第四章 十八話 大馬鹿野郎どもめ!
どこか遠くで雨が降っているのだろうか。
石が濡れたにおいが、不思議と街中に漂う夕方のことだった。
空模様は実際、雨が降りそうなほどに分厚い雲に覆われていた。
それ故、夕日の赤光は地上に一切届かず、世界がどんどん濃い鈍色に染まっていく――
そんな風情の欠片もない黄昏時、ソフィー・ドイルは荷物を携え、ゾクリュ守備隊隊長室の扉をノック。
「はいはーい。どなた?」
すると、内から気の抜けた誰何の声。
本来隊長に求められるべき、厳格さを一切欠いた、ナイジェル・フィリップスの声であった。
「はっ。ドイル少尉です。大佐宛の郵便物が届いておるのですが」
「はーい。ありがとう。入っていいよ」
気のない語調のナイジェルとは対照的に、はきはきとした声色でソフィーは返答。
そして、模範的な軍人そのものな手運び、足運びで上官の執務室へと踏み入った。
持ち主の気性が大いに反映された、整頓されていない書類の山が根を下ろす、デスクの向こう側。
書類棚を背にしたナイジェルは、さきの声色同様、しまりのない顔付きで、気だるげに腰掛けていた。
もっとしゃんとして座っていろ。
生真面目な性分であるソフィーは、よろずにゆるい上官を注意したくなる衝動を、なんとか堪えることに成功。
極めてスムースな動きで、彼に敬礼を捧げた。
「で? 僕宛の郵便物ってのは?」
「はっ。こちらです……が」
ソフィーは脇に携えた、件の代物をナイジェルに披露しようとするも、ここで問題発生。
彼のデスク上の書類が、あまりにも散乱しすぎているが故に、ブツを置くスペース。
これがまるっきり存在しなかったのだ。
どこに置いたらいいのか。
それを暗にナイジェルに知らせるために、ソフィーはわざとらしく咳払い。
「ん? あ。あー。ごめん。場所ないよね。じゃ、そっちの応接テーブルの上に置こうか」
その意図に気付いたナイジェルは、バツが悪そうに目を逸らして、テーブルを指さす。
流石に来客用の備品なだけがあってか。
執務デスクとは対照的に、オーク材で拵えたテーブルはきちんと整頓されていた。
さて、ソフィーはその指示通りに、郵便物をテーブルに置く。
ことりと、かたく、そして乾いた音が部屋の空気を震わせた。
「解析班の話によると、危険な代物ではないそうです。しかし、使途は一切不明です」
「差出人は?」
「それも一切不明です」
真面目な性格が、そのまま素直に現れた、とてもかたい語勢でソフィーは言う。
彼女の言うとおり、ナイジェルに宛てられた贈り物は、まったくもって正体不明であった。
木製の正立方体。
郵便物を一言で表すのならばそれであった。
大きさは世間一般のサイコロよりもずっと大きい。
ソフィーの手のひらより、ひとまわり上回る、といったところ。
そしてどうにも、その正体は巨大なサイコロでもないらしい。
六面すべてに目が刻まれて居らず、つるりと真っ平ら。
その内一面が、真っ赤に塗りつぶされている以外は、なにも変哲もない、ただの立方体の箱であった。
「こんなご時世です。はじめは爆弾と疑ったのですが……」
しかし、先の言葉通り、どうにも危険物ではないとのこと。
差出人も不明なことも相まって、廃棄してしまうか。
だが、上官への郵便物を勝手に捨てしまうのもどうか。
彼女はそんな葛藤をしばし続けて、結局ナイジェルへ渡す判断をしたのだろう。
本当にこれで良かったのか。
ソフィーに顔には、未だにその手の迷いがつきまとっていた。
怪しいことこの上ない郵便物。
が、宛先のナイジェルときたら警戒感とは一切無縁なようであった。
いや、警戒するどころか――
「ふうん。なるほどね」
どこか納得した声を上げて、訝しむ様子。
それを一切見せず、ひょいと箱を摑み上げてみせた。
「この箱になにか心当たりがおありで?」
「うん。これね。手紙の一種みたいなもんだよ」
「手紙? これが?」
「そう。言うなれば、国憲局式の封筒……ってとこかな」
「国憲局の?」
「うん。この中にね。報告書なりなんなりの書類が入ってるんだよ」
つまりは王国が持つ、情報機関がナイジェルに書類を送ったということか。
ならば、なるほど。
箱自体が警戒すべきものでは、たしかにないようである。
しかし、そうであるならばそうで、ソフィーの脳裏には、別種の疑問がにわかに浮上した。
「どうして、大佐はこれが国憲局関連のものだとお知りなのでしょうか」
「あれ? 言ってなかったけ? 僕は、元々国憲局の出だって」
「初耳です。戦争中は後方勤務だった、としか」
「その前だよ。でも、入ったはいいけど、仕事が好きになれなくてね。向いてなかったんだろうね。お堅い雰囲気に馴染めなかった」
ナイジェルは肩をすくめて自嘲。
社交辞令にのっとり、ソフィーは、向いていないとは思わない、と言うことができなかった。
むしろその逆。
心の底から、本当に馴染めなかったのだろうな、と納得してしまっていた。
