第5話 竜の森と黒と赤
「……もう、時間ですね」
濃紺の空の端が微かに金色に染まり始めた夜明け。
竜の森の前で、ラーラマリーは少し離れて立つカイザックに、できるだけ明るくそう言った。
彼女の後ろ、僅か数歩先には淡く輝く結界が穏やかな波のように揺らめいている。
彼女が袖を通しているのは、ベルホルトから渡された服。
神官服に似たゆったりとした袖口に長い裾の白い衣は、生地に銀糸が織り込まれているのか、動くたびに揺れる煌めきが、竜が好んで食べるというリュスタールの花弁に似ている。
生贄が竜の花嫁だとでも言いたいのか、複雑に編まれた淡い琥珀色の髪には、冠の形になるように沢山の小さな朝摘みのリュスタールが飾られ、首までをすっぽりと覆う薄いヴェールが掛けられていた。
「カイザック様。五日間、お世話になりました」
薄く微笑みながら名を呼ばれ、カイザックは眉根を寄せた。
王城に呼び出されベルホルトと話をしたあの日から、いよいよ森を目の前に立つこの時まで、カイザックは『国外での重要任務を控えた令嬢の護衛』という名の監視として、ずっとラーラマリーの側に控えていた。
ラーラマリーはどこから見てもただの善良な娘だ。
だが彼女は国のため、犠牲になって貰わねばならない。
言葉を交わして情を抱き、心を揺らしたくないのだろう。
カイザックは話し掛けても殆ど会話を続けてはくれなかったが、ベルホルトを守る近衛騎士隊の隊長であり、王へ心底忠誠を誓っていることはわかった。
森を前に気丈に振る舞うラーラマリーを見て、カイザックは初めてその心の内を溢した。
「……私は貴女に何もして差し上げられません。世話になったなど……私が受け取って良い言葉ではない。この五日間、貴女のことを見ていましたが、本当に……心苦しいとしか言いようがありません」
今日までの時間、カイザックが見ていた限り、ラーラマリーは普段通り明るく笑って家族と過ごしていた。
寝台に横たわる弟の隣でおしゃべりをしながら、手元に残っていた翻訳の仕事を丁寧にこなし、母と並んで食事を作る。
ラーラマリーは、ルイスの治療を優先させたいからと、十八歳の成人を祝うデピュタントに出たきり、華やかな社交の場に参加したことはない。
王から依頼された仕事で暫く国を離れるからと言って、子どもの頃以来、久しぶりに庭で父とダンスをした。
散歩と称して馴染みの皆の顔を見て周り、心が不安でどうにかなりそうな時は、庭の木に登ってこっそり泣いた。
泣き叫び暴言を吐くことも、逃亡を図ることも、自棄になることもなく、ただただ朗らかに、丁寧に残された時間を過ごすラーラマリーを、カイザックはずっと見ていた。
朝日が登り始めた竜の森の前には、この僅かな時間だけ人払いをしているため、二人の他には誰もいない。
沈黙が流れ、カイザックが小さく息を吐いた。
「貴女をお助けすることはできません。それを許して頂こうとも思いません。王命を受け入れて下さったこと……心から感謝申し上げます」
片膝をつき、胸に手を当てて最上級の騎士の礼をとるカイザックに、ラーラマリーは困ったように笑った。
「最後だから言いますけど……私は別に、王命を受け入れたわけではありません」
その言葉でカイザックが視線を鋭くし眉根を寄せたのを見て、ラーラマリーは言葉を重ねた。
「逃げようってことではないですよ。ちゃんと森には行きます。でも──」
風が吹き、ヴェールがふわりと揺れる。
下から彼女を見上げていたカイザックから見えたのは、強い輝きを宿したラーラマリーの水色の瞳だった。
「でも私は、大人しく生贄になんてなわないわ。花喰い竜を殺して、絶対に家に帰ります!」
ニッと歯を見せ笑ってみせると、ヴェールを掴んで脱ぎ捨てた。
「竜を……殺す?」
呆気に取られているカイザックに、ラーラマリーは自らを鼓舞するように、明るく大きな声で言った。
「竜の心臓を奪って、絶対に戻って来ます! ルイスの病気も私が治します! それまで、家族を……弟を宜しくお願いしますね。それじゃあ──行ってきます!」
ラーラマリーはカイザックの返事も待たずに、白い衣を靡かせながらくるりと軽やかに振り返ると、そのままの勢いで息を止めながら、輝く結界へ飛び込んだ。
温かな湯に浸っているような、不思議と心地良い感覚が全身を通り過ぎ、ラーラマリーはいとも簡単に結界の中に入ることが出来た。
「本当に……通れた」
背の高い木々が光を遮る深い森に一歩足を踏み入れ、立ち止まったラーラマリーは純粋な驚きに目を丸くした。
振り返ると、輝く光のカーテンの向こう側に薄らと見える、彼女と同じように驚きの表情を浮かべているカイザックと目が合った。
少し離れた場所で深々と頭を下げているカイザックを見ながら、ラーラマリーは彼との間に揺らめく結界に手を伸ばしてみた。
そっと触れた瞬間、くすぐったいとでも言うように、触れた部分の結界が僅かに震え、キラキラと表面に波紋が広がった。
「やっぱり、中からは出られないのね」
竜の森の結界は、膨大な魔力と難解な解呪の魔法を駆使しなければ入ることはできない。
だが例外として、王家の血を引く人間のみ、入ることができると説明されていた。
