第四章 九話 話す必要は、ない
外は赤煉瓦、内は飾り気も意匠も一切ない、安っぽい灰色の壁。
質実剛健、あるいは無骨。
そんな評価を賜るゾクリュ守備隊隊舎において、その場所は異端であり、また例外であった。
貴賓、あるいは参謀を迎え入れるための個室。
イレギュラーな場所とはそこである。
部屋の真ん中には、黒光りする革張りのチェスターフィールドに、いかにも歴史を感じさせるバルボスレッグのマホガニーテーブル。
そして壁には、当世にて大人気のアール・ヌーボの華やかな絵画が掛けられる始末。
無骨とは縁遠き、豪奢そのものな内装。
カントリーハウスの一室である、と嘘を言っても、他人を十分に騙せる装いであった。
ゾクリュ守備隊自慢の一室と換言してもいいだろう。
「――以上が報告です」
ノーブルな空気を醸す部屋に、ハキハキとした声が響く。
チェスターフィールドを背に起立した、ゾクリュ守備隊の隊長、ナイジェル・フィリップスのものだ。
常日頃の彼の姿を知るものであれば、ただいまの軍人然とした声色に困惑すること受け合いだろう。
なにせ、いつもの彼ときたら脱力的で、覇気がこれっぽっちもないのだ。
そんな男が、いかにも軍人とった具合の受け答えをしたのだ。
現にこの場に同席している副官のソフィーは、上官の豹変に肝を潰しているらしい。
ちらちら、こっそりと彼に注ぐその視線は、猛烈な不信感に満ちていた。
もっとも、よろずマイペースなナイジェルが、一種畏まった態度を見せるのも、当然のこと。
マホガニー材が眩しいテーブルの向こう側。
そこに座す人間に、彼が真面目になった原因わ求めることが出来た。
その人物は、ただいまナイジェルより手渡された資料とにらめっこ。
眉間に皺を寄せ、しかめっ面で紙を眺める男は、総白髪をオールバックにしていた。
体躯はそれほどではなく、むしろ小柄。
そんな老人だ。
無個性の一言で片付く、ありきたりな容姿である。
唯一の個性といえば、感情に乏しいガラス玉めいた碧眼が、妙に人の記憶に留まり続けるくらい。
そんな言ってしまえば地味な老人に、どうしてナイジェルはわざわざ畏まる必要があったのか。
端的に言えば、この老人がただ者ではなかったからだ。
大佐の地位にあるナイジェルよりも、ずっとずっと高い地位に居る男。
それがこの人物の正体であった。
この総白髪の男の名前は、コンスタット・ケンジット。
そう。
口さがない連中から、冷血宰相なる陰口を叩かれ続ける、王国における政治の頂点に立つ男であった。
「なにか質問はございますか?」
ナイジェルは引き続き、努めて胸を張って宰相に問いかける。
騎士級乙種の襲撃、生体兵器暴走事件、そして先日の種族主義者の大暴動。
ここ最近でゾクリュで立て続けに発生した、とても物騒な事件群。
ナイジェルは資料を活用し、先ほどまでこの老宰相に、一連の顛末を一片の漏れなく叙説してきた。
さて、それらを受けた長きにわたり、政界にしがみつく、この魍魎は――
なに一つも言葉を発しようとしなかった。
しかし、質問すべきことが皆無、というわけではなさそうだ。
言葉のかわりに、ガラス玉と近似の輝きもつ目玉を、ぎょろりとナイジェルに向けたことが、その証拠である。
返事代わりにナイジェルもその目を無言で見て。
二人の視線は交錯した。
するお、コンスタットは一度ナイジェルから視線を外して。
副官の役割、と言わんばかりに隣に居るソフィーを射貫いて。
そしてつい、と顎でしゃくる。
そこだけは部屋の空気から浮いた、無骨な造りの扉を。
(なるほど。これから問いたいことは、なりたての尉官には聞かせるべきではない、ってことね)
権限を持った者のみ話してやる――
老宰相の言わんとしていることは、つまりはそのようなもの。
上級者にしか話せない案件を持ってきた、と見るべきで、案の定厄介事をゾクリュに持ち込んできた、と換言できるだろう。
ゾクリュにとってはまったくありがたくない状況だ。
だから、ナイジェルは舌打ちの一つでもしたい気分になった。
出来ることなら聞きたくはないというのが、彼の本心だ。
だが、厄介事を聞くのが仕事の一つである以上、逃げることは許されていない。
内心は嫌々ながら、彼は宰相の無言の要求に応えることにした。
「ドイル少尉。すまない――」
「承知しております、大佐。小官は席を外しましょう」
コンスタットの目の動きを、しかと捉えていたのだろう。
ナイジェルが深く説明する前に、彼の副官は、しっかりと意を汲んでみせた。
若輩者がのけ者にされることに、妥当性を見出しているのだろう。
特に不満を抱いた様子もなく、宰相の要求通り、ソフィーは退室。
かくして、ナイジェルとコンスタットのふたりきりとなった。
「フィリップス大佐。まずはかけたまえ」
