第四章 十五話 諮問と笑いと
その部屋には、においが充満していた。
二つのにおいが交わった、複雑なにおいだ。
一つは蠟が溶けるにおい。
おいは元を突き止めるのは簡単だ。
光源として用いている、チェストの上にある蝋燭の仕業である。
ベッド、チェスト、椅子、そしてカーテン。
この部屋には物はそれしか存在していない。
そして、部屋に満ちるにおいの内、もう一つはベッドの上にあった。
蝋燭のにおい同様、場所の特定自体は容易であった。
だが、蝋燭のそれとは、やや趣を異とした点もある。
においの形容が難しいのだ。
甘ったるいとも言えるし、饐えているとも表現できる、そんな不思議なにおい。
ただし、においの形容は難しいけれど、どうしてこのにおいがするのか。
部屋に訪れた者が、そんな疑問を抱くことはきっとないだろう。
ベッドに腰掛ける者たちを見れば、たちまちにおいの理由を悟るからだ。
薄汚れたシーツの上。
衣を整える二つの影があった。
衣擦れの音を伴った影だ。
影の正体は男女。
なにがあったのか。
今更改めて語る必要はあるまい。
つまり、においはその名残であるのだ。
「質問。いい?」
粘っこい沈黙を切り裂き、そう問うは女の影。
磁器人形さながらの美貌に、健康的で艶やかな栗毛に、長く尖った耳。
女のかなり目立つ容姿は、紛うことなきエルフのそれであった。
「なにかね。どうぞ」
対して男の相貌は地味なもの。
色がぼやけた癖のある金髪以外に、目につくものはなにもない。
ごくごく平凡な多様人、といったことろだろう。
不細工ではないのは確かだが、男前とは言い難い。
その点でいえば、女と釣り合ってはいなかった。
だから、世の男共は口々にこうやっかむはずだ。
行為をいたしたのはなんと奇跡的なことだろう、と。
「虜囚。先日、歌劇座が捕まえてきた人々。解放されてしまったけれど、あれは、なんのために捕らえたの?」
「なんと。これまた真面目な質問だ。私としては君と枕元にて、もっと詮なきことを、囁きあいたいのだが。レミィ殿?」
だが、奇跡的であったのは、行為だけの話ではない。
彼らがこうして一つの部屋で、一夜を過ごすこと自体が、本来であればあり得ぬ話であった。
レミィと呼ばれた女が口にしたのは、先日の歌劇座が秘密裏に行っていた、異種族の拉致事件の話。
そして解放されてしまった、という彼女の言い回し。
そう。
彼らは種族主義者なのである。
その主義主張によらば、彼らは本来いがみ合ってなければならないはずだ。
しかし、どうしたことか。
そんな気配は一切見られず、あまつさえ男は、睦言を交わしたいと言う始末。
憎悪の影も形も見られなかった。
しかし、レミィは、男よりもずっと素っ気なかった。
ピロートークなどご免、とばかりの意志の強い眼差しでもって、男を射貫いた。
流石にお望み通りにいかないことを悟ったか。
男はわざとらしく両手をあげて降参の意を表して。
大人しく、彼女の疑問に答えることにしたようだ。
「不自然。単純に数を減らしたいのならば、捕らえた端から処分しておけばいい。でも、そうはしなかった。処分するどころか、牢に入れて、集めて留めていた。まるでため池みたいに」
「それは彼らが嫌がったんだ。人を殺すのは勘弁ってね。だから、後回しにする一方で、どんどんたまっていって。結果、あんなザマになってしまったのさ」
「不得心。ならこちらが手を回して、始末すればいいだけの話。でも、そうしなかった。それどころか、きちんと食事すら与えていた。生き長らえさせていた」
「死刑囚と同じだよ。刑執行する前に死なれては困る。殺すその時が来るまで、元気でいて貰わねばならなかった」
「死刑囚? それよりも適当な形容があるでしょう」
「ふむ。適当な表現とは?」
「家畜。それも出荷寸前の」
「……ふむ」
家畜。
レミィがその言葉を口にした途端、男の態度がにわかに変わる。
それまで、いかにも煙に巻くような、なおざりな態度から、真剣味あふれる顔付きへ。
論文の諮問する教授のような、一切遊びのない面持ちだ。
男の表情の変化を、口述継続許可である、と見なしたか。
レミィは、鼻息軽く吐いたのち、再び口を開いた。
「以下私見。彼らに饗した食事に使っていた肉はクズ肉ではなく、ベーコンだった。そしてポテトや米も振る舞っていた。金をケチっていたわけではない。節約するなら、もっと下等な物を食べさせているはず。なのに、明らかにメニューを厳選していたきらいがある」
「なるほど、続けたまえ」
「承前。さらに食事にはラードをはじめとする油を、ふんだんに使っていた。ポテトはフリッツに、米はピラフに。いずれも油でギトギトで、明らかに高エネルギー。軍人なら兎も角、運動不足の人間にそれを食べさせる理由とはなにか。どう考えても――」
「太らせるためのメニューにしか見えない、か?」
「是。故に家畜、と。彼らの出荷先はどこ? 人食いせざるを得ないほどの飢餓地帯は、今のところはないはず。なら自家消費?」
殺す予定の者をわざわざ太らせることに意味はない。
意味を持たせるシチュエーションがあるとすれば、畜産よろしく、食肉として潰すときのみ。
食人など、素面ならまずあり得ぬ、と弾かれる可能性だ。
だが、しかし、すでにこのゾクリュに留まる種族主義者たちは、拉致監禁に暴動と正気を失っているきらいがある。
どんな暴挙を犯してもおかしくはない。
例えば同志間の結束を強めるための、イニシエーションの需要とか。
異常行動を取り共犯者意識を高めるのに、食人という行為はこれ以上にないだろう。
それ故レミィは食人という、狂気的な可能性を排除しなかったのである。
さて、こうして彼女はカマをかけたわけであるが、男の反応は――
どちらとも取れない反応を示していた。
愉快げにゆらゆら。
笑いに身体を揺するのみ。
馬鹿げた質問による失笑か。
それとも正鵠をぴしゃりと得たことによるものか。
笑いの正体はさて、いかに。
「流石は元・独立精鋭遊撃分隊、といったところか。よろしい合格だ」
どうやら後者であるらしい。
ひとしきり満足げに笑い終えると、男はゆったりとした所作でベッドから立ち上がった。
そして、レミィに向き合い、一度彼女の髪を撫でて。
「これから君に真実をお見せしよう。阻害外套を羽織って、私の後についてきたまえ」
ひどく嫌らしく、粘っこい声色を、本来彼が排除すべき女に浴びせかけ。
そして、パーティーへエスコートする紳士そのものな、恭しい手付きで、彼女の手を取り。
静かにレミィを立ち上がらせた。




