第2話 竜の森と結界
「できればすぐに出発したいですが、ご準備もあるでしょう。一時間だけお待ちしますので、お急ぎ下さい」
丁寧に言われていはいるが、目の前の男達の言葉はもはや命令だった。
「わ……わかりました」
狼狽えながらも何とか返事をしたラーラマリーは、一先ず男達を応接室へ招こうとしたが、二人はそれを外で待つと言って断った。
玄関の扉を閉めると、ラーラマリーは急に物凄い緊張に襲われ、震える両手で手紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
(どうして、私がお城へ……?)
ラーラマリーには、突然城へ──しかも国王から呼び出されるような心当たりはない。
何か良い話があるならば、事前に父宛に知らせがあったり、迎えに来る男達の様子ももっと朗らかな筈だ。
心の中に広がった緊張と不安は、そのまま大きな恐怖へと姿を変えた。
ルイスを奥にある彼の部屋に送り届けた父と母は、玄関にやって来ると、顔を青ざめさせたラーラマリーに駆け寄った。
「どうしたの、ラーラ。真っ青じゃない」
「誰が来ていたんだ?」
心配そうに二人に尋ねられ、ラーラマリーは詳細を説明した。
父と母も動揺したが、ラーラマリーを不安にさせないよう、努めて冷静に彼女に声を掛けた。
「なぜ急に城に呼ばれたか詳細はわからないが、悪い事かどうかはまだ決まっていない。一先ず出発の準備をしておいで」
「そうね、もうすぐ雇っている皆も来てくれるし、私達もついて行くから、大丈夫よ」
母が頷いてラーラマリーを部屋へ連れて行こうとした時、話しながら改めて手紙を見つめていた父が呼び止めた。
「いや、ちょっと待て」
低く言われ、ラーラマリーと母はぴたりと動きを止めた。
「あなた、どうしたの?」
「駄目だ……書状には、ラーラ一人で来るようにと書かれている」
「何ですって?」
母は思わず顔を顰めた。
年頃の令嬢を、侍女や家族の同行なしに、しかも早朝突然呼び出すなど、通常ならありえない。
父と母は困惑を通り越し強い憤りを覚えたが、これが王命であり、出発の時間が迫っている以上、従わざるを得なかった。
「それじゃあ、行ってきます」
来訪した男達に、身支度する以外は何も持たなくて良いと言われたため、ラーラマリーはその通りに、城へ行くのにギリギリ失礼にならないシンプルな他所行きのドレスに着替え、玄関の前で、心配そうな両親に別れを告げた。
少しでも見栄えがするようにと、ハーフアップに急いで編み込んだ髪が、数本どこかに引っ掛かっているのか、変に引っ張られてチクリと痛い。
いつの間にか門の前に手配されていた馬車に男達と乗り込むと、馬達はすぐに走り出した。
ラーラマリーは不安な心を落ち着かせるため、馬車の窓から、どんどんと遠くなる伯爵家の庭の、大好きな大きな高い木を見つめた。
コルタヴィア伯爵領は王都から少し離れたのどかな場所で、ラーラマリーは幼い頃から、庭の一番背の高い木に登り、そこから景色を眺めるのが大好きだった。
母にはよく「お転婆すぎる」と呆れられるが、そこからの眺めの話をするとルイスが喜ぶのもあって、今でもそれはやめられなかった。
(不安なときは、楽しいことを考えよう……)
ラーラマリーは小さくなっていく木を見つめながら、今の状況とは全く気分を変えるため、子どもの頃の記憶を無理やり引っ張り出した。
「ラーラマリーったら! また木に登ってるわね? もう、早く降りて来なさい」
母に優しく叱られ、するすると木から降りてきた幼いラーラマリーは、地面の目前でぴょんと飛び降りると、母に駆け寄って抱きついた。
「お母様!!」
「まあ、ラーラ。ドレスも顔も汚れているじゃない。あなたは王家の血を引いているのよ? そろそろ、もう少しお上品に振る舞ってもいいんじゃないかしら?」
「でも、『おうけのち』をひいているのは、お母様も一緒でしょ? お母様だって、この前、お父様に叱られるほど、川遊びでびしょ濡れになってはしゃいでたわ。私だって、木に登ってもいいはずよ」
ニコニコと笑ってそういうラーラマリーの頬の汚れを、母は困ったように微笑みながら拭った。
ラーラマリーは王家の血を引いている。
と言っても、二百年も昔に公爵家に降嫁した姫の、その子どもの、子どもの──さらに何世代も跨いで血を引いているに過ぎず、王位争いなど全く関係がない弱小貴族のコルタヴィア家にとって、王族など遥かに遠い存在だ。