「はっ。では、失礼します」
どちらが、この場所の主か客か。
それがわからなくなりそうなやりとりの後、ナイジェルは着席。
ぎゅう。
ぎぎぎ。
革とスプリングの軋みが部屋に響いた。
「大佐。三つの事件の内、二つの事件を最小限の被害に抑えたこと。まったくもって見事であった。陛下も大変お喜びになっていたことを伝えておこう」
「はっ。身に余る光栄であります」
先日、ナイジェルに送られた表彰内示の文面と、ほとんど同じの台詞を宰相は吐く。
まずは社交辞令から、といったところだろうか。
ナイジェルもまた、お決まりの科白を返すことで対応。
さあ、これで社交辞令はおしまい。
そろそろ本題が、若い大佐の身に降り注ぐはず。
さて、一体どんな厄介事を押しつけてくるのか。
ナイジェルは、しゃんと背筋を伸ばして、威厳あるポーズを取りつつも、内心は少し前のめり気味となる。
だが、しかしその身構えは徒労に終わることとなる。
ナイジェルが予想だにしなかった言葉が、年老いた宰相が紡いだのだ。
「ついては国家への貢献。より一層の尽力をお願いしたい。更なる国家への忠節をお願いしたい。以上だ」
その言葉は先ほど終わったはずだった、社交辞令の続きのようであった。
挙げ句に果てには、伝えるべきことはこれで終わり、と言わんばかりに、コンスタットは静かに立ち上がって、部屋を後にしようとする始末。
「……は?」
わざわざ人払いしたというのに、言うことはたったそれだけか。
あまりにも肩すかしが過ぎた。
だからナイジェルは思わず、と言った具合で間抜けな音を、口から漏出させてしまっていた。
その音は、総白髪の宰相の耳にも届いていたらしい。
解せぬ、といった体のナイジェルが気にかかったのか。
コンスタットは扉の直前でぴたりと足を止めて。
「なにか?」
背中越しに大佐に声をかけて、その様子をうかがった。
「いえ。無礼を承知で申し上げれば、あまりにもあっさり過ぎではないかと。例えばウィリアム・スウィンバーンの近況について、なにかお聞きになりたいことはないのかと」
「無用だ。プリムローズ大尉から聞けば良いだけのこと。わざわざ貴官から聞く必要はない」
「では、種族主義者の暴動に関連する、ハドリー・ロングフェローの暗殺事件。これの目撃者を見つけた件は――」
「必要ない。説明も、その後の調査も、だ」
「……は?」
再び、ナイジェルの不随意の声、漏れ出す。
それもそのはずだ。
もう暗殺事件についての調査はするな。
今のさらりと言い放った宰相の台詞の意味とは、これなのだから。
あの事件は、その真相をしっかりと詳らかにせねばならない。
ハドリーを始末したのが、恨みを持つものであればまだしも、だ。
種族主義者団体が殺したのならば、全力で調査しなければならない。
なにせ口封じのために、暗殺という手段を選ぶ連中なのだ。
排除しなければ、あまりにも危うい存在。
その尻尾を摑む、そのきっかけが折角目の前にあるというのに。
この宰相は調査を放棄せよと宣っているのだ。
「……理由をお聞かせ願います。何故でしょうか?」
当然それは、ナイジェルにとっては承服出来かねること。
上意下達が絶対である軍人の在り方からすれば、落第点もいいところなことを、重々承知なれど、彼は問い質さずを得なかった。
何故、調査を打ち切りにしなければならないのかを。
だが、扉の前の老宰相は答えず。
一度たりともナイジェルを振り返りもせず。
そのままドアノブに手をかけ、回して。
そして無言のまま、華やかな一室を後にした。
それはつまり――
「僕が知る必要がないってこと。つまりは、雲上人らが関連する案件、かあ」
一人部屋に残されたナイジェルは、取り繕った軍人然の態度を崩して、そう独語した。
その声色は心底うんざりとしたものである。
政治的ななにかのせいで、守備隊の活動が阻害されること。
そうなってしまうことが、はじめの事件である騎士級乙種襲撃以来、このゾクリュにはあまりに多すぎる。
その上、今のゾクリュにはウィリアム・スウィンバーンという、厄介な爆弾も存在するのだ。
おまけにソフィーをわざわざ退室させておきながら、その癖詳しくものを話そうとしない、不自然な宰相の態度。
これでうんざりしない者が居たら見てみたい。
ナイジェルはそう思った。
突然の調査打ち切り、そしてウィリアムに処された、実体のない流刑。
国はこのゾクリュで、なにかロクでもないことを企んでいるのではないか。
最近の動きはそう思わずにいられない。
それほどまでに、不穏な要素がゾクリュに集まりすぎていた。
「……陰謀論。大っ嫌いなはずだったんだけどなあ」
一人きりとなった部屋に、再びナイジェルの独り言が響く。
当然、彼の言葉に返す者は誰一人と居なかった。




