脱兎
人間が書く手記というものを、ウサギである私も書いてみようと思います。
そう切り出してみたものの冒頭の一行を書いてから数時間が経ってしまいました。書いては消し書いては消しを繰り返し、気付けば窓から朝の陽が射していたのです。外を望めば新聞を配達するハトが飛んでいます。まもなくすればかつて敵だったシカやウシの仕事場へと急ぐ姿が見られることでしょう。それらの光景は、私は職を辞したばかりではありますが、遠い昔の縁遠いもののように思われます。むしろ、あの頃交わした会話のほうが、身近に感じられるのです。
筆が進まぬ理由は分かっています。私は今をもってしてもなお羞恥の心を抱いているのです。いっそのこと書くのをやめてしまおうかとも考えました。ですが、それこそ恥の上塗り。あの頃の話を明らかにしなければ贖罪は果たせません。
以降は、出来る限り邪な感情を抑え、起こったことを順に記していこうと思います。なにぶん不慣れなため筆が逸れることもあるかも知れませんが、どうかお終いまで、一匹のウサギと一匹のカメの物語を、ご覧頂きたく思います。
皆様もご存じの通り、先の大戦において、私共の森と川向こうの森は苛烈な争いを繰り広げました。そうはいっても開戦まもなくの頃は落ち着いていて、特に私共の暮らす森の中心部は戦前となんら変わらぬ様子でした。時折号外にて戦況を知らされることはありましたが、いずれも絵空事のように思えたことを覚えています。そんな状況だったものですから私は普通に日々を過ごしていました。当時は大学にて勉学に勤しんでいたのです。
ちなみに普通と書きましたが、あくまで私にとっての話です。その頃の進学率は低く、大学は裕福な家庭の出か極めて成績優秀な者のみしか通えぬ所でした。幸い私はその両方の条件を満たしていて当たり前の如く入学を果たしました。それに対して、彼は、貧しい身でありながら同じ学舎に在籍していたのです。
彼の名をここでは仮にカメオと記しておきます。カメオは、のろまなオスでした。彼はカメでしたので当然といえば当然です。しかしながら同時に聡明なオスでもありました。
私とカメオは同郷の出身で幼い頃から仲好しでした。そんな私共に周りの者は奇異の目を寄越しました。存じない方のために当時の世相を説明しておきますと、爬虫類は被差別種でした。いえ表向きは身分制度撤廃により差別はないものとされていましたが、明らかに暗黙のヒヱラルキーが存在していました。そのため哺乳類である私が彼と親しくしているのが珍しかったのでしょう。
とはいえ、私もかつてはカメオに微かな偏見を抱いていました。それが完璧に払拭されたのは中学の時でした。
まだ開戦前ではあったものの当時から強兵の気運は高まっていて、その日は、砂の入った背嚢を背負って五里の道を走るという事実上の軍事訓練が行われました。事情はどうあれ私は勉学のみならず運動にも自信があったので、果敢に課題に取り組みました。結果、多くが途中で音を上げるなか私が最も早くゴールに辿り着きました。周りの者達が賞賛の声を送ってきました。私は笑顔で応じました。けれども実は嬉しくありませんでした。一位の功績は修練の結果です。決して天から降ってきた訳ではありません。そのことに思い至らず誰もが偶像を崇めるように遠巻きに持て囃していただけなのです。
ただカメオだけは違いました。彼は、結果は私よりも大幅に遅れてのゴールでしたが、勝利を諦めず走り切りました。そして私に対してこう言ったのです。「君の本当の凄さは挑んだ者にしか分かりはしないよ」と。その時、唯一にして最高の理解者を得たのでした。
思えば大学を目指したのはカメオが隣にいたからでした。公正な評価者である彼に自身の生き様を見せつけるため行動した結果です。同様にカメオが進学したのも私の影響によるものでしょう。彼は常に私に挑戦をしてきました。努力家である彼は世相なぞ気にも留めず見事に私に喰らい付いてきました。そんな彼に対する最大の礼儀は手を抜かぬことと考え、私は益々勤勉であり続けました。お陰で私共は大学に入ってすぐ上席を占めることとなりました。