ラーラマリーにはそんなことよりも、木の上に登って見える景色の遥か先にある結界の方が重要だった。
「お母様、東の森って、本当に竜が住んでるの? あのキラキラ光る結界には、どうしても入れないの?」
ラーラマリーは、東の空を指差した。
王都の東側の城壁の外には、広大な森が広がっており、『竜の森』と呼ばれている。
森の周辺には、キラキラと輝く淡い光のカーテンが空から地上へと伸びており、オーロラのように漂うそれは、森と人里とを分け、竜を閉じ込めるための結界だった。
さすがに木に登っても王都や森は見えないが、天高くゆらゆらと光りながら浮かぶ結界だけは遙か遠くに見ることができ、ラーラマリーはいつも暇さえあれば木に登ってそれを眺めていた。
「そうよ。魔力をいっぱい持っている人しか入れないの。私達では一生無理ね」
母は肩を竦めて笑った。
人間は皆、魔力を持っている。
だがその量は決して多くはなく、魔法を扱える程の魔力を持つ人間は、王国の中でもほんの一握り。
ただ血液と同じように体内を循環するだけのそれは、殆どの人間にとっては無用の物だった。
魔法を扱える程の飛び抜けた魔力量を持つかどうかは、神殿の水晶に触れ、玉が光るかどうかで見分けられる。
幼いラーラマリーは才能が発見されることを物凄く期待していたが、水晶は全く光らなかった。
「たくさん魔力があれば、大人になったら魔法が使えたのに」
がっかりして大泣きしながら帰宅し、それを見て驚いたルイスまで一緒に大泣きしたのは、今となっては微笑ましい思い出だ。
記憶の中の母が、小さなラーラマリーにわざと恐ろしい声音を出した。
「竜は本当にいるわよ。知っているでしょう? 森には魔物を率いる恐ろしい『花喰い竜』が住んでいるの。見たことがあるという騎士様と話したことがあるわ。目が合うだけで、心臓が止まるかと思うほど恐ろしいそうよ」
「えー! でもお花を食べるんだよね? 可愛い竜かもしれなよ?」
「いいえ、恐ろしい竜よ。自分が食べる花を集めさせるために、魔物を率いて人間の街を襲おうとしているのよ。魔物は見たことあるでしょう?」
母に尋ねられ、ラーラマリーは急に恐ろしくなって笑顔が消えた。
以前、領地の端の森で遭遇した魔物の事を思い出したのだ。
形を成そうとするように蠢く黒いモヤの塊──魔物は、竜の森から時たま這い出て来て、人間の前に姿を表す。
そのまま放っておくと、小さな獣に取り憑き、やがて凶暴な魔獣になってしまうのだ。
ラーラマリーが出会った魔物は、大人達が駆けつけすぐに退治されたが、その悍ましさは忘れられるものではなかった。
「ねえ、魔物はここには来ない? ルイスを食べに来ない?」
「大丈夫よ。竜の森は結界があるから、花喰い竜は出て来られないし、ここまで抜け出してきた魔物は討伐隊の騎士様達が倒してくれるわ。──さ、そろそろ中へ戻って着替えましょう」
母に手を引かれ屋敷に戻ったラーラマリーは、その夜、ルイスの寝台に潜り込み、二人並んで『花喰い竜』の物語を父と母から読み聞かせてもらった。
母が優しい声で読み進める中、花喰い竜や魔物の台詞は、父が大げさな低い声で読むのだ。
「グオオオオー!! 魔物達よ、森を出て、美味い花を探して来い! 人間達に取り憑いてやれ!」
父のあまりの迫真の演技に、ルイスが怖いと震えて泣いたので、ラーラマリーは自分も怖いのを隠しながら、弟を撫でて励ました。
「大丈夫だよ、ルイス。さっき書いてあったでしょ? 花喰い竜の心臓を食べると『えいえんの命』が手に入るんだよ。いつかお姉ちゃんが倒して、ルイスに心臓をあげる! そうしたらルイスも元気になるし、怖くないよ」
無理やり笑顔を作って見せるラーラマリーとルイスを、父と母は愛しさの溢れる眼差しで見つめ、二人に布団を掛け直すと優しく額を撫でた。
家族で過ごした温かな日々に必死で思いを馳せていたラーラマリーは、監視するように向かいの席に座っていた男に声を掛けられ、意識を浮上させた。
「もうすぐ王都に入ります。馬車を乗り換えますので、そのつもりで」
淡々と告げられ、「はい」と短く返事をする。
かなり長い事ぼーっとしていたらしい。
窓から見える外の景色は賑やかなものに変わり、空には、いつも遥か遠くに見ていた竜の森の結界が、高く高く広がっていた。




