第四章 二十一話 おいで、お猿さん
雲の上にあるはずの陽は、もうかなり傾いているのだろう。
夕闇の主張はとても強くて、目の前のものの輪郭を、薄暗闇の中へと飲み込もうとしていた。
曇天由来の鈍色と、夕闇由来の闇色。
ただでさえ無彩色が優勢の世界。
それだというのに、新たな無彩色である一筋の白が、世界に加わる次第となった。
白の正体は蒸気だ。
オートモービルが吐き出す蒸気。
俺たちを乗せたオートモービルの。
「それで?! 君が知る限りでいい! 戦況はどのようなものなんだ?!」
高速走行による風切り音。
それに負けないくらいの大声で、車を操る者に問う。
一年前は俺も袖を通していた、レッドコートを着る彼はゾクリュの守備隊員だ。
邪神が街に現れた。
申し訳ないが、力を貸して欲しい。
夜に備えて戸締まりをしようと思っていた頃合い、息を切らしながらやってきて、そう告げたのが彼であった。
「悪いです! 殉職者多数! 戦線を維持するのに精一杯でした! しかもそれもいつまで持つかわかりません!」
「フェーズスリーに入る可能性は?!」
「十分にありえます! だから急がないと! なのに!」
相当強く食いしばったらしい。
風切り音よりも大きな歯ぎしりの音が、彼から聞こえた。
「なんだってこいつは! 今に限って、いつもよりも遅いんだよ!」
ぎゅっと、方向レバーを握り直しながら、オートモービルに一喝。
たしかこの車は、先日の歌劇座事件の際に、大佐が盛大に壁にぶつけていた個体だ。
きっと走れるだけの応急処置だけを施して、現場復帰させたのだろう。
彼の言うとおり、このあいだに比べると、速度は出ていないように思えた。
「ウィリアム! あれ!」
同乗するヘッセニアが指を差しながら一言。
視線をつうと這わせてみると、そこには、異形の群れと、人の群れ。
間違いない。
あれは激戦を繰り広げる、邪神と守備隊の姿だ。
「ちょっとお! まだ街に入ってないじゃん! それなのに戦闘してるってことはさあ!」
「ああ! 後退したってことだ! フェーズスリーに移行したってことだ!」
ヘッセニアの声には、多分に焦りの色が含まれていた。
俺も彼女の心中には大賛成。
戦況の悪化が、自分が思っていたもの以上にはやい。
このままでは、フェーズスリーのさらにその先。
言うなれば、認められた友軍相撃である、拘束砲撃が断行されてしまうのも、時間の問題だろう。
「ねえ! 一番戦況が悪かったのって、どこかな?!」
「ここです! この南方戦線! 邪神の数がもっとも多いんです!」
「次に悪いのは!」
「東! 数は少ないが、全部が騎士級です! 歩兵じゃ分が悪い!」
「よしわかった! すぐに車を東方へと向かわせてくれ!」
「なんだって?!」
隊員の声には、いささかの怒りがこもっていた。
すぐ近くで戦う仲間を見捨ててしまえ。
彼の耳には今の俺の台詞が、こう聞こえたことだろう。
だが、しかし、当然そんな意図はない。
「ここは俺が加勢する! 一人で十分だ! 東方にはヘッセニアを連れて行ってくれ! 多分、それでなんとかなる!」
「馬鹿言うな! たった一人が増えたところで、状況が変わると思いですか!」
「どうにかする! してみせる! 俺ならできる! できちゃうから、あの屋敷に住む羽目になったんだから!」
「しかし!」
強化した視力で現場を見たところ、あそこに集まる邪神は二十体ほど。
そのすべてが、屈強な類猿人様の怪物、猿人級。
これは俺にとっては、まったくの好都合。
猿人級を相手にするのは、得意中の得意なのだ。
二十体程度ならば、負ける方が難しい。
が、その事実を、どうにもこの隊員は信じられないらしい。
未だ車を回頭させる気配がなく、遠目に見える激戦の現場に真っ直ぐ進ませていく。
ここで口問答をしても、ただ時間を浪費するだけだろう。
彼を納得させるためにも。
ここは一つ実演を交えなければなるまい。
「俺はもう行くから! 頼んだよ!」
「行くからって……?! 武器は?! ちょっと! 待った!」
「必要ない!」
返答を待たず、オートモービルから飛び降りる。
最近、守備隊の車に乗るときは、大体飛び降りているせいだろうか。