もちろん、国家機密として口外はできない。
しかし竜を閉じ込めるための結界は、入ることはできても出る事は叶わず、一度中に入って出て来られた者はいないとの話だった。
いつまでもラーラマリーの様子を見守っていそうなカイザックを解放するため、ぺこりと軽く会釈をすると、ラーラマリーは森の奥へと歩き始めた。
「ここまで来れば、もういいかしら」
後ろを振り返ったラーラマリーからは、カイザックはもちろん森を囲む結界も見えず、ただ鬱蒼とした森が広がっているだけだ。
人目がなくなったのを確認して立ち止まると、張り出した太い木の根に片足を乗せ、ラーラマリーは長い衣の裾を思いっきりたくし上げた。
日に焼けていない白い足が露わになる。
「あなただけが頼りだからね」
そう言って視線を落とした彼女の太腿には、伯爵家からこっそり持ち出していた短剣が括り付けられていた。
きつく剣を縛っていた紐を解き、装飾も何もない無骨な黒い鞘からずしりと重みのある銀の剣を抜くと、動きやすいように長い衣の裾を膝の辺りまでザクザクと切る。
ゆったりとした袖は、剣を括っていた紐で邪魔にならないように腕に沿うように巻きつけて縛り、鞘はその場に捨てた。
竜を殺すまで、自分の身は自分で守るしかない。
いつ何時も、森にいる限りは、剣を鞘に収める瞬間など来ないのだ。
「花喰い竜は、森の奥にいるのよね。このまますぐに向かう……? それより、暫く森に隠れながら、ここに慣れた方がいいかしら」
ラーラマリーは、森の中をゆっくり進みながら、一人で話し続けていた。
声を出し続けていなければ、緊張と恐怖で押し潰されてしまいそうだったのだ。
家族の元へ戻るため戦うと決めてはいたが、本当は叫び出したいくらい心細かったし、今すぐに逃げ出したい程、怖かった。
震え出しそうになる手は、剣を握りしめることで必死に抑えた。
恐怖心のせいなのか、森に入ってからずっと僅かに息苦しさを感じる。
緊張しっぱなしで極度の疲労を感じたラーラマリーは、暫く歩いた後、少し休もうと、背の低い草が茂る少し開けた場所で立ち止まった。
──その時。
《嬉しいなあ》
森の奥、木々の影の暗闇から、笑いを含んだ不気味な声がした。
ラーラマリーは思わず身を固くして、声のした方へ剣を向けた。
「……誰か、いるの……?」
恐怖心を隠すように、掠れる声で尋ねる。
ざわりと暗闇が揺れたような気がして、よく見定めようと目を細め、ごくりと喉を鳴らした。
暗闇の中から酷薄な笑い声と共にその声の主が姿を現すと、ラーラマリーは目を見張った。
現れたのは、その闇をそのまま人の形にしたような、得体の知れない黒い生き物だった。
しかも、その黒い生き物が形取っている姿はまるで──。
「……ベルホルト陛下……?」
思わず口にした名に黒い生き物は返事もせず、心底楽しそうに言った。
《嬉しいなあ。『空の器』をこの手で殺せるなんて。最高だなあ。──なあ、ラーラマリー》
愉悦の滲む声から一転し、恐ろしい程に低くはっきりと名を呼ばれ、ラーラマリーはゾッとした。
それと同時に、黒いベルホルトの後ろの闇がざわりと震え、地面を這うように広がった影がぶわりと立ち上りながら幾人もの人の形をとり始めた。
「ひっ!!」
ラーラマリーは小さく悲鳴を上げると、思うより先にそれらに背を向けて走り出していた。
(あれは何? あれは何!? あれは何!!?)
混乱するラーラマリーは、恐怖で涙を滲ませながら必死で走った。
何度も木の根に足を取られそうになりながらも、追いかけてくる人の形をした黒い影から逃げ続ける。
《鬼ごっこかー。楽しいなあ。『空の器』が怯えている姿は最高だなあ》
迫ってくる悍ましい声を後ろに聞きながら息を切らすラーラマリーは、とうとう足をもつれさせ、勢いをそのままに大きく体を前に傾けた。
(だめ……!! 転ぶ……!!)
ラーラマリーは衝撃に備えぎゅっと固く目を瞑った。
(追いつかれる……もう駄目だわ!!)
そう思ったその瞬間、ふわりと大きな何かに優しく体を抱き留められ、ラーラマリーの耳元で静かな低い声が響いた。
「──大人しく地に還れ」
言葉と同時に、ラーラマリーの周囲があたたかくなり、キラキラと輝く光が広がった。
それは、竜の森の結界の光によく似ていた。
やがて光が消え、温もりに包まれたままちらと後ろを振り返ると、彼女を追いかけてきていた黒い生き物達も消えていた。
森が元の静けさを取り戻すと、徐々に心を落ち着かせたラーラマリーは、ようやく、自分が男性の腕に抱き留められ、その人物にしがみついていることに気がついた。
焦ったラーラマリーは勢い良く突き放すようにその胸から抜け出すと、動揺もそのままに声を振り絞った。
「あ、あの! 助けて頂きありがとうございました! 本当にもう駄目か、と……あの……あなたは……?」
言葉の途中で、ラーラマリーは勢いを失った。
安堵と感謝でいっぱいだった心に、疑問が広がったのだ。
(どういうこと……? 竜の森に、人がいるなんて)
ラーラマリーは目の間に立つ人物を、目を丸くしてじっと見つめた。
腰まで伸びる、鮮やかな真紅の髪を背に流した長身の男性が、美しい金色の瞳で彼女を見ていた。




