マダガスカル
アフリカ大陸南東海岸から沖へ約四百キロメートル離れた地点に、世界で四番目に大きな島、マダガスカル島がある。自然豊かなその島に暮らす動植物のうち、なんと約九十パーセントが固有種だ。それはまさに神から与えられた奇跡。
別名『約束の地』と呼ばれるのも納得できるというものだ。
彼がどこでその地名を知ったのか、それは知らない。いつも家でゴロゴロしているだけなのに意外と博識だったんだねえ、と少しばかり驚かされた。
彼のゴロゴロする姿は本当にゴロゴロで、ゴロゴロという擬音を立体にしてみたら彼が出来上がったのではないかと思えるほどゴロゴロだ。そんな彼も十五年前はコロコロだった。そうさ、とても小さくて、手の平に乗るほどだったんだ。
それがあっと言う間に大きくなった。
ホントにあっと言う間だったんだ、十五年なんてさ。
だけど、最近は少し痩せた気がするよ。
「君がいつも痩せろ痩せろと言っていたからだろ」
「高いところに登ることができないから心配しただけだ」
「はいはい、そうですか」
「随分と流暢に喋れるようになったね」
「うん。かれこれ二時間は経つからな。いい加減慣れるさ」
彼の言う通り、彼が喋れるようになってから二時間が経過。ぼくが目覚めたら喋れるようになっていたんだ。
昨日までは「ニャー」としか言えなかったのにね。
十五年前の良く晴れた日に、大家さんがピンポンピンポンとやって来たから、彼の名前は『ハレタ』にした。
大家さんは里親を募集していたのだけれど、貰い手が見つからなくて、アパートの住人に配って歩くという暴挙に出たんだ。いまとなっては少し感謝をしているけれど、それってどうなの?と思ったことをよく覚えている。
今朝のハレタの第一声は、「マダガスカルに行きたい」だった。
適当に相槌を打ったら、それからずっと彼は喋り続けている。
「君にマダガスカルの素晴らしさを教えてあげたいからだよ」
「ああ、それはありがたいね」
「マダガスカルはね、いつだって暖かいんだ」
「大きな島だから地域によって気温は違うらしいよ」
「いいや、絶対に暖かいんだ。常に過ごしやすい」
彼はウットリと宙を見つめた。まるで、そこにマダガスカルの景色が見えているかのようだ。
いや、ひょっとしたら本当に見えているのかもしれない。
「見えてはいないよ。でも昨夜の夢に出てきたんだ」
「へえ、それはどんな夢だったの?」
「俺は一人で歩いていた」
「一人? 一匹じゃなくて?」
「そんなのはどっちでもいいことだろ。話を聞けよ」
「ごめんごめんよ」
「俺は長い長い道を歩いていた。道の両脇は大きな森だ。その森には動物たちが大勢いて、俺のことを待っている」
「ハレタのことを食べる気なのかもね」
「物騒なことを言うなよ。彼らは優しい仲間たちだ」
彼はそこにどんな動物がいるのか知らないらしい。でも優しいことだけは分かるのだそうだ。みんな優しくて、絶対に受け入れてくれると繰り返し言っていた。
それにしても、どうして急にマダガスカルに行きたがるのだろう。
「だから、過ごしやすいからだよ」
「ずっと家の中にいるハレタにとっては、どうでもよくない?」
「マダガスカルに行ったら外を走るさ」
「ますます痩せれるね」
「ああ、どんどん痩せてやるよ」
「いまは痩せないでいいよ。むしろ痩せないでくれ」
彼は鼻からフンッと息を吐きだした。
つまらないことを言う奴だなあとでも思っているのだろう。
「そうだな。だいぶ思ってるさ」
「それは心外だな」
「君はすぐに意味の分からないことを言う」
「まださっきの話を気にしてるのかい?」
「ああ。あふりかとか、なんとかとか、俺の知らない言葉ばかり使って俺を混乱させる。馬鹿にしてるんだろ」
「ハレタがマダガスカルうんぬん言うからだろ」
「君は分かっていない。なにも分かっちゃいないよ」
彼は不機嫌そうにそっぽを向いた。でも、すぐにこちらへ向き直った。
なにやら真剣な顔をしている。
「真剣にもなるさ。俺は君に必ず伝えなければいけないんだから」
「なにを?」
「だから、マダガスカルの素晴らしささ」
「分かったよ。じゃあ、余計なことは言わないようにするよ」
「いいか、マダガスカルは過ごしやすいだけじゃないんだ」
「他にも良いところがあるんだね」
「ああ、食べ物も豊富さ。絶対にお腹が減ることはない。絶対に」
「ハレタの好きなカリカリもあるかなあ?」
「カリカリじゃなくても大丈夫なんだ。マダガスカルにある食べ物はどれを食べても平気なんだ。なんでも食べれるんだ」
彼が食べてはいけないものはいくつかある。タマネギとかチョコレートとか味の濃いものとか。
そういったものが一切ないのだろうか。
「そういうことじゃないんだ。マダガスカルなら、どんなものを食べても平気って意味だ。タマネギでもチョコレートでも食べれるんだ」
「それは凄いね。奇跡の島だ」
「常に明るいんだ。夜がないんだ」
「暗いところで静かに眠りたいときは困っちゃうね」
「そんなときは念じれば良い。そうすれば、闇色のカーテンが降ってきて、俺のことを優しく包んでくれるはずさ」
「なんだよそれ。便利すぎないか?」
「マダガスカルでは常識だよ」
彼はどういうわけか誇らしげにしている。
マダガスカルは君のものではないだろうに。
「いいや、みんなの島だから俺の島でもある」
「自慢の島なんだね」
「ああ、そうさ。だから、俺がある日、マダガスカルに旅立ったとしたら、君は愉しんでこいよって思えばいい」
「旅立つのかい?」
「近いうちにね。近いうちに旅立つだろうね」
そんなに素敵なところなら一緒に観光に行ってみたいなあ、なんてことを思ったりもしたけれど、彼の言うマダガスカルはなんだか変な感じがする。
それこそ飛行機などの乗り物で行けるのかどうか怪しい。
「たぶん行けないだろうね。飛行機は無理だ」
「空港がないのかい?」
「必要がないから、ない可能性が高い。マダガスカルではね、飛びたいと思えば飛べるんだよ」
「羽が生えたりして?」
「うーん、生えるかもしれないし生えないかもしれない」
「とにかく飛べるんだね」
「ああ、そうさ、飛べるんだ。そして行きたいところへいつでも行ける。ビュンビュンビュンッとね。なにせマダガスカルだからね」
「凄いね。マダガスカルは」
「そうやってビュンッと飛ぶと、雲の上に出たりもする。マダガスカルではね、雲に乗れるんだよ。フワフワの雲の上でゴロゴロできるんだ」
「ハレタはホントにゴロゴロが好きだね」
「そうだな。マダガスカルなら永遠にゴロゴロできる。大袈裟な表現じゃない。ホントに永遠なんだ。過ごしやすくて明るくてフワフワで、永遠だ……」
「なあ、やっぱり、そこはマダガスカルじゃ……」
そこまで言って続く言葉を飲み込んだ。わざわざ言うことではないだろう。彼が楽しそうにしているのだから水を差すのは悪い。
そう思ったとき、彼は不思議そうに、ぼくを見つめた。
「それは、君が泣いているからだろ」
「ああ、ハレタ、ごめんよ」
「安心しろよ。マダガスカルは良いところだから」
次の日、目覚めると、彼は喋らなくなっていた。
それどころか「ニャー」とも鳴かなくなっていた。
たぶん、マダガスカルに旅立ったのだろう。
了




