第四章 六話 どうして来られてしまうのか
涼やかな風がそっと庭を駆け抜けた。
一陣の風により背が高くなった、ハーブはさわさわと静かに、しかし大きく揺れる。
その様は緑の大海が、ゆったりとうねっているようにも見えた。
生命力にあふれたそのうねりを眺めていると、自然と口角が上がっているのがわかる。
ああ、ここまで育ってくれてありがとう。
そんな成人した子供を前にした親心のようなものが、胸一杯にあふれた。
たかだが草相手に、そんな感情を抱くのはおかしいことかもしれない。
だが待って欲しい。
このハーブは先日アリスの頼みで植えたもの。
そして同時に、俺がこの屋敷にやって来て、初めて育てあげた植物でもあるのだ。
今までしてきた世話が無駄ではないと知って、感激を覚えるのは是非もないことではないか。
さて、感動するのはこれくらいにしておこう。
一仕事しようではないか。
俺の傍らに立つアリスに一言をかける。
「それじゃ、摘んでいこうか」
「はい」
その手に鎌を持っていることが、ちょっと物騒に写るけど。
彼女はゆったり、恭しく頷く。
いつも通り、穏やかな笑みを湛えながら。
そうして俺とアリスは、レンガ積みの花壇へ足を踏み入れた。
育てたハーブを刈り取るために。
恥ずかしながら、俺はこの生活に入るまでハーブってやつを育てたことがなかった。
いや、家が健在だったころは、誰かが育てていたのだろうが、生憎と興味がなかったもので覚えていない。
まったくの無知識であったわけだ。
その無知識っぷりは折り紙付き。
なにを隠そう、刈り取りの仕方すらわからなかったほどだ。
無造作に刈り取ってもいいものか。
それこそ麦を刈り取るように。
いやいや、ハーブはあんなに香り高い草木なのだ。
きっと繊細な性質で、刈り取るのも細心の注意を払わねばならないのでは。
しかし、育てるのは割と簡単だった。
ほとんど放置していたくらいだし。
待った、待った……
と、ひたすらに堂々巡り。
そんな自問自答の結果は、一本一本、ハサミか手でもぐような、そんな非効率で慎重なやり方がいいのでは、というもの。
全部刈るまで何日かかるのだろうか、と思い至ったときは、愕然としたものだ。
調子に乗って、あんなに大量に苗を買わなきゃ良かったとすら思った。
だから居ても立ってもいられずに、街の苗を買った花屋に相談したのだが……
これが実にお笑いな発想だったらしい。
げらげら。
大笑いされてしまった。
花屋が言うには、そんな繊細な真似をしなくとも、結構とのこと。
麦を刈り取るように、豪快に刈っても問題ないと聞いたとき、心底ほっとしたものだ。
……ただ、店先にげらげら笑われるものだから、通りの衆目、それを一身に集めることとなってしまったが。
あれはあれでかなり恥ずかしかった。
まあ、あれは刈り取りのやり方の、安い情報料ということにしておこうか。
さて、そんな恥を対価に得た情報を基に、刈り取り、刈り取り。
前屈みになって背の高いハーブを、無造作に束にしてむんずと摑んで。
手に持った鎌で豪快に根元から刈る。
ぷつり、ざくり。
繊維を断つ感触が手に伝わって。
ハーブは地から切り離される。
「おっ。いい香り」
収穫したハーブを鼻に寄せるまでもない。
鎌で切り取った瞬間から、鼻孔に押し寄せる圧倒的芳香。
どうやらきちんと育ってくれたようである。
「いつだかの戦場ティータイムで使ったハーブと、まったく同じやつだというのに。いやいや人の手がちょっとだけ入っただけで、ここまで素性が違ってくるもんなんだなあ」
「あのときは、こんな風に香ってこなかったのですか?」
「うん。全然。鼻を近づけてようやくふわり、って感じ。それでもむしろ草っぽい青臭さというか、なんというか。ハーブらしからぬ香りを放ってたけど」
「あ、青草の……あんな感じのにおいですか。我ながら、よくそんな代物をありがたがって飲んでましたね……」
「まったくね」
だが、しかし、今回は悲惨な目に遭わなくて済まなそうだ。
こいつをカビが生えないように乾かししたのならば。
あんな飲む者を咳き込ませる、悪魔の液体ではなく。
それはそれは素晴らしい香りを持った、美味しいハーブティーとなるはずだ。
そのためにも今はひたすらに、育ち上がったハーブを刈り取らねば。
束にして持って刈って。
束にして持って刈って。
それを何度も繰り返す。
作業に没頭する。
その甲斐あって、あっという間に花壇の半分まで刈り進んだ頃合い。
筋が縮こまって、少し腰が痛くなってきた。
痛みを誤魔化すために、真っ直ぐ立って腰を伸ばす。
「おや」
すると興味深いものが目に入る。
花壇を超えて、噴水のさらに向こう側。
やって来る人々を出迎えるための、門とアーチ。
そこになにやら人影がちらりと見えたのだ。
はて、今日はお客というか、俺への面会者というか。
とにかく来訪者の予定はなかったはずだ。
飛び込みの来客、ということだろうか。
ろくな出迎えをせずに、それが無礼なことだと重々承知したけれど。
俺は花壇の中で突っ立ったまま、じっと門を見つめる。
さて、あの人影の正体は如何に。
よく見て、よく見て、よく見たその結果。
なんだか見慣れた金の癖っ毛が、ちらりと見えたような気がした。
「クロード?」
その持ち主は俺の戦友であるクロード・プリムローズであるようだ。
