第三章 エピローグ・1 転車台のそばで
ゾクリュ駅の傍にある、転車台の上に架かる橋。
その橋の上で、ナイジェル・フィリップスは一人佇む。
欄干に頬杖をつき、ぼうと橋の下の転車台を眺めていた。
きっと、欄干には彼が手を付けたものであろう。
市場で買ったレモネードのビンやクリスプの袋が散乱していた。
普段は街の人々が待ち合わせとして使うこの橋。
しかし今に限って言えば、ナイジェル以外に人影一つも見ることができない。
その原因は他ならぬナイジェルにあった。
いや、より正確に言えば彼の服装、と言うべきか。
真っ赤な上着に純白のズボン。
紛うことのない王国陸軍の軍服。
それが今の彼の服装である。
ただでさえ、ここ最近のゾクリュは悪い意味で騒がしいのだ。
そんな情勢下、とある地点にずっと軍人が留まっているとなるとだ。
これはもう厄介事のにおいしか感じ取れない。
これ以上妙なことに巻き込まれるのは勘弁――
そんな風に市井の人々が彼を見るなり道を帰るのは、なるほど、無理からぬことだろう。
さて、図らずもパブリックな空間に、プライベートな居場所を作り上げることを成功したナイジェル。
そんな誰も近付きたがらない彼に歩み寄る者が居た。
その者は男だ。
年の頃はナイジェルとそう変わらないか。
栗色の髪に、糸目、そして薄い唇。
とにかく印象に残らない、そんな地味な顔付きの男であった。
その地味な男は、一身に厄介事のにおいを纏うナイジェルに歩み寄り、歩み寄り、歩み寄り。
そして、ナイジェルに倣って彼も欄干に肘をかける。
身を預ける。
肩を並べる。
脇目も振らずナイジェルの下へと歩み寄って行ったこの男。
どうにもナイジェルに用があるらしい。
「相変わらず素晴らしい手際じゃないか。暴動を最小限の被害で抑えるなぞ、並大抵の人間が出来ることではないぞ。ナイジェル」
開口一番に賞賛の声。
その声も実にありきたりな音色。
街の喧騒の中で聞けば、間違いなく埋没してしまうこと受け合いの、極めて地味な声だった。
そして挨拶もなく、こうも唐突に会話を始めようとするあたりからすると。
どうやらこの二人は知己であるらしい。
迷いもせずに、ナイジェルに隣に歩み寄ったこの男の名は、ジム・クルサード。
ナイジェルのかつての同僚であり、現在では、王都で探偵業を営んでいる男であった。
「いやあ。褒められることは何にもしてないよ。鎮圧は上手くいったけど、その後の対応で、まずっちゃってねえ」
「まずった? お前が? 珍しいな。一体なにを?」
「ハドリー・ロングフェローを拘束できなかった。見つけて、回収することは出来たんだけどねえ」
「……見つけて、回収は出来た? おい。それはつまり……」
「そ。そういうこと」
ジムは気が付いたようだ。
今のナイジェルの言葉は到底、生きているモノに使うべきではないことに。
そしてジムのその推測。
それが合っているか否かの答え合わせの機会はすぐさま来る。
ナイジェルは肩を落として、息を吐いて。
そしてぽつり呟いた。
「ハドリー・ロングフェローは死んだ。いや、殺された。至近距離で額をバキュンと一発。”さようなら”。撃った下手人はきっとこう言ったはずさ」
それは告白だ。
彼がしてしまった失態を告白。
重要参考人であったハドリー・ロングフェロー。
彼の確保を失敗したことを表明した。
「口封じか? 種族主義者の」
「状況的にそうだろうねえ。今、部下に彼がゾクリュ滞在のために購入した、古い屋敷を調べさせてる最中なんだ。種族主義者同士の繋がりを示唆する資料が出てこないかってね」
「だが……望み薄ではないか? わざわざ暗殺してまで情報の秘匿を試みようとする連中だぞ? 屋敷の中のめぼしい物なぞ、残っているとは思えんが」
「まあ、それはそうなんだけどね。でも、やるべきことは、全部やんなきゃならないんだよ。お仕事だからさ。無意味に終わることが見えてる、つらいお仕事だけどね」
「つらいお仕事ねえ。それにしちゃあ、今のお前は随分と暇そうじゃないか? こんな橋の上でクリスプつまんでレモネードで一杯なんて、暇人じゃなきゃ出来ないことだと思うんだが」
「それは、ほら。僕はここの上役なんだし。上役はいざというとき以外は、怠けてるのがお仕事だから」
「……相変わらず、部下の人使いが荒いようでなによりだよ。まったく」
「ははは。褒め言葉として取っておこうか。ところで、さ」
ここにきてナイジェルは視線を転車台から外した。
隣で欄干に肘をかけ、似たような姿勢を取っていたジムを見る。
印象に残りづらい地味な顔は、先のナイジェルと同じく転車台をじっと見ていた。
