ちょっとした変化
「ロッソさん、おはようございます……ん?」
私は気のせいかと思って再度鼻をひくひくさせるけど、甘ったるい香りが漂っていない。ロッソさんの彼女たちの香りはそれぞれ種類は違うけど、どの人も甘い香りを好んでいたはずなのに。
ちらばった書類、ソファで寝ている姿に変化はないのにただよってくる香りは香水ではなくハーブのような香り。
「今度の彼女は自然派か。まさかの4人同時進行?…すごいな」
「……お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「おはようございます、ロッソさん。起きていたなら返事しましょうよ。趣味が悪い」
「お前の変なぼやきで目が覚めたんだ」
「小さい声で言ったのに聞こえたんですか、すごいですね。あれ、服装も乱れてないし寝癖しかついてない。どうしたんです?」
論文は無事に提出しおわって、確か仕事もそんなに急ぎのものはないはずなのに。
「俺だって部屋でのんびりすることもあるんだよ。寝癖、なおしてくる」
「そうしてください。前髪がトサカになってます」
私がそういうと、ロッソさんはハッとした顔をして髪に手をやると状態に驚いたらしくてすぐタオルを持って部屋を出て行った。
なるほど、このハーブみたいな香りはロッソさんのか。覚えておこう。でも研究室にちゃんとロッソさんの寝室があるのに、どうして仕事部屋で寝るのだろうか。謎だ。
いつもの前髪に戻ったロッソさんが戻ってきて、いつものように私に山積みの手書きの書類をわたし、本人は季節ごとに行う植物採取の準備を始めた。
植物学者であるロッソさんはこの植物採取をとても重要なものだと位置づけていて、必ず王国中をまわってくる。季節ごとに行くと同じ土地で違う植物を研究することができるとかで“本だけじゃだめだ。実際に歩いて手にとって見ないと何も分からん”といつも言っている。性格はお世辞にも立派と言えないが、学問に対する姿勢はとても素敵だ。
私みたいに食いっぱぐれがないからという理由じゃなくて、本当に植物が好きなんだと思う。もっとも本人にそんなこと言うと鼻で笑うに決まっているけど。
それぞれの仕事に集中していると、閉めているドアの向こうから甘い香りが漂ってくるのに気がついた。スパイシーでもなく蠱惑的でもなくひたすら甘い花の香り…
ロッソさんも気づいたようで、私と顔を合わせたときにドアがバタンと乱暴に開いた。
入ってきたのは美しく化粧を施した顔を怒りもしくは屈辱の表情でゆがませている元貴族の愛人様…ロッソさんの彼女の一人、だった。
「レニー、この手紙はいったいどういうこと?!」
その手に握られている封筒を愛人様はロッソさんに向かって突きつけた。うわ、これは修羅場ってやつの始まりだろうか。巻き込まれたくないなあ…ふと手元を見れば偶然にもタイラー部長へわたす書類がある。私は会話が始まらないうちにこっそりと席を立とうしたけれど…彼女が口を開くのが一瞬早かった。
「こんな手紙一通で別れるような間柄だったかしら、わたくしたち。普通もっと誠意を示すものではなくて?」
なんとそれは別れの手紙だったのか。んー、確かに深い間柄だったら手紙一通ではい終わりってのはないわー。それにしても出て行くタイミングを完全に逃したぞ、これ。
「そういう話をするために来たのなら、私の部下の前でそのような話を聞かせるのはどうかと思いますね。ノエリア、さっきの書類のなかにタイラー部長に提出するものがあるから行ってきてくれるかな」
…………この人、誰。本当に「あの」ロッソさんと同一人物か?でもロッソさんの彼女はそこでようやく私の存在に気づいたらしく、ちょっと気まずそうだ。
「わかりました。それでは失礼します」
私は急いで立ち上がると書類を持って、部屋を出た。少しだけ後ろをちらりとみると、彼女がロッソさんに詰め寄るのが見えた。
うん、巻き込まれなくて正解だったな。




