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43. 抱擁

 それは突然のことだった。


 朝起きて、少し気持ちが悪いのを堪えながら、柑橘類をスライスして蜂蜜漬けにしたものをちびちびと齧り果実水を飲むという朝食を終えた私は、二階にある自分の部屋に戻って今日の仕事の確認をしていた。


 その時、ふいに下の方が騒がしくなった気がして、私は部屋の外に注意を払った。……何だろう。


(……まさか……っ)


 その可能性に、心臓が大きな音を立てる。期待しちゃダメ……違うかもしれないし。

 そんな風に自分を制しながらも、私は無意識に立ち上がって扉の方に歩き出した。


 その時。


 ガチャリとドアノブが回され、扉が開いた。

 真っ先に目に入ったのは、恋しくてたまらなかった夫の、グレーの瞳。


「──────っ!……マ……」

「今帰った。長く待たせたな、エディット。変わりはないか?」

「…………っ、」


 部屋の中に入ってきた存在感のある夫の姿に、途端に胸がいっぱいになる。抑えることなど到底できない喜びに背中を強く押され、私は何を考える間もなくマクシム様のたくましい胸に飛び込んだ。

 微笑みながら手を広げて私を迎え入れてくれたマクシム様が、息もできないほどにしっかりと抱きしめてくれる。力強い腕。温かい。大好きな人の、懐かしい匂い。

 彼が去ってからずっと必死で堪えていたものが、堰を切って溢れ出した。


「うぅ……っ、あぁぁ……っ!」

「……よしよし。寂しい思いをさせたな。……ああ、エディット……。俺もどれほどお前に会いたかったことか……」


 マクシム様は掠れた声でそう言いながら、私の背中をしっかりと抱きとめたまま、私の髪を撫で、額に、耳に、頬に、何度も唇を押し当てる。


 しゃくり上げる合間に浅い呼吸を繰り返しながら、私は必死でマクシム様の首に両手をまわして強く抱きしめた。


 もう二度と、彼がどこにも行ってしまわないようにと願いながら。






「……マクシム様、お怪我などは……?」

「ない。かすり傷一つ負ってないぞ。後処理に手間がかかって帰還が遅れてしまった。すまなかったなエディット。心配しただろう」


 しばらく熱い抱擁を繰り返し、ようやく私がマクシム様から離れると、彼は手早く湯浴みを済ませて部屋に戻ってきた。

 そしておそるおそる尋ねる私に、何でもないことのようにケロッとそう答えたのだった。

 私を抱き上げてソファーに腰かけ、片時も視線を逸らすことなくジッと私の顔を見つめる彼の表情はとても柔らかだ。瞳の中の銀色の光が私を愛しいと言ってくれているようで、心が満たされていく。

 頬を撫でてくれるその手つきもとても優しくて、胸の奥から幸せがどんどん込み上げてくる。


「か……、かすり傷一つないのですか……?」

「ああ、全く。……今すぐ全身を確認してみるか?」

「っ?!い……いえっ……」

「はは」


 狼狽える私を見て楽しそうに笑うマクシム様。……ああ、夢みたい。目の前にマクシム様がいる。私を膝に抱いてくれている。


(神様……ありがとうございます……)


「……これが俺を守ってくれたんだろうな」

「……あ……」


 マクシム様がそう言って取り出したのは、私の拙い刺繍が施されたハンカチだった。


「肌身離さず持っていたからな、少し汚れてしまったが。洗ってもらおう」

「あ、あの、一度返していただけますか?もっとその……、上手に刺繍できたものを改めてお渡ししますから……」


 今見てもあまりにも稚拙で恥ずかしかった。こんなのはきっと小さな女の子でも作れるんじゃないかと思うくらいの、簡単な花の形。たったそれだけの、拙い刺繍。

 だけど手を差し出すと、マクシム様がハンカチをスッと胸元に隠してしまった。


「嫌だ。これは返さない。もう俺のものだからな」

「そ、そんな……」


 困ってしまった私の頬をもう一度撫で、マクシム様が額を私にコツンとくっつける。


「お前が初めて俺にくれた大切な贈り物だ。しかも、戦地に赴く俺の身の安全を願ってくれて……。俺がどれほど嬉しかったか分かるか?このハンカチのおかげで、俄然気合いが入ったんだ。とっとと終わらせて、一刻も早く、何が何でも無事にエディットの元に帰るのだと」

「……マクシム様……」


 嬉しい言葉に胸がいっぱいになり、頬が熱を帯びる。


「……では、また新しいものを作りますわね。今度はもっと素敵な刺繍にしますから。楽しみに待っててください」

「ああ。ありがとう。……この刺繍の、色が何より気に入った。お前と俺の瞳の色が重なっている。この色を選んで、不慣れな刺繍を一生懸命施しているお前の可愛い姿を何度も思い浮かべたよ。……愛しくてたまらなくて、何度も会いたいと願っていた」

「……私もです、マクシム様……。毎日毎晩、あなたのことばかり考えていました……」

「……エディット……」


 マクシム様はまた私を抱き寄せ、頬にキスをしてくれる。……幸せ……。


 その時、


「失礼いたします、旦那様、奥様。昼食の準備が整いましてございます」


侍女の一人が部屋にやって来てそう声をかけてくれた。


「ああ。……行こうか、エディット。留守の間の話を聞かせてくれ」

「はいっ、マクシム様」


 私は幸せいっぱいにマクシム様の後ろをついて歩き出した。


 けれど、


「……ん、……コホン」


(ん?)


 私が部屋を出る直前、控えていたカロルが咳払いをした。気になってカロルとルイーズの方を見る。


(……?)


 二人はじぃー……っと私の顔を見つめている。何か言いたげだ。どうしたのかしら。

 とりあえずニコリと微笑みかけ、私は再び部屋を出ようとした。すると、


「コホン!……んんっ、ゴホンッ」


(……??)


 私を引き留めるようにまた二人が咳払いをする。何だろう。振り向くと二人はすごい目力で私の目を凝視している。私を見て、今しがた先に部屋を出たマクシム様の方を見て、また私を見る。そして、二人してお腹の辺りをポンポンと手で軽く叩く。


(……。…………あ!!)


 そうだった……!!


 マクシム様が帰ってきた喜びがあまりにも大きくて頭が真っ白になり、何もかもが吹っ飛んでしまっていた。

 た、大切な報告を、してない……っ!





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