第四章 十九話 理想の狂信者
重苦しい鈍色をした、雲の天蓋が頭上に浮かぶ夕方。
"赤"の"読み手"の"レミィ"は、カンテラを手にかび臭い階段を降りる。
階段は、彼女が同衾した男とともに見た、無数の翼竜級が蠢く地下牢へと続いていた。
彼女の傍には、例の男が居ない。
どうやら今日は単身で、あの場所を訪れるようであった。
たった一人で邪神が囚われている牢へと赴くこと。
種族主義団体の幹部であれば、その行動はそれほど不自然なものではない。
捕まえた邪神がきちんと生きているか否か。
事実、それを確かめるために、幹部たちはしばしばこの場に足を運んでいると聞く。
世界を自らの思想に染めるための、大事な道具なのだから、頻繁にチェックして然りだろう。
しかし、これがレミィがやるとなると、途端に自然とは言えなくなる。
現在の団体での彼女の立場はズバリ、幹部の男の情婦。
地位も決定権もなにもなく、と、なれば、新たな暴動計画の中枢を成す、翼竜級のコンディションを確認すること。
これをする必要は一切ないはずである。
しかもその上、幹部一同を除けば、レミィがエルフという事実は知られていない。
下っ端は、いつも外套を被っていために薄気味悪くて、さらに認識阻害のせいで、やたらと影の薄い女と思われているのだ。
ただでさえ、怪しいことこの上ない存在なのに、不自然極まりない行動をとったのならば。
この階段に足を踏み入れる前に、一悶着が起こることは必至だろう。
実際、そうなった。
あの夜も門番をしていた、巨体の彼にレミィは足止めされたのだ。
しかも、融通の利かない性格らしく、男を呼べの一点張り。
レミィとしては、手荒な真似は避けたかった。
だが、通さないのなら仕方がない。
いささか強引な方法でもって"説得"する羽目となってしまった。
「想定外。あんな奴に時間を食うなんて」
狭い空間故に、その独り言はわんわんと反響。
音が重なりあっているために、声はかなり聞き取りにくい。
しかし、それにも関わらず、彼女のその声には、苛立ちの音色を見出すことができる。
あのくそ真面目な門番のせいで、すっかり予定が狂ってしまった。
足早に階段を下りながら、レミィは悔しげに下唇を噛む。
地下に潜って一仕事終えたら、何食わぬ顔で男の下に戻って、これまで通りの生活をする予定であった。
だからもめ事は、絶対に避けねばならないはずだった。
だというのに、門番はしつこく食い下がってきて、突破するために昏倒させざる得なくなってしまった。
きっと、目が覚めた彼はレミィを敵だと、敵だと、わめきたてるだろう。
そうなればもはや、種族主義団体に身を寄せることは叶うまい。
今後のレミィの仕事に大いに影響する、まったくもって頭の痛い事態であった。
「最低限。目の前の仕事は敏速に片付けないと」
小さく呟いたからだろうか。
今回の声はそこまで反響せず、とても明瞭。
呟き通りに、一層歩みを速めて底を目指す。
しばらく歩んだ後、嗅覚に変化が生じる。
カビのにおいとは別の饐えたにおいが、鼻につくようになったのだ。
においの正体。
それは地下牢の床にこびりついた血が、腐って発するにおいであった。
腐敗臭が鼻に届いたということは、もうまもなく底にたどり着くということだ。
「本当。嫌なにおい」
そう言うや、レミィはぎゅっと眉間に深い皺を寄せる。
わずかに吐き気を覚えた頃合い、彼女は階段を下り終えた。
においも一層強くなり、眉間の皺もより深くなる。
それでも構わずレミィは歩みを進め、進め。
そして立ち止まる。
太く、いかにも頑丈な鉄格子の前へ。
そしてその先には。
「好都合。まだ解き放たれていない」
牢の外のレミィに飛びかからんとする勢いで、にじり寄ってきたのは、人類が天敵、邪神翼竜級。
レミィを腹に収めようと、大口を開けて噛みつくも、当然鉄格子に阻まれ叶わない。
欲求が満たされぬことに、翼竜級は、ただただ悔しげにうなり声を上げるだけ。
「不潔。ただただ暴力欲求しか存在しない、汚らわしいケダモノめ」
声にたっぷり嫌悪を込めて、レミィはそう吐き捨てる。
邪神のせいで、人類は絶滅寸前にまで追い込まれたのだ。
嫌悪を、そして恨みを抱くのは至極当然のことだろう。
「処分。今、ここで」
だから、レミィはとても自然な動きで愛銃を抜きはなった。
嫌悪、恨み、そして仕事。
これらの要素が複合的に絡み合った結果、彼女は強烈な意志を抱く。