飛び降りることに、まったく抵抗がなくなってしまった。
手続き記憶に、しっかりと刻み込まれてしまった運動をこなしたあと、しっかりと着地を決めて。
強化魔法を用いて、走って、オートモービルを追い抜く。
「これもまた。最近のお決まりの動きだよなあ……どういうわけか」
さて、それはそれとして、俺は現場へと急速接近。
大地を蹴る振動を捉えたからか。
数体の猿人級が、ゆらりと俺のほうへと振り向いた。
そして、害意溢れる一瞥を寄越した後。
足元に転がる石を引っ掴んで、振りかぶって。
投石をせんとする。
体の構造が人類に近いからか。
猿人級は邪神の中で唯一、投石という手段で、遠距離攻撃を仕掛けてくるのだ。
こいつの投石で、命を落とした兵は数知れず。
身体能力が人類とは段違いであるため、その威力たるや、あまりに強烈。
投げられた石が、たとえ爪の先ほどの大きさであろうとも、あっさりと人体に穴を空けるほどなのだ。
そんな驚異的な武器を、遠慮なしに俺にお見舞いしようとする。
連中の投石を見て、回避することは、少しばかり難しい。
「なら、やることは一つだけ」
だから、俺は。
投石のうま味がなくなるまで、一挙に近付くことにした。
強化の度合いを最大に。
一息に猿人級の群れの胸元へ。
「――――?!」
野生がむき出しとなった声、曇り空に響く。
猿人級のものだ。
投石の動作をにわかに中断。
声はいささかの驚嘆に染まっていた。
わずかに備えた連中の理性。
そいつによって驚嘆を覚えたのだろう。
なぜ、人類がここに居る?!
どうやって、一気に間合いを詰めてきた?!
奴らに言語が操れるならば、きっとこんな風に叫ぶだろう。
当然、その驚愕は隙だ。
見逃す義理もなく。
未強化の筋力で飛び上がって。
トップに至ったそのときに、叶う限り、筋力を魔力で強化して。
最大威力の蹴撃を放つ。
空中回し蹴り。
筋力。
魔力。
遠心力。
それらがたっぷり乗った一撃は。
もっとも人類に似た、人類の天敵の頭部に直撃する。
足から感触が伝わった。
スイカを思い切り蹴飛ばし、かち割ったのと同じ感触だ。
そしてその感触ははまったくもって正しい。
力一杯の蹴りを受けた猿人級の頭は。
割れて、弾けて、消えた。
「本当に助かったよ。ここに居るのが君たちで」
皮肉をたっぷりこめて、眼前の猿人級どもに語りかける。
人身御供を要求する個体であれば話は別ではあるが、だ。
原則、邪神に話は通じない。
だから、今、俺がやっていることはまったくの無意味。
独り言をしているに等しい。
しかし、たとえそうだとしても、俺は語らざるを得なかった。
だって、そうだろう?
無駄口を叩きたくなるほど、この現場にたどり着いたことは幸運だったのだから。
「君たちは騎士級のような硬い殻は持っていない。翼竜級みたいに空も飛ばなければ、獅子級の速さもない。あるのは腕力と、器用さだけ。だから――」
「――――!!」
されど猿人級、俺の言葉が終わるのを待たない。
獣欲をむき出しにした咆哮をあげたのち。
一体が俺を葬らんと、突進を開始。
邪神の内では騎士級に次いで鈍重であるけれど、それでもその動きは人類よりもずっと速い。
速度は、競走馬やオートモービルに匹敵するほど。
大の男よりも一回りも大きな巨体が、その速度で体当たりをかますだけで、人類は昇天間違いなしだ。
突進を受けるわけにはいかない。
俺はしっかり見極め、半身にすることで致死の突撃を躱して。
すれ違いざまに掛け蹴りを一発お見舞い。
横っ腹にお見舞い。
騎士級の甲殻を持っていないが故に。
腹は容易にえぐられる。
猿人級よろけて、倒れる。
「――だから、こうして素手でも倒せるってわけ」
どうと地にもんどり打つ猿人級。
じたばた暴れられると面倒だ。
動きを止めるために、頭を踏む抜く。
砕ける。
絶命。
仲間が二体もやられたこと。
わずかながらの理性によるものか。
その判別はできなかったけれど。
遺る猿人級たちはたしかに憎悪の視線を、俺に向けた。
だから、俺は奴らを挑発。
二十の猿人級の矛先が、俺に向くように。
ちょいちょい、と左人差し指を動かして。
「おいで。お猿さん。相手になるよ」
嘲りを隠さぬ声色で、そうおちょくった。