手を抜かず、サボらず、真面目に情報収集しているナイジェルの姿を、ソフィーは思い浮かべることができなかったのである。
それもすべて、ナイジェル本人の普段の勤務態度の悪さが成せる業であろう。
「でも、どうして僕にこれが。悪戯かな? 国憲局がいまさら僕に用はないはず。友人に元局員が居るけど、もしかして奴の仕業か?」
「つまり、これは偽物だと?」
「多分ね。もし本当なら。こうして指定の辺に魔力をこめながら撫でると……面が外れ始めるんだよ。カチッ、という、鍵の外れた音のあとにね」
かちり。
こんな風にね、とナイジェルが実際に辺を撫でたその直後に箱から音がした。
二人は音に反応。
体をぴくりと小さく震わせて、息を呑む。
沈黙。
そして静かに目を合わせあって。
そののちに、ナイジェルの手元の箱に二人分の視線は注がれた。
ぽろり、ぽろり。
一枚ずつ、面が外れてゆく。
四枚目が外れ、五枚目が外れ。
そして最後の六枚目、あのやたらに目立つ真っ赤な一枚が外れて、中が明らかになる。
箱の中にはさらに小さな立方体が納められていた。
外に比べると、中のそれはいささか個性に富んだ箱であった。
六面すべてに、笛の指穴を連想させる穴が、五つずつ開いているのだ。
「……本物だ」
ぽそり。
ナイジェルが呟く。
声色、表情。
共に呆然とした様子。
嘘や冗談を言っていないのは明白であった。
「書類はこの中に?」
「その通り。今から、とある操作を箱に与えてね。中を取り出すのさ。最後に赤い面が外れるのはたしか……六号暗号だっけか」
ぐっと、ナイジェルの手に力がこめられたことに、ソフィーは気付いた。
どうやら、この箱を開ける気でいるらしい。
「た、大佐。少しお待ちを」
「ん? なに?」
「もし、開けようとするならば……その。私が居る前でやらない方がよろしいのは? 機密の保持の面で適当では……」
「気にしないで大丈夫。見たところでわかりはしないよ」
「しかし」
「今」
ナイジェルは右手を、箱をわずかにソフィーに突き出す。
彼の人差し指、中指、薬指は、五つの穴の内、真ん中三つを塞いでいた。
特に人差し指をうねうね、そんな風に動かしているあたり、どうやら穴を塞ぐことが開封操作であるようだ。
「今、僕は穴を三つ塞いでるね。塞いでる三つの指の内、一本は魔力を流してるんだけど。その指がどれかわかるかな?」
「いいえ。それは」
「各面にもこれをやる。しかも数回にわけて、だ。その都度、塞ぐ穴の数、塞ぐ位置、そして魔力を流す指と本数も変えるんだ。ついでに両手でやる。これを見ただけで把握できる?」
「いいえ」
「なら、いいよね」
ソフィーは返答しなかった。
それを了解とナイジェルは受け取ったのか。
さっそく箱を両手で持って、一度軽く深呼吸をした。
「えっと。六号の解法はっと」
そういう声は、いかにも記憶の海に潜って、解き方を探している風。
しかし、ナイジェルの運指は言葉とは裏腹に、まったく躊躇いもよどみもない。
次から次へと穴を塞ぎ、離し、面を移し、また塞ぐ。
その動作を数回、いや数十回繰り返した頃合いだろうか。
かちり。
部屋に再び解錠音、響く。
びっくり箱のように、一面がぱかりと開いた。
箱に納められていた折りたたまれたの紙片を、ナイジェルはひょいとつまみ上げて。
「さてさて。隠されたラブレターを拝見、拝見」
そしてデバガメ根性に満ちた一言を紡ぎ、紙を広げるナイジェル。
顔も声もいつも通り、しまりのないもの。
しかしそれも最初の内だけだ。
紙上の文字を読み進める度、みるみる顔付きはかたく、引き締まったものになっていく。
なにか悪いことでも書いてるのだろうか。
ソフィーが上官の表情から、そう思い始めたのと。
「……おいおい。なんてこった。えらいことになる」
思わず口に出てしまった風情に満ちた、ナイジェルの独り言が出たのは、ほとんど同じタイミングであった。
「くそっ!」
ナイジェルが罵詈とともに、箱と書類を乱暴に応接ソファーに叩き付ける。
その態度は、よろずマイペースな上官にしては、あまりに珍しくて。
ソフィーは少しだけ呆気にとられ、わずかに息を呑んだ。
「ソフィーちゃん! 出番、非番を問わず、全隊員に通達! 完全武装の上で中庭に集合させて!」
「か、完全武装で中庭に、ですか?」
「そう! 敏速に! 一刻を争う緊急事態だ!」
「り、了解! しかし、一体なにが!?」
「邪神だよ! 邪神!」
「なっ……!」
これより邪神に対抗せなばならない。
短く吐き捨てたナイジェルの一言に、ソフィーは衝撃を受け絶句。
茫然自失となる。
「種族主義の大馬鹿野郎どもめ! なんてことを! ゾクリュに邪神を持ち込んできやがった!」
対するナイジェルも珍しく怒り心頭で、部下の顔色をうかがう余裕はないらしい。
ソフィーが居ることなどお構いなしに、ほとんど怒鳴り声でもって、そう独りごちた。