今、この場で、この人類の天敵どもを始末する。
抱いた意志とはそのようなもの。
躊躇いは一切ない。
レミィはゆっくりと腕を上げて。
銃口を牢の内にて這い回る翼竜級たちに向けて。
狙いを定めて。
今、発砲――
「いや。処分されては困るな。私たちの理想が実現できなくなってしまうからな」
――しようとした、まさにその時。
彼女の背後、階段の入り口から声、響く。
ねっとりとした男の声。
先日褥を共にした、あの男のもの。
レミィは反射的に身を翻し、銃口も声の方へ。
そして振り向きざまに発砲を試みた――のであるが。
「姿。何処にっ」
声がした方向に間違いなく振り向いたというのに。
どうしたことだろうか。
声の持ち主である、あの貴族の男。
その姿がどこを探しても見当たらなかった。
あれは空耳か。
しかし、そんなはずはない。
あんな明瞭に聞き取れる空耳があってなるものか。
では、大急ぎで階段を上って逃げたのか。
いや、それにしては駆け上がる足音が聞こえなかったではないか。
憶測をして、すぐさま否定し、また別の憶測をして、再び否定して。
それを何度も繰り返しつつも、レミィは顔を右に、左にと振って、男を探す。
二往復、三往復……いや視線を四往復させた頃合いか。
じゃり。
レミィの聴覚が音を捉えた。
靴のソールが、小石を噛む音だ。
捉えたのは聴覚だけではない。
たしかに足からも、石が踏まれて転がる振動が、伝わってきた。
音は左方からした。
そして、彼女はこれっぽっちも足を動かしていない。
と、なれば――
体の正中を音の方へ。
むろん、銃を突きつけながら。
しかし、またしても。
視線の先には誰も居ない。
そのように見えた。
だが、きちんと石が転がる振動を捉えた以上、男が見えない、なんてことは本来あってはならないはず。
それは、そう。
レミィ自身が男を見落とさない限りでは。
「何故っ? まさかっ」
焦り色濃いレミィの声。
一つの可能性が彼女の頭をよぎる。
もし、自分が男の姿を見落としたのであれば、それは――
努めて、視覚に意識を集中させる。
するとはじめて、男の姿を目に入れることができた。
距離は目と鼻の先。
腕を伸ばせば、届くほどに近い。
男は外套を着込んでいた。
そう、レミィ自身が着込んでいるそれとまったく同じものを。
魔道具!
認識阻害!
やられた!
「くっ」
様々な後悔が胸に渦巻く中、レミィは必死になって銃口を男に向けようとした。
魔力を込めて、発砲しようとした。
だが、しかし。
距離があまりにも近すぎた。
間に合わない。
彼女が照準を合わせることよりもはやく、男の腕が一閃して。
「がっ」
拳が、レミィの腹にめり込む。
胃を打たれたらしい。
酸味にあふれたにおいが食道から口に上ってきて、そして。
レミィは膝をつき、背中を丸め、ひたすらにえずきはじめた。
胃液を口から溢れさせながら。
「やれやれ。流石は独立精鋭遊撃分隊か。まさか今の距離、そしてタイミングで、発砲寸前まで持っていかれるとは思わなかった。冷や汗をかいたよ」
胃液を吐き続けるレミィを見下しながら、男は言う。
言葉ほど焦りは感じていないのだろう。
声には余裕の音色が多分に含んでいた。
「苦しんでいるところ悪いがね。このおもちゃは没収だ。本来レディには分不相応な、とても危うい代物だからね」
意思に反して収縮を続ける胃に気を取られすぎたか。
レミィはあっさりと、得物であるカスタムリボルバーを取り上げられた。
「うっ……うう」
未だ口から胃の内容物を吐き出し、うめき続けながらも、レミィは男を見る。
いや、睨む。
なぜ、自分を着けてきていたのか。
なぜ、自分のこの工作に気付けたのか。
そんな意思を込めながら。
彼女の意図は、きちんと男に伝わったらしい。
男は得意げな鼻息を一つついた。
「なに。簡単な話さ。最近あまりにも我々の情報が、守備隊に流れすぎていた。特に前回のアジトの件。あれは幹部を除けば知り得るはずもない情報なのだよ。君を除けばね」
「あ……あう」
ひとしきり胃の中身を吐き終わった頃合い。
男はレミィの栗毛の髪を引っ掴んで、面を上げさせる。
磁器人形よろしくの整った顔は、胃液と反射による涙で盛大に汚れていた。
その顔を男は遠慮なしに見つめる。
サディスティックなタチなのだろうか。
男の唇の端は、愉悦につり上がっていた。
