第4話 決意と影
「……不敬には問わない。聞きたい事や言いたい事があれば、全て聞こう」
ベルホルトが静かに言う。
ラーラマリーは二人の男の間で視線を揺らした。
恐怖から逃れたい一心で、声を振り絞って尋ねる。
「な……なぜですか…? ……冗談ではないのですか? い、生贄だなんて……」
どうか冗談であって欲しい。
ラーラマリーはそう強く願ったが、顔色の悪いベルホルトと、唇を引き結んだままの騎士の様子は、告げられた内容が覆らない事を深く突きつけてくるだけだった。
動揺するラーラマリーに言い聞かせるよう、ベルホルトはゆっくりと言葉を発した。
「……お告げがあったのだ。其方を生贄として捧げるようにと、花喰い竜からのお告げが。……私だけではない。神殿長や神官達も、声を聞いたと言っている」
「お告げ……? お告げだなんて……そんなものが、本当に……?」
ラーラマリーは動揺そのままに眉を深く寄せた。
フォレスティア王国は、王都の大神殿をはじめ国中に神殿が建てられている。
それは、他国にあるような神や精霊を祀るためのものではない。
結界に閉じ込められた花喰い竜の怒りを鎮めるための祈りの場所だった。
だが、竜から直接お告げがあるなんて話は、聞いた事がない。
「本当だ。正式に公表はしていないが……歴代の国王達は、過去に何度もお告げを受けている。竜のための神殿を建てるようになったのも、リュスタールの花を捧げるようになったのも、全て、始まりはお告げからだった」
「そんな……」
リュスタールは、王国民にとって特別な花だ。
背が低く、花は親指の爪ほどの大きさで、ユリの花に銀粉をまぶしたような美しいそれは、フォレスティア王国に多く見られ、季節を問わずいつでも咲いており、毒がある。
そしてそれは、花喰い竜が好んで食べ、魔物達に集めさせようとしていると伝わる花だった。
王国では、悪い事や不安な事を避けたい時、神殿にリュスタールの花を持って行き祈りを捧げる。
良くない事が起こるのは、閉じ込められた花喰い竜の怒りがもたらす呪いのせいだと言われているからだ。
ラーラマリー自身も、領地の神殿には何度も花を持って行った事がある。
だが、それは単なる習慣でしかなく、竜の存在すらどこか童話の世界の延長のように感じていたし、竜の声が聞こえるだなんて、突然受け入れられる話ではなかった。
「ですが……そんな話、いきなり信じられません。それに、なぜ私なのですか?」
「……竜は、王家の血を持つ娘を望んでいると言った。しかも、それは其方の事だとはっきりと告げられたのだ。お告げや生贄の話が公になれば、王国中が不安と混乱に陥るだろう。限られた者しか、この話は知らない。信じられないだろうが……全て事実だ。嘘偽りはない」
ベルホルトの言葉で、ラーラマリーはこの謁見に感じていた違和感の正体に気付いた。
(ああ……だから、通されたのがこの部屋なのね。謁見の間では、公式な記録が残ってしまうし、人払いもできない。廊下を何度も何度も曲がって、ここに来るまで殆ど誰にも合わなかったから、来賓用の道ですらなかったはず。朝早くに呼び出されたのも、今この時間しか、陛下に抜け出せる時間がなかったんだわ)
ベルホルトの顔に疲労が滲んでいるのは、きっとこの時間を捻出するために無理をしたのだ。
騎士が威圧的に感じたのは、ラーラマリーの運命を知っており「民を守る」という矜持に背く葛藤と、彼女を確実に連れ出さねばならないという緊張のためだろう。
それを理解して彼を見ると、確かに彼の瞳にあるのは厳しさや傲慢さではなく、動揺と苦しさであり、自らを律するように奥歯を噛み締め、拳を握りしめていた。
(もう、どうしようもない事なのね……)
カーテンが締め切られた貴賓室を茫然と見回し、ラーラマリーは薄くため息を吐いた。
(王家の血……まさかこんな場面で、それが問題になるなんて、思いもしなかったな)
ベルホルトから「王家の血」と言われたことで、これは抗えない運命なのだと、妙に納得した。
不安で叫び出したい程の心とは別に、頭は妙に冷静だった。
ここで取り乱したところで、王命は下されている。
しかも竜からのご指名とあれば、逃げることなど到底無理なのだろう。
ラーラマリーは思った。
(……不安な時は、楽しいことを考えよう……)
視線を落とし、ゆっくり瞳を閉じる。
「ラーラマリー」
穏やかな声と共にまず瞼の裏に浮かんだのは、微笑む父と、頭を撫でる大きな手。
「ラーラ」
優しく名を呼ばれ、次に浮かんだのは、水色の瞳を細める柔らかな母の温もり。
「姉上!!」
そして最後に浮かんだのは、病に苦しむ事なく、頬を輝かせて笑う、弟ルイスの顔だった。
「……家族には、秘密にして頂けるんでしょうか」
ラーラマリーは目を開けると、ベルホルトに視線を向けた。
(王命を知れば……みんなきっと悲しむ。それに、反対して引き止めようとするわ。そんなことすれば、私だけじゃなくて……家族がどうなるかもわからない。そんなの、絶対いや)
彼女の心の内を感じ取ったのだろう。
ベルホルトは小さく頷くと、静かに言った。
