第四章 二十話 英雄の定義
それが起きたのは、クロードが一日ぶりに借家へと帰ってきたのと、同じタイミングであった。
王国の子供たちが憧れてやまない、王国陸軍の証でもあるレッドコート。
そいつを実家から連れてきた使用人に預けた頃合いであった。
なにやら外が騒がしくなってきたのは。
「……なんだ? 人がくたくたになって帰ってきたのに。なんともまあ、元気な連中も居るもんだ」
喧嘩というか悲鳴というか。
とにかく、興奮しきった人々の声と慌ただしい足音が、借家の前をひっきりなしに通るのだ。
はじめクロードは、騒音の群れを、一杯ひっかけてきた酔客たちのものだと思った。
借り上げた屋敷は、官庁街からほど近く、夜店通りからは遠い。
そんな立地とは故、本来その手の騒音とは縁がない。
けれども官庁に勤める役人も、今更改めることではないのだが、日々ストレスをためる人間なのだ。
パブで飲んで騒ぎたい夜もあるだろう。
今日がその日なのだな、と簡単な感想を抱くに終わり、特別な興味をクロードは抱かなかった。
「少しの間、俺は寝る。すまんが、食事の準備ができたら、起こしてくれ」
「はい。では、そのように」
クロードは使用人に頼み込んで、一眠りすることにした。
だらしがないと重々承知なれど、軍服のまま広間のソファーに横になる。
目も閉じる。
サテンの心地良い感触に身を委ねれば、すぐに眠りが招来――
「……軍馬?」
――することは、なかった。
クロードは目を開けて、ぼんやりと天井を眺める。
気になる音が、通りから聞こえたのだ。
馬が襲歩で石畳を駆け抜ける音だ。
しかも音の重々しさからいって、通りを行ったのは、きっと軍馬の群れ。
明らかに厄介事が発生した風情に満ちていた。
ついさっき非番になったとはいえ、なにが起きたのか。
借家の前を通過した者どもの同僚として、それを確かめねばなるまい。
クロードは気だるげにソファーから身を起こす。
「おや。お眠りになるのでは?」
「そのつもりだったが。どうにも通りが騒がしい。なにが起きたのか、少し確かめに行ってくる。すまねえ、上着を持ってきてくれ」
「はい。すぐさま」
使用人は恭しく頷き、預かったばかりの上着を再び、主人へと手渡す。
クロードは短く礼を言ったのち、上着を羽織りながら玄関の外へ。
借家の前の通りには、いまや軍馬の群れは見られない。
過ぎ去ったようだ。
代わりと言わんばかりに、背嚢とライフルを担いだ歩兵が、血相を変えて走っている。
背嚢。
ライフル。
そして兵たちのあの顔色。
これはただごとではあるまい。
クロードの軍人としての嗅覚が、非常事態のにおいを敏感に感じ取った。
「急行中に失礼。これはなんの騒ぎか」
クロードは走り去っていく徒歩の一人を捕まえ、訳を聞く。
もちろん止められた兵は、任務を妨害された形となる。
とさかにきたようで、至極面倒くさそうに一度舌打ち。
「なんだ!? 今、忙し……っ!」
威圧するような声とともに、兵はくるり、クロードと面を合わせる。
が、どうにも自分を呼び止めたのが、同業者、しかも尉官だとは思いもよらなかったらしい。
クロードの階級を確認するや否や、爆発寸前だった怒り顔は、みるみるしぼんでいって青ざめて。
無礼を働いた恐怖にぶるぶる震えつつも、クロードに敬礼を捧げた。
「た、大尉殿! ご無礼、失礼しましたっ!」
「良い。任務中呼び止めたのは私だ。気にはせん。しかし、一体なにがあったのだ? まるで一年前のような騒ぎではないか。まさか、また邪神が出た、なんてことではあるまいな?」
「はっ! ご明察であります! その通りであります! 邪神です! 街の東部、西部、南部より、邪神が出現しました!」
「……は?」
半ば、冗談で飛ばした推測。
それがなんと当たってしまったことを受けて。
将校が兵の前で見せるには、甚だ不適当だとは承知しているけれど。
クロードは、予想外な兵の肯定にぽかん。
口を半開きにせずはいられなかった。
◇◇◇
邪神が出た。
群れとなって出た。
街の三つの方面から、急に涌いて出た。
種族主義者らが連れ込んできた。
教会の鐘楼よりも背の高い、ゾクリュ守備隊隊舎。
街の中で一等高い建築物の、その最上階は、ただいま蜂の巣をつついたかのような、慌ただしさの中にあった。
「西方対応隊から発光信号! 戦況甚だ悪し! 損耗率二分を超過! 殉職者多数! されど戦線維持に邁進す!」
「東方からも信号! 戦線維持に尽力中! されど損耗抑制能わず! 受傷者の後方輸送求む!」
「同じく南方から! 損耗七分! 戦線維持の見通し立たず! フェーズスリーに移行許可求む!」
伝声管から矢継ぎ早に伝わるのは、屋上に設置されている、物見櫓から報告。
光によって隊舎にもたらされた、現場の現状。
それらはいずれも悲観的で、聞く者に冷や汗を浮かべさせるに十分なもの。
事実、各々の面持ちは暗く、かたく、焦りの色が濃い。
ソフィーをはじめとする、戦場を知らぬ若人は当然として、風格漂うベテランでさえも。
みな、一様に顔面蒼白也。
「三方に激励。文面は各々のセンスに任せる。そして、予備兵力から後送隊を抽出、派遣。ソフィーちゃん、できる?」