「そして君にこの地下の話を伝えれば。必ずやアクションを起こすだろう、と踏んでいたわけさ。つまり君は泳がされていたわけだ」
「うっ……迂闊。だったのか。私は」
「その通りだよ。新人国憲局員さん?」
涙で湿った目で、レミィは男を見た。
彼女の両目に溢れていたのは、涙だけではない。
感情もだ。
その感情の正体は驚愕。
なぜ、そのことを、ただいまの自分が国憲局に所属していること知っているのか。
そのことに対する驚きであった。
「なぜ知っているのか、と言いたげだね。私は貴族だよ? 政治中枢に接続されているパイプ。こいつを持っていても、なんら不思議ではないではないか」
政治、軍事、財政。
邪神戦争の間に減じたとはいえ、しかし、王国における貴族の影響力はいまだ絶大であるらしい。
事実として、本来秘匿されるべき情報が、こうもあっさりと流出していた。
「……疑問。どうして」
「なにかね。答えられることならば、私はなんでも答えよう」
「愛国心。王国の貴族は例外なく、それを持っている。世間ではそう考えられている。なのに、どうして今の社会を混乱させる、愛国とはほど遠い暴挙に、貴族が」
「知りたいね。それはね。国を愛しているからだよ」
「何?」
答えになっていない答えに、髪を引っ張られている痛みとは別に、レミィは顔をしかめる。
彼女が得心していないことを、その表情で知り得たか。
男は得意げな、短い笑い声を漏らした。
「あの戦争が起きる前。王国は間違いなく世界帝国であった。世界中に点在する植民地。まさしく日の沈まない国そのものだった。だが、今はどうだ? 多くの植民地は邪神に落とされ、なんとか維持した植民地も独立を認め、領土はいまや猫の額ほど」
「不得心。それが種族主義とどうつながる?」
「植民地放棄の根底にあるものが、統合主義だからだよ。皆さん、手を取り合って仲良くやっていきましょう。それは人と国に、序列を作る植民地支配とは相容れない考え方だ。その考え方のせいで、愛する王国は、衰退の兆候を見せつつある」
「再興。それを促すための、カンフル剤のつもり? この馬鹿げた計画が」
「その通りだ。民心を種族主義に傾けることができれば、だ。王国は野心あふれる世界帝国の地位に戻ることができる。王国の民は支配者の矜持を思い出すことができる。そのはずさ。だが、しかし」
男は一度言葉を句切ってため息。
やれやれ。
とても残念なことに。
漏らした息には、わざとらしいくらいにそんな意が込められていた。
「要領を得ていないだけで、君はまったく優秀な諜報員であったよ。おかげで、計画は大きく狂ってしまう羽目となった。風説を流布する前に、邪神を解き放つ真似をしなくてはならくなってしまった」
「生憎。時を待たずして、守備隊がここに踏み入る。邪神を解き放つこと。それは叶わない」
「それはどうかなあ」
男が喉を鳴らす。
ひどく愉快げに鳴らす。
それはレミィの癪に触れるものであった。
「不愉快っ。なにがおかしいっ」
「いやいや。今、守備隊は余裕がないから、ここに来ることができないだろうなあ、と思っただけだよ。ゾクリュ四方の内、三方からどこからともなく邪神が涌いて出たのだから」
「何?」
男はますます体を揺らして、愉悦の様相を色濃くする。
発言。
そしてこの態度。
男が、いや、種族主義者がなにをしでかしたか。
ほとんど本能的にレミィは理解した。
「貴様……! まさか……!」
「そうさ。邪神を捕らえる地下牢。それはなにもここだけの話ではなかった。それだけの話だ」
それだけの話。
終戦を迎え、ようやく平和を取り戻した市井に、混沌と流血の象徴たる邪神を解き放つこと。
それをそれだけのこと、と、この男は吐き捨てた。
去年まで戦場暮らしをしていたレミィにからすれば、思考を沸騰させるのに、その一言で十分であった。
私は。
私たちはそんなことのために命を賭けたのではない!
平和を望まぬこの男は。
まさしく。
まさしく!
「狂人……! この狂人め……! 理想の狂信者め……!」
「狂人? なにをいまさら。当然じゃないか。狂って当然じゃないか」
歯を剥いての罵倒。
しかし、男の心にはまったく響かなかったようだ。
人を小馬鹿にする、後味悪い鼻笑いののちに。
「信じ狂うことのできない理想。そんなものに価値なんてありはしない。だろう?」
こんな簡単なことにどうして気付かないのか。愚か者め。
侮蔑の色が目立つ一言を、男は吐き捨てた。




