第7話 密約
森を駆け抜け、石造りの城にある執務室の大きなバルコニーにふわりと降り立つと、ジークヴァルトは部屋へ続くガラス扉を開けながら、従者の名を呼んだ。
「戻ったぞ、キース」
壁一面に書棚が備え付けられた広々とした部屋には、床全面に毛足の長い美しい絨毯が敷かれ、普通に歩いても物音など立たない。
それは充分にわかっているが、それでもジークヴァルトは、横抱きにした腕の中の存在を気遣い、普段よりも何倍も丁寧にそっと歩いた。
名を呼ばれ、ジークヴァルトの執務机の隣、もう一台置かれた机で書類の山と戦っていた、鮮やかな青髪のすらりとした男性──キースが、走らせていたペンを置き、立ち上がりながら返事をした。
「お帰りなさいませ、陛下。気分転換はできましたか? 書類仕事がお嫌いなのは存じていますが、脱走もそろそろ控えて頂かないと、仕事が終わりま……せ、ん……」
おもむろに主人に視線を向けたキースは、言葉の途中で目を見開いて固まった。
元々神経質そうな堅い印象の顔立ちの彼だが、今は驚きのあまり、さらにその顔が強張っている。
「え……それ、どうしたんですか?」
キースは驚愕の表情のまま、ジークヴァルトと、彼の腕の中に大切そうに横抱きにされ瞳を閉じているラーラマリーに、何度も視線を行き来させた。
ジークヴァルトは嬉しそうに微笑みながら、意識のないラーラマリーを見つめた。
「森で拾ってきた」
「拾ってきたって……それ、人間ですよね?」
「それじゃない。ラーラマリーだ。森で魔物に追いかけられていたのを助けた」
「で、その後、その人間は助けて貰ったくせに陛下を見て恐怖で気絶した、と。そういう事ですか」
瞳を冷たく細め、ラーラマリーを見ながら吐き捨てるようにキースが言うと、ジークヴァルトが噛み付くように言った。
「やめろ! 彼女は違う!」
珍しく語気を強めたジークヴァルト睨まれ、キースは思わず肩を震わせた。
奥歯を噛み締め、逃げ出したいと叫ぶ本能をグッと押し込めて聞き返す。
「違う……とは、どういう事です?」
「ラーラマリーは、俺を怖がらなかった。怯えも畏れもなかったし、何なら、俺のことをただの人間だと思っているらしい」
「ジークヴァルト陛下を……怖がらない?」
キースは困惑し、眉間の皺を深くした。
「信じられません……我々を……竜人を前に恐怖を感じないなんて……ましてや、竜王である陛下を前に怖がらない人間なんて、ありえません」
そう言葉にしながら、酷く狼狽えたキースの銀の瞳は、滲む魔力で輝きが増し、瞳孔が三日月のように縦に細く伸びた。
「人間は我々の魔力を感じ取って、竜人が目の前に立つだけで恐怖に包まれる筈です。特に強大な魔力を持つ陛下は、同じ竜人ですらまともに共に過ごす事ができないというのに、こんな娘が、陛下の前で平気でいられる筈がない。私が共に過ごせるのだって、陛下と主従の魔法契約を交わしているからなんですよ? なのに、こんな人間の娘が?」
動揺するキースを見もせず、ジークヴァルトは口端を上げ、腕の中のラーラマリーに目を細めた。
「だが、本当だ」
キッパリと言い切ったジークヴァルトは、部屋の中央にある大きく上質なソファにそっとラーラマリーを降ろし寝かせた。
彼女の頭のすぐ横、空いている場所に腰掛けると、淡い琥珀色の髪をひと撫でした。
ジークヴァルトの楽しそうな表情から、彼が本当のことを言っていると理解したキースは、滲んでいた魔力を霧散させた。
「百歩譲ってそうだったとして、では何故、彼女は気絶しているんです? 疲れて眠っているだけ、という訳ではないんですよね?」
キースに問われ、ジークヴァルトは気まずそうに視線を彷徨わせると、渋々白状した。
「あー……その……怯えられなかったのが嬉しすぎて……少し驚かせてしまったらしい。俺としては、気を遣って、空は飛ばずに走って城に連れて来ようと思ったんだが……それでも人間には刺激が強かったようだ。気付いたら……気絶していた」
「はあ……それは彼女も気の毒でしたね。それで、これからどうするおつもりで?」
「城で面倒を見る」
「ここでですか!?」
ジークヴァルトは先程のラーラマリーとの出会いを思い出し、笑いを堪え、驚くキースに楽しげに言った。
「ああ。この娘、俺に何て言ったと思う? 花喰い竜を……俺を殺しに来たと言ったんだぞ」
「な……!」
キースは絶句した。
花喰い竜──それは、大昔に人間達がジークヴァルトに付けた呼び名だった。
「花喰い竜を殺す……!? 何故、そんな恩知らずな話が出るのですか!」
キースの憤りを気にも止めず、ジークヴァルトは笑って続けた。
「何か事情はありそうだったが、詳しくは知らん。まあそのうち、話したくなれば話すだろう。……俺の目の前で、怯えもせずに殺すと宣言された。こんな面白い人間に会うのは、あいつ以来だ」
破顔したジークヴァルトを見て、キースは眉を下げ、僅かに苦し気に瞳を揺らした。
「あいつ……ネロ様の事ですか」
「そうだ。ふふ……こんなに楽しいのは、本当に久しぶりだ。キース、メルナリッサを呼んでくれ。急ぎ彼女の部屋を用意するように、と。直に目を覚ますだろうが、柔らかな寝台で寝かせてやりたい」
「……わかりました」
言いたい事は山程あったが、ジークヴァルトがあまりにも嬉しそうにラーラマリーを見つめて笑っているので、キースはそれらの言葉を全て飲み込んで頷いた。
「──ああ、それから」
部屋を出て行こうとするキースを、ジークヴァルトが呼び止めた。
「俺達が竜人である事は、ラーラマリーには『決して言うな』。俺のことも『陛下とは呼ぶな』。彼女には、俺はただの森の番人だと伝えている。いいな」
瞳孔が縦に伸びた金の瞳でじっと見据えられ、キースはゴクリと喉を鳴らすと、突然視線で威圧された事に抗議するように、わざとらしく肩をすくめた。
「わざわざ契約魔法を使って命令しないで下さい。言いませんよ。ただ、彼女が自分で気付く分には、知りませんからね」
それだけ言ってキースが出ていくと、しんと静まった部屋で、ジークヴァルトは瞼を閉じたままのラーラマリーの頬にそっと触れた。
「ラーラマリー……早く目を覚ませ。早く、俺と遊ぼう」
微笑んだまま落とされた、切望するようなその呟きは、誰の耳にも届く事なく空気の中に溶けて消えた。