なお、その頃もカメオはあらゆる勝負において一向に私に勝てずにいました。それでも彼は笑っていました。いつかは本気の私に勝つという希望の花を抱いていたからに違いありません。その花を枯らしてしまったのは――。
私共が三回生に上がる頃のことです。いよいよ戦争は激しさを増し、徴兵制度が敷かれました。ただし未来の担い手という理由から学生は対象とされませんでした。同窓生達は徴兵逃れをすることが出来たと言って胸を撫で下ろしていました。私の目からすればその態度は勤勉に映りませんでした。ちょうど非戦闘員のウサギが死傷したという話を耳にしたばかりということもあり、義憤に駆られていたのです。私は休学届を提出し、自ら兵役を志願しました。少し遅れてカメオも私の後を追い、志願兵となりました。
それからの日々は戦果を挙げる兵士になることだけが私の目標となりました。カメオも今までと変わらず私に喰らい付いてきました。ところが、彼は内心では私と考えを異にしていたのです。
兵役に就いてから数週間後に、ヤギの営む飲み屋でカメオと酒を酌み交わしました。私共は紛うことなき親友同士でしたが、共に飲んだのはそれが初めてでした。
カメオは勢いよくウヰスキーをあおって早々に頬を赤らめました。そして酔いに任せて珍しく愚痴を零し始めました。この戦争は間違っている。それが彼の主張でした。時勢的にそのような発言はご法度です。私は強く窘めました。けれども彼は悪びれず引き続き体制批判の言葉を並べ立てたのでした。そうして、しばし私共は口論をすることとなりました。
「戦う気のない者に背中を預けられはしない」
「どうして君は僕が後ろにいることを前提に話をするのだ」
「いずれにしろ、その発言を上官にでも聞かれたら只では済まぬぞ」
「森ごと自害しようとしている時に何を恐れる必要がある」
互いに譲らず似たようなやり取りを繰り返した後、私は穏やかに「飲み過ぎだぞ」と告げました。すると彼は、ぽつりと呟いたのでした。
「死んで花実が咲くものか」
私には彼の考えが分かりませんでした。そういった思想を持ちながら何故兵役に志願したのかが理解出来なかったのです。そこで率直に尋ねてみたところ、彼は「君が負うものを分かち合うためさ」と恥ずかしげもなく述べました。
宴はお開きとなり、私は憂鬱な気持ちのまま帰路へと就きました。カメオとの友情が壊れてしまうのではないかと不安だったのです。
しかしながら次の日には杞憂であったと思わされました。カメオは何事もなかったかのように親しげに接してきて、平常通り熱心に訓練を始めたのでした。所詮は酒の席でのこと。そう考えて、私も訓練に没頭することとしました。
やがて、特訓の成果を示す時がやってきました。前線に配される特別隊を新たに編成するに当たり、その選考が行われることとなったのです。もちろん私は立候補しました。カメオも手を挙げ、共に選考試験を受けることとなりました。
特別隊は極秘武器を用いての戦略部隊と聞かされていたのですが、試験内容は基礎体力の測定が大半を占めていました。如何あれ、与えられた課題は全力で挑むのみです。その姿勢を評価されてか、私は特別隊一位の席を得ました。次いでカメオが席に名を連ねました。不謹慎ながら彼と共に敵を討つ姿を想い、私は喜びで身体を震わせました。
ところがその夢の前に立ち現れたのは暗澹たる光景でした。
特別隊に入隊してまもなくのこと、上官に連れられて前線へと足を踏み入れました。そこには崩れた塹壕と負傷した兵の姿が広がっていたのです。苦戦を強いられていることは知っていました。ですが、これ程までに追い詰められた状態とは思いもしませんでした。そんななか、上官のブタがさっそく指令を口にしました。
特別隊とは名ばかり。与えられた指令は正気の沙汰とは思えぬものでした。手渡された極秘武器はもはや武器とは呼べぬ火薬の詰まった背嚢のみ。
私共に与えられた指令は、敵陣にて自爆せよというものでした。