見ず知らずの、素性の怪しい来客でないことに、ひとまず安心すべき……であるのだが。
快く彼を歓迎できるか否かと問われれば、残念ながら否となってしまう。
なにせこの生活が始まってより、クロードがアポ無しで屋敷を訪ねてくるときときたら、大体が厄介事を携えてくるのだ。
今日も要らぬ案件を持ってきやがったのか。
嫌な予感のせいで、意図せず眉をひそめてしまった。
「あら、クロードさんですか。なにをしにいらしたのでしょう? ご用件聞いてきましょうか?」
「いや、いいよ。今日は俺が行くから」
しかも、その面倒なことは大体が俺に持ってくるものなのだ。
ならば、直接俺が要件を聞いた方が良かろう。
そんなわけでレンガ積みをまたいで、噴水を横切り門の方へ。
格子状の門へと近付くその途中、歩み寄ってきた俺に気付いたクロードと目が合って。
びっくりしてしまう。
どういうわけか。
なにがあったのは知らないが。
屋敷にやって来たクロードのその顔は、なんだかとても青白く、いかにも胃が痛んでいるような面持ちであった。
まだ、何も告げていないのに、こんな顔をするとは。
いや、ファリエール女史の件で、彼は最近ちょっと傷心気味だったけれども。
それでもここまで生気の無い顔はしていなかった。
嫌な予感がますます強くなる。
さては持ってきた案件が飛び切り厄介なんだな、畜生。
余計なものを持ってきやがって。
そう言いたい気持ちをなんとか抑える。
まず形式張った歓迎の挨拶をせねば。
格子に手をかけて、門を開放。
努めて爽やかな笑みを作り出す。
いわゆる営業スマイル。
「やあ、クロード。よく来たね。しっかし、なんだか顔色が優れないみたいだけど」
「ああ、ウィリアム。いきなりすまないな。そしてもう一度、謝らせてくれ。すまない、ウィリアム。俺は止めることが出来なかった」
そしてクロード思いもよらぬ行動に出る。
挨拶を終わらせるや、いきなり謝罪。
それも言葉だけの謝罪ではない。
にわかに腰を折って、深々頭を下げてきた。
「お、おい。いきなりなにをしてるんだ? それに止められなかったって。さっぱり話が見えてこないのだけど」
「……今すぐにわかる。丘の下からその内やって来られるから」
ここにきて彼の悪い癖である、話のもったいぶりが……というわけではなさそうだ。
今のクロードはすっかり目が死にきってしまい、説明するだけの気力がないだけ。
そんな感じだ。
そして、この目付きには見覚えがあった。
「……まさか、ヘッセニアがなにかやらかした? まだ、奴は寝てると思うけど。叩き起こした方がいい?」
ヘッセニアが騒ぎを起こして、謝罪行脚をしているときのような、そんな虚無的な目だ。
だからまたヘッセニアが、どこかいらんところを吹き飛ばしたのかと思ったが、しかし。
彼はふるふる。
力なくかぶりを振った。
「いや。そうだったら、なんといいことか。まだ、謝るだけで済むそっちのほうがな」
「お、おう。ヘッセニアの暴挙が霞むくらいのことが、あんたの身に起きたのか」
「……ああ。まっことに不運ながらな。そして他人事を決め込む余裕なんて、お前にゃないぞ」
「……まさか、俺にも、そのやばい出来事が?」
「まさに、まさに。さっき言ったろ? 止めることが出来なかったって」
つまり、ヘッセニアの爆発悪戯に匹敵、それ以上のインパクトのある事件に直面したということか。
そしてなんても恐ろしいことに。
その事件とやらは、これから俺の身にも降り注ぐのらしい。
だから、俺は固唾を飲んだ。
とても厄介な出来事がやってくるであろう、門の向こうを眺めた。
門の外はそこそこ急な坂となっていて、ここからでは丘の麓が見えない。
目に映るのは青空を背負っている、絶望しているクロードのみ。
奇妙な態度のクロード以外には、取り立てて異常なしの平和な世界であったけれど。
そんな穏やかな世界にわずかな変化が生じた。
聴覚が変化を捉えた。
音が聞こえたのだ。
クロードとは別の軍靴の音。
平和には程遠い、無骨な音。
それが複数聞こえてきた。
なにが来るのか。
一層意識を耳に集中する。
その間にも音はどんどん、どんどん近付いてきて。
やがて軍靴の音のほとんどが止まる。
一人分を残してぴたりと止まる。
誰かを取り囲むようにして、護衛していたのか?
そして護衛は足を止め、護衛対象が一人でこちらに向かってきているのか?
音からそんな推測をしつつも、目はじっと前を留め置いていると。
クロードを疲弊させたなにかが、ゆらりと姿を現した。
「え……? は?」
それが、いやそのお方があまりにも予想外過ぎて。
その方おがここに来るのが、あまりにも非常識すぎて。
ぽかん、あんぐり。
阿呆みたいに口を半開きにしてしまった。
そんな俺を見て、ツボに入ったか。
そのお方は呵々大笑。
実に機嫌よさげに、大げさに頷き、腰に手を当てて。
「うむ! 久しいな! ウィリアムよ!」
威勢の良い再会の挨拶を紡いだ。
どうしてこんなところに。
そう思わずにいられない、目の前の豊かな栗毛の気品に満ちたご令嬢は。
わざわざ政治的に危うい立場な俺に面会してきたその人は。
王位継承順位第一位、メアリー。
つまりはこの国の王女殿下その人で。
同時にあの戦争中の俺たち分隊の書類上の上司その人でもあった。