「ああ。このことは……元から家族に対しても口外を禁じるつもりだった。其方は、領地で翻訳の仕事をしていると聞いている。……外務大臣の補佐が足りず、其方には急遽、五日後に隣国へ共に行ってもらうことになった。今日はそのための口頭面談と引き継ぎ、指導のための呼び出しだった。貿易に関する機密があるため、一人での呼び出しだった。そして一年後、帰国途中に馬車が事故に遭い、亡き者になった。……そういうことにする予定だ」
なるほど、とラーラマリーはゆっくりと瞬きで返事をする。
突然消えるよりは、距離を置き、少しずつ存在が薄れ死んだことにした方が、家族への負担は少ないはずだ。
一年間、筆跡を真似て、ラーラマリーが存在するかのような手紙の偽装も行うと言われた。
「私が生贄になることで、我が家には報奨金などは頂けるんでしょうか」
「渡し方は遠回しにはなるが……まず其方の婚約者側から、婚約破棄を申し出て貰う。理由は王家の遠縁の娘と婚姻を結ぶため。破棄の違約金は、書類上は子爵家から支払われる。だが実際にはこちらが肩代わりし、報奨金とまとめて王家が支払う。──カイザック、書類を」
名を呼ばれ、隣でじっと立つ近衛騎士──カイザックが、胸元から小さく畳まれた紙を一枚取り出し、開いてラーラマリーに渡した。
「コルタヴィア伯爵令嬢、こちらが今お伝えした内容と報奨金の金額です。さらにご両親には、王家から貴女に別の縁をご紹介するとお伝えします。──ご確認頂けましたら、処分しますのでお返し下さい」
ラーラマリーは素早くそこにある文字に目を通し、莫大な金額を見て安堵した。
紙をカイザックに返しながら小さく答えた。
「……この金額があれば、充分、弟の病気の治療ができます。……ありがとうございます」
婚約者とは、遠い親戚で身辺に問題がないということで、顔合わせ依頼殆ど会ったことはない。
形式的な手紙は何度か交わしたが、恋や愛があったかと問われれば、そんなものはなかった。
婚約が破棄されたとしても、子爵家にも伯爵家にも、ラーラマリー個人にも痛手はない。
さらに、提示された金額があれば、この先十五年程は金銭的な心配をせずに、ルイスは治療を受けられる。
「……礼を言わなければならないのは、こちらの方だ。報奨金の支払いに加え、弟は大神殿で保護し治療にあたるよう手配する。今よりは格段に、病状は良くなるはずだ」
ベルホルトに言われ、ラーラマリーはぼんやりと彼の水色の瞳を眺めた。
自分の消息に関しても、家族の安全に関しても、婚約者のことも、計画は完成している。
もう何も、質問はなかった。
(思い残すことなく、安心して死ねということね)
あまりの準備の良さに、ラーラマリーは思わず微かに笑ってしまっていた。
それと同時に、先程までの不安や恐怖は薄れ、心は怒りと決意に燃え始めていた。
「……わかりました」
ラーラマリーは、背筋を伸ばし、できるだけ優雅にカーテシーをしてみせた。
(震えて泣くような惨めな姿なんて、見せたくない)
頭を低くしたまま、凛とした大きな声で宣言した。
「王国のため、生贄になること──しかと承知致しました。竜の森へ行き、この命をお捧げ致します」
それは、自らの運命を受け入れた、清い心を持つ淑女の鏡に見えただろう。
だが、ラーラマリーの心は、それとは全く違う言葉を叫んでいた。
絶望の中で思い浮かべた家族の顔で、彼女の心は決まっていた。
(私の命は、私のものよ! 花喰い竜に命を捧げるなんて冗談じゃない。私は絶対帰る。殺されるくらいなら、私が花喰い竜を殺して、大好きな家に──家族の所に帰ってみせる!)
生贄になれという残酷な命令に、ラーラマリーは黙って従う気はなかった。
彼女の澄んだ水色の瞳は、光を失うことなく輝きを強め、静かな闘志に燃えていた。
***
ラーラマリーをカイザックに任せ、ベルホルトは一人、王宮の廊下を歩いていた。
角を曲がれば、待機させていた他の近衛と合流する。
唇を引き結び、重たい心のまま足を急がせていると、ふと、底意地の悪そうなじっとりとした低い声が彼を呼び止めた。
《──そんなに怖い顔をするなよ、ベルホルト》
「──!」
ベルホルトは顔を青ざめさせ、その場でぴたりと歩みを止めた。
声の主を探すことはない。
何故ならその声は、ベルホルトの影の中から囁いていたからだ。
「……これで満足か……花喰い竜よ」
顔を強張らせ、正面を見つめたまま呟くと、ゆらりと影から闇が立ち上り、ベルホルトの背中にのし掛かるように纏わり付いた。
《ああ、大満足だ。私の願いを叶えてくれてありがとう。よかったなあ、よかったなあ。ラーラマリーがお前の嘘に気付かなくて。これで、お前を脅かす存在が、また一人消えるぞ。嬉しいなあ》
影はさも愉快だと言うように、わざとらしく声を上擦らせた。
ベルホルトを捕えるように、広がった闇がザワザワと肌を這う。
《私の望みは、お前の望みだ、ベルホルト。よかったなあ。ラーラマリーは気付かなかったぞ。お前が偽物の王だと言うことに》
「やめてくれ!!」
ベルホルトが思わず唸るように言うと、影はぴたりと動きを止め、耳元で不気味に笑いながら囁いた。
《そう怯えるな。私の言う通りにすれば、全て上手くいく。次は弟だ。早く神殿に連れて来い。ああ──楽しみだなあ》
影は声に愉悦を滲ませながら、どぷんと音を立てて床に沈んだ。
振り返ったベルホルトの影は、彼の動きを忠実に真似る、普段通りのただの影に戻っていた。