動揺しなかったと言えば嘘になります。それでも私は自身の名に冠されるであろう英雄という称号のため勇ましく頷きました。決行はその日の深夜。陽が昇るまでに闇に乗じて敵陣深く侵入する算段です。第一陣は私とカメオの二匹だけでした。
瞬く間に時は過ぎました。辺りが暗く染まると、角灯の光によって私とカメオは世界から切り取られたかのようでした。彼はずっと無言でした。顔色を窺っても何も読み取れませんでした。
しばらくすると上官に呼び出され、私共は塹壕より出て野に立つこととなりました。出立の時です。するとカメオが、徒競走を始める時のように正面を見据えて姿勢を低くしました。意図を掴めず立ち尽くしていると、彼は私の困惑を察したのか、粛々と、それでいて噛み締めるように、前を向いたまま語り始めました。
「友よ。君は僕の憧れだ。いつかは対等な関係になろうと挑戦を続けてきた。これからも続けるつもりでいた。しかし、これが最後だ。友よ。競争をしようじゃないか。挑戦を受けてくれるね」
どんな言葉を返そうとも軽薄なものにしかなり得ません。私は黙ったままカメオの横にしゃがみ込み、走り出す姿勢を取りました。
こうして、ウサギとカメの最後の競争は始まったのです。
上官の号令と同時に私は駆け出しました。敵陣まではおよそ五里。皮肉にも昔の訓練と同じ距離です。ウサギの脚力をもってすれば、たとえ重い荷物を負っていようと、大したことはありません。手を抜かぬことこそ最大の礼儀。その信念に則って私は全力で走りました。
振り返ることなく草を分け、闇を抜け、カメオに遥かな差をつけて、早々に私は森と森の間に横たわる川に着きました。歩いて渡れる程度の深さですが、水の苦手な私は思わず足を止めてしまいました。その一瞬が、冷静さを呼び起こしました。川を越えれば敵領内。私は自身の行末を想像してしまったのです。途端に足が動かなくなってしまいました。このままではカメオに追いつかれて怯える姿を見られてしまう。頭を過ったのはそんなことでした。
結果、あろうことか、私は近くの岩を手に取って自ら片足を潰したのでした。
まもなくカメオが到着しました。私は転んでしまったと嘘をつきました。彼が肩を貸そうとしましたが、咄嗟にそれを突っぱねました。その瞬間に全てを悟ったらしく、カメオは落ち着いた声色で私に言いました。
「打撃を与えなければ叱責を買う。汚名を負っては故郷へ帰れぬかも知れぬぞ」
彼らしくない言葉でした。おそらく私に決断を迫っていたのです。
この時、死んで花実が咲くものかと返せば彼は共に逃げてくれたでしょう。転んだのは嘘だと言えば笑って許してくれたでしょう。しかし言えなかった。私は言えなかった。口を突いて出たのは心にもない無情の言葉だけでした。
「作戦は決行しなければならぬ」
恐ろしかったのです。優等生として育ち英雄として送り出された我が身が蔑まされる身分に堕ちるのが、怖くて怖くて仕方がなかったのです。
私の言葉を聞いたカメオは、短く息を飲み、続けて高らかに笑いました。
「あっはっはっ、ならば僕の勝ちだな」
そして川を越え、ぐんぐんと敵陣へと走っていきました。呼び止める言葉さえ出ませんでした。赤く濡れた足が地に根を張って追うことも叶いませんでした。
目の前が眩く輝き、爆音と爆風が私の横を通り過ぎていきました。
時は終戦間近の夏。その狂気の作戦より数日後、ヒグマの襲撃によって我が軍が壊滅したことは言うまでもありません。
戦地より逃げ出した私に同窓生達は労いの言葉をかけてくれました。その度に私は消え入りたい心持ちとなりました。あの日に見た爆炎は、私の人生という道に消えることない影を落としたのでした。
これにて、告白すべきことは終いです。
いつの間にか外が賑やかになっています。おそらく仕事場へと向かう獣達がかつて戦場だった道の上を歩いているのでしょう。そろそろ筆を置きます。
世は泰平となりましたが、私共の競争は終わっていません。ゴールでカメオが待っています。私も、先を急がねばなりません。
了