唯一の例外は、隊長のナイジェルのみか。
長としての面目、そしてこの七階司令室の混乱を、少しでも抑えるために。
彼は表面上だけでも、落ち着き払う必要があったのだ。
「はっ。了解! しかし……南方のフェーズ移行は……」
「民間人の避難状況は?」
「それについては完了済みとの報告が上がっております」
「よし。ならいい。要請は許可。可能な限り人員の被害は抑えるように指示」
「……了解」
ソフィーの返答には間があった。
それはきっと、彼女の躊躇いによるものなのだろう、とナイジェルは思った。
南方に展開した部隊が要請した、フェーズスリーとは乱暴に言うならば、釣りだ。
邪神は人身御供を要求していない限りでは、直近の人類を襲う。
この性質を利用して、軍人を常に邪神の直近に置きつつ後退することで、任意の場所に誘導する――これがフェーズスリーの正体であった。
当然リスクは大きい。
人類の運動能力を、軽く超越する相手の間合いに、わざわざ踏み入らなければならないのだ。
回避能わぬ攻撃を受けることもざらにあった。
戦時中のデータを参考にすれば、誘導完了するまで、最低でも十人の命を消費するのだ。
それを承認するということはつまり。
部下らに死んでこい、と命ずるに等しいことだった。
ソフィーが乗り気でないのは至極真っ当と言えるだろう。
「たれ込みがあった北方。そこはまだ沈黙しているようだね」
「ええ。北が動いていないおかげで、なんとか形ばかりの対応は出来ておりますが……しかし、お聞きの通り、旗色はいいとは言えません」
「各方面はそれぞれ何体の邪神と対峙してるか。わかる?」
「最新の情報ではありませんが。東が十三。西が十六。南は二十」
「……厳しい」
ここ最近のドタバタで、練度が上がってしまったとはいえ、だ。
まだまだフレッシュさが抜けきらない、隊員たちの練度を考えれば、戦況は圧倒的に不利と言わざるを得なかった。
ソフィーをはじめとする、部下らに聞こえないように、ナイジェルは口の中で舌打ち。
状況の悪さを腹の底にて嘆息した。
「全部隊に通告。現刻をもって、現場判断でのフェーズスリーへの移行を認める。街中での戦闘が難しくなったら、外に誘導するように。それと」
「それと?」
「砲兵には砲撃準備をさせておいて」
ナイジェルのその一言に、慌ただしかった指令室内が、しんと静まりかえる。
若兵も老兵も、そろってナイジェルを見つめる。
彼が部下らの注目を集めた理由は単純だ。
フェーズスリーより、さらに状況が悪化した際に取られる戦術の準備。
こいつを行えと命じたからだ。
その戦術とは拘束砲撃。
遅滞戦闘を繰り広げている友軍ごと砲撃し、確実に邪神を討伐する、最下策と忌避されるものであった。
「……最悪の場合に備えて、だよ。街がやられてしまうよりも、ずっといい。良心はさておいて」
「……はっ」
不承不承といった風のソフィーの返答。
いくら拘束砲撃が友軍相撃に問わず、とされていてもだ。
やはり味方を撃つことへの嫌悪感が隠しきれないでいた。
そしてそれは、なにもソフィーに限った話ではない。
軍人の本能なのだろう。
すべての将兵が、ソフィーと同様の思いを、必死になって押さえ込んでいる。
そんな雰囲気が、司令室には詰まっていた。
間の悪い沈黙、来る。
「……ウィリアム・スウィンバーンは。一体何をしているのだ」
しばしの沈黙を破ったのはソフィーだった。
半ば愚痴めいた言葉の穂先は、ゾクリュの外れに書面上は幽閉されている、一人の元兵士。
兵の一人に救援要請を握らせて、彼の屋敷へと走らせたのはついさっきの話。
だから、街に降りてくるのは今しばらくかかる。
それは考えなくともわかること。
にも関わらず、ソフィーがあのようにぼやくとは、つまり、大きな期待を寄せているからだろう。
ほかでもない。
ウィリアムの実力に。
(しかし、あのソフィーちゃんがそう思うとは、ね)
ナイジェルの副官であるソフィー・ドイルは、生来真面目な性格だ。
だから気に入らないのだろう。
流罪の身にもかかわらず、ウィリアムになにかとノーブルな影が付きまとうことが。
彼女がウィリアムに積極的に近付こうとしないのは、間違いなくそれが原因だ。
そんなウィリアムを敬遠しているソフィーでさえ、ここまでの期待を抱かせるのだ。
彼さえ、彼さえ来てくれれば。
あっという間にことが終わるはずだ、と。
心の底から信じているに違いない。
しかし、それは本来奇妙な話だ。
一人の実力者がやって来た程度で、戦況が変わるということは、ありえない。
だが。
(どんな荒唐無稽なことでも、あっさりとやってのけるだろうと思わせること。こいつがきっと英雄の定義なのだろう)
そして、ナイジェルは考えざるをえなかった。
もし自分が、人々にそう思わせるほどの力があったのならば。
英雄と呼ばれるにたる存在であったのならば。
ここまで種族主義者にいいようにやられなかっただろう、と。
日頃自分は自分、他人は他人、と比較することはないナイジェルであったけれど。
今、このときに限っては、ウィリアムらの力が羨ましくて仕方がなかった。