「頼んでいたもの。持ってきてくれたかな?」
「ああ、もちろんさ。こいつがそれだ」
視線を受け、ジムもまたナイジェルを見返す。
懐から一つの茶封筒を取りだし、ひらひらと軽く揺らして強調。
これが依頼の成果也、と主張した。
そう。
今日この橋の上で知己が邂逅したのは、偶然によるものではない。
つまりは彼らは街の人々と同じであったのだ。
ナイジェルがジムに依頼した書類の受け渡し場所として。
そして待ち合わせ場所として、この橋の上を選んだのであった。
「いやあ、流石は元国憲局員。情報を集めるのが上手い上手い。持つべき者はやっぱ友達だね。それじゃありがたく……」
「おっと」
ひらひら揺れる茶封筒を取るために、ナイジェルは手を伸ばす。
が、その手を避けるように、ジムはひょいと封筒を頭の上に掲げてみせた。
結果、ナイジェルの手はむなしく空を切るのみに終わる。
依頼の品を受け取れないナイジェルは顔をしかめた。
眉もひそめた。
ずいとさらに手をジムへと伸ばして抗議。
さっさと、そいつを寄越せて無言の要求。
けれど、ジムはそれに応えることはなかった。
ああ、不快也、と、ナイジェルはますます眉間の皺を深くする。
「……それじゃあ受け取れないんですけど」
「こいつを仕上げるのに、それなりに苦労したんだ。ただで渡すってわけにはいかないなあ」
「ただって。僕はちゃんと依頼料を前払いで支払ったじゃん」
「思いのほか苦労したんでな。追証だ、追証」
意地の悪い笑みを浮かべながら、ジムは受け渡しを拒否を表明。
それを撤回して欲しくば、渡して欲しければ、見返りを寄越せ。
堂々とそう言ってのけた。
「パイントのペールエールじゃ不足かな?」
「うむ。苦しゅうない。しかし、そう言えばさ。何だか腹が減ってこないか? お前はともかく俺は猛烈に腹が減っているんだが」
「……このいやしんぼめ。仕方がない。シェパーズパイも付けてあげますよ」
「あとシチューとかハギスとかも食べたい気分なんだが」
「わかった、わかった。ケチケチ言わず晩ご飯、僕がごちそうすれば良いんでしょ、僕が」
「うむ。それでいいのだ。ほれ。受け取りたまえ」
かくして、交渉はジムの勝利に終わる。
依頼品をネタに夕飯を勝ち取ったジムは、心底機嫌の良さそうな笑みを浮かべ、頭上の茶封筒をおもむろに降ろして。
そして、ジムとは対照的にご機嫌斜めな、ゾクリュ守備隊の隊長殿に手渡した。
「まったく……高い依頼料だよ」
口を尖らせて、ぶつくさ文句を口にしつつもナイジェルは茶封筒を開封。
綺麗に開けようとは端から思っていなかったのか。
がさつな性分そのままの手つきで、封蠟で封印されたフタを乱雑にちぎり取って。
丁寧とはほど遠い手つきで、中身の書類に目を通す。
書類は報告書であった。
ゾクリュ守備隊ナイジェル・フィリップス大佐ではなく、私人として依頼した調査。
その結果が事細かにタイプされた書類である。
さて、そんな書類をナイジェルは眺めて、眺めて、眺めて。
たっぷり数分、存分ににらめっこをして。
「ああ~……」
そして唐突に漏らす。
ため息とともに、とても情けない声を漏らす。
露骨に肩を落とし、左手で髪も乱暴に掻く。
まさにがっくりという擬音語がぴたりと当てはまる、今のナイジェルの動き。
つまるところ。彼は落胆したのだ。
その調査内容に。
調査して、詳らかになってしまった事実に対して。
彼は心底がっかりしてしまったのだ。
「やっぱりかあ……薄々そうだとは気がついていたけれど……君の腕を疑っているわけではないんだけどさ。この調査結果、本当に間違いはない?」
「ああ。天地神妙に誓って。と、言うか俺も最初はその結果が信じられなくてだな。アシが着くリスクは承知で別ルートで調べ直したんだ。でも……結果はそこにある通りよ」
調査を依頼しておいて、その結果を認めたがらないとは、なんたる無礼なことか。
しかしナイジェルは、そんなことは承知なれど、現実逃避せざるを得ない心境にあった。
たとえナイジェル本人が、薄々気付いていたにせよ。
結果がこうであることは予測できていたにせよ。
「戸籍上、そして公式記録上では、だ。ウィリアム・スウィンバーンの経歴に傷は一つもない。御前で裁かれた記録もない。それが意味するとことはつまり――」
「――ウィリアムさんは流刑に処されていない?」
ゾクリュの傍にやってきた一人の英雄。
彼をめぐる環境には、きな臭い黒い影が付きまとっているのを知ったのであれば。
誰であっても、現実逃避したくなるに違いない。
ナイジェルはそう確信を抱いていた。




