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36. 突然の知らせ

 南方の別邸からお屋敷に戻ってきて数ヶ月、平穏な日々が続いた。

 朝起きて、マクシム様とともに朝食をとりお見送りを済ませると、カロルやルイーズとお喋りをしながらお屋敷のお部屋をまわっては、ここをこうしたい、ここにあれを付けたいなど相談に乗ってもらって、一部屋ずつ見栄えよく整えていく。私がここに嫁いできた頃よりも、ずっと華やかで素敵なお屋敷になったと思う。マクシム様も喜んでくださっているから嬉しい。

 しばらくそうして過ごしてから、やって来てくださった先生方とともにお勉強をする。外国語や地理、歴史、経営学に貴族のしきたりやマナー。多岐に渡る教育内容のうち毎日いくつかをこなしているのだけど、新しいことを覚えていくのが楽しくてたまらなくて、時間がいくらあっても全然足りない。少しは休憩しましょう奥様とカロルたちが時折声をかけてくれるのだけれど、入れ替わり立ち替わりやって来る先生方を次々と部屋に招いてはつい休みなく励んでしまう。勉強するということがこんなにもワクワクすることだったなんて。この歳になって初めての経験に私は夢中になっていた。


(早くたくさんの知識を身に付けて、マクシム様のお役に立ちたい……!それに、ナヴァール辺境伯の妻として恥ずかしくない自分でいたいもの)


 もっともっと、素敵な女性に。

 どこへ行っても堂々としていられるような、立派な辺境伯夫人になれるように。


 そう思って取り組む勉強は、少しも苦にならなかった。


 マクシム様が領内を視察でまわる時には、私も必ず同行するようにした。もっとこの土地や人々に馴染みたいし、マクシム様の仕事の様子をこの目で見てしっかりと覚えていきたかった。

 王国内のあらゆる場所で氷の軍神騎士団長などと呼ばれ恐れられているマクシム様だけど、実際に領民の人々と触れ合っているのを見ると、誰もそんな風に怖がってはいない。


「あっ、領主様!それに奥様も。こんにちはー」

「領主様、お疲れさまです。ちょうど良かった。ちょっとまたご相談したいことがありましてね……」

「わーいりょうしゅさまだー!!だっこしてだっこーー!!」


……と、行く場所行く場所で皆から気さくに声をかけられて親しまれている。皆が好感を抱き、頼りにしている。マクシム様はそんな領主様だった。


(普段はこうしてこの西の領地に留まっていて、貴族の集まりや式典なんかに顔を出すことがほとんどないから、変な噂話が広まってしまっているだけだったのね)


 こんなにも優しくて素敵な人なのにね。


 領民の子どもたちを順番に肩に担ぎ上げながら作業をしていた人の相談に乗っているマクシム様を見つめて、私は思わず微笑んでいた。






「……すっかり綺麗になったな、エディット」


 その夜。

 並んでベッドに腰かけて、いつものように私の手にクリームを塗ってくれていたマクシム様が嬉しそうにそう言った。ここに来た頃ガサガサに荒れてあかぎれだらけだった私の手は、自分でも驚くほどに白く艷やかになりしっとりとしている。


「マクシム様のおかげですわ。あと、セレスタン様の」

「あいつのことはいい」

「なくなるたびに何度もこのお薬を調達してくださいました。先日お礼を申し上げたら、“あのクリーム貰いに行ったら俺もいい思いできるんで”……って仰ってましたが、あれって……」

「忘れろ。あいつの言うことは何も気にするな」

「?……はい」


 そんな会話をしながらも、マクシム様の優しくて大きな手が労るように私の手の甲をなぞる。もうこんなに綺麗になったのだからクリームは塗らなくていい気もするのだけど、マクシム様が止めたくないそうだ。私も、マクシム様に甘やかされているようなこの時間が大好きだから、されるがままに塗ってもらっている。


「手指だけじゃないぞ、エディット。ここに来た時と比べて、お前ははるかに美しくなった」

「……え……」


 クリームを塗り終わった私の手を自分の唇に押し当てながら、マクシム様はジッと私の目を見据える。……何だかその仕草がとても色っぽくて、ドキッとしてしまう。


「本当だ。初めて会った時からとんでもなく綺麗な子だとは思っていたが……、ここで日々を重ねるうちに、お前はみるみる美しくなっていった。騎士団の連中も、領民たちも、皆がお前を褒めそやす。団長の奥様は輝くほどの美しさで目の保養になりますだの、領主様の奥方は特別可愛いだの、……悪い気はしないが、お前を誰の目にも触れさせずにずっと独占していたくなる。誰かが妙な気を起こすんじゃないかと心配だ」

「そ、そんな……、マクシムさま……」

「まぁ、そんな不届き者が現れれば即刻叩き切るだけだがな」

「……。」


 そんなことを言いながら私の指先を慈しむように撫で、口づけるマクシム様。その愛情が嬉しくて、私は彼を安心させるために微笑んだ。


「私は、マクシム様だけのものですよ」

「……っ、……ああ、……分かっている」

「あなたのことだけをいつも想っています」

「……。……知ってる」


 ふい、と私から目を逸らしたマクシム様の耳朶がほんのりと赤い。何だかますます愛おしさが込み上げてきて、私は言葉を重ねた。

 

「あなたに大切にされて、幸せです。いつもありがとうございます、マクシム様。……大好き」


 気持ちを抑えきれずに、私も彼の手を自分の唇に寄せると、そのままそっとキスをした。


 ほんの一瞬ピクリと反応したマクシム様の瞳が、いつものように熱を帯びる。


「……灯りを落とすぞ、エディット」


 私の返事も待たずに部屋の灯りが落とされ、室内はぼんやりとしたオレンジ色に揺らめく。

 マクシム様が私をベッドに押し倒した。




 マクシム様の熱を受け止めながら、私は幸せを噛みしめていた。今でも時々信じられない。これはまるで、私の人生ではないみたい。長い長い夢を見ているだけだったらどうしよう。

 時折襲うそんな不安も、目を開けて彼の瞳に捕らえられればあっさりと霧散してしまう。私の心を読んだかのように与えられる、深い口づけ。


「……俺もだ、エディット。……お前を、愛している。こんなにも、深く……」


 身悶えるほどの熱と繰り返される口づけの合間に、掠れた声で私に何度もそう言い聞かせるマクシム様。


 どうしようもなく、幸せだった。


 このままずっと続くと思っていた。


 マクシム様と二人で生きていく幸せな人生が、未来永劫変わらないのだと信じていた。




 だけど、その時は突然やって来た。



 

 ある日王命により、マクシム様に出征の要請が下った。








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