのに、心強い言葉をくれてふっと詰まっていた息が抜ける。人通りが一気に増えた大通りを歩けば、やっぱりダイアウルフが珍しいのか視線が突き刺さるけど、兄さんもナジークもフィニアス師もいるのだと思えば怖いものなんて何もなかった。
顔をあげて歩けば、見たこともない色の鮮やかな天幕が目に飛び込んできて、歩を進めれば進めるほどに賑やかな呼び込みの声と、人々のざわめきが弾けては混ざり合う。竪琴とはまるで違う、パキリとした音の弦楽器が軽快に響き、行き交う人々の足取りも心なしかそれに少しずつ乗せられていく。
「北の市・マナティアです。王都の中では、最も市民の生活に近い場所にある市場と言えるでしょう。最初に一番活気のある南の市に連れて行くと、目を回しそうでしたので前哨戦です」
「これで一番じゃないんですかっ?」
信じられない思いで目の前の人混みを見つめるけど、これより賑やかな場所なんて考えられそうもなかった。私とは違う色の肌をした人、聞いたことのない抑揚で話される言葉、あちこちから漂って来る食べ物の匂いと、むわりと迫ってくる人間の熱気。
「凄い……」
「リア」
思わずボウっとしてしまう私に、短く名前を呼ばれてハッとする。そうだ、人混みでは立ち止まらない。フィニアス師の教えを心の中で繰り返しながら、師の後を追いかける、はずだった。
「そこのお嬢ちゃん!秘伝のタレでとっぷり漬け込んだ、焼き立ての肉串はどうだい!お安くしとくよっ、賤貨3枚!」
「……おにく」
「……子供ですか、君は」
溜め息と共に影が差して、気怠げにフィニアス師が腕を伸ばした。
「賤貨2枚。子供相手に吹っ掛けないで頂けますか」
「ガッハッハ!社会勉強だ、社会勉強!はいよ賤貨2枚っ、まいどありっ!」
輝く笑顔のおじさんが、タレのたっぷりとついた肉串を渡してくれる。私はおじさんとフィニアス師を交互に見ながら、おずおずとそれを受け取った。
「えと、マスター」
「……どうぞ。燃費の悪い君の事ですから、この人混みでは腹も空くでしょう。私はこんな早い時間から、そのように味の濃い食べ物を口にする趣味はありませんので」
「ありがとうございます、マスター!」
元気よくお礼を言って、はふはふしながら焼きたてのお肉にかぶりつく。
「おいひいれふ……!」
いつも食べている新鮮なお肉には及ばないけれど、絶対に食べたことのない味がする。秘伝のタレとやらに漬け込んであるからなのか、見た目よりずっと柔らかいお肉からじゅわりとアツアツの肉汁があふれ出して、甘辛いのにお肉のおいしさはそのまま。
(これ、お家で作るの難しそう……)
タレを作るのに、魔法使い流ズルっこをしたとしても、ちょっとの量を作るのはもったいない感じだ。それも香辛料だけじゃなくって、何度も色んなお肉の骨とかを漬け込んで、こんな味になってるみたいに複雑な味がする。
「屋台の食べ物だけでも、この街の人間の食に賭ける熱意が伝わるのでは?」
とろけそうなほっぺたを押さえながら、フィニアス師の言葉にうんうんと頷く。
《俺ニもクレ》
《うん……兄さんは?》
《……味付きは、遠慮しておく》
との事で、仲良くナジークとお肉を分け合う。
「丁度良いですし、君に買い物の仕方を教えておきましょう。あの村では、商売と言う概念が無さそうですからね」
「確かに、必要なものは大抵ライが持ってきてくれてたので」
「あの超絶過保護男……さすが、と言うべきでしょうか。ともあれ、先程の買い物で気付いたことは?」
フィニアス師とおじさんのやり取りを思い返して、私はピンと来た。
「最初は賤貨3枚だったのが、フィニアス師の言葉で2枚になりました!」
《精神干渉系ノ魔法カ、えげつナいナ》
「えっ、精神干渉……」
私が顔を引きつらせると、フィニアス師はギロリとナジークを睨みながら言葉を続けた。
「そこの鴉が何を吹き込んだのかは大体の想像がつきますが、断じて魔法・魔術の類ではなく、初歩的な交渉術で『値切り』と呼ばれるものです。市での決まり事のようなものですよ。基本的なやり取りとしては、売り手が相場より高く吹っ掛け、買い手が相場より安くしようと粘り、双方が合意できる妥協点……多くの場合は『相場』に落ち着ける事で売買を成立させると言った所でしょうか」




