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第三章 二十五話 馬鹿正直者

 気持ち程度の攪乱として、敢えて遠回りしてホテルに逃げ帰るその途中。

 人目のつかない路地にて、ルネ・ファリエールはマスクを脱ぎ捨てた。


 息苦しく、ひどく蒸れることも一つの理由である。


 しかし、それ以上にこのマスクがあまりにも悪目立ちしすぎる。

 なによりも一度見たら、記憶に留まり続ける強烈な印象を与えるのだ。

 後々聞き込み調査でもされれば、一発で足取りを摑まれてしまうだろう。


 今の状況においては、顔を隠せるメリットより、人の記憶に残るデメリットの方が大きい。

 ならばいつまでも未練がましく、マスクをしている理由はなかった。


「……ふふふ」


 ルネの口から、笑みがこぼれた。

 楽しげ、という印象はまったく受けない。

 自分の情けなさを嗤っているような、その手のもの。

 つまりは自嘲の笑み。


(……人の記憶に残るからマズいですって? 役者が思っていいことではないわね)


 人々に感動を与え、いつまでも他人の記憶に残ること。

 役者にとっての至上の喜びとは、そのようなものではなかったか。

 その悦を得るために、ひたすら努力をする生き物ではなかったか。

 実力の有無に関わらず、その性質は役者を役者たらしめんとするものではなかったか。


 にも関わらず、今の自分ときたら、記憶に残ることを恐れている。

 役者が役者である要素を失ってしまった。 

 三流役者以下の存在にまで堕ちてしまったのだ。

 これを嗤わずにして、なにを嗤えというのか。


 彼女の自嘲は深くなるばかりであった。


「……?」


 そんなルネを訝しげに見る目が一対。

 灰色に濁った瞳。

 先ほどルネを逃がすために、ニコラが人質にとった魔族の少年のものである。


 彼が不審に思うのも無理もないだろう。

 なにせそれまで無言で、ひたすらに街を駆け抜けていた人間が、だ。

 取り立てて前兆もなく、急に嘲笑を浮かべるなぞ、不思議なことでしかあるまい。


「……ごめんなさいね。巻き込んでしまって」


 そんな彼の視線に気付いたルネは、彼の見て謝意を示す。

 とは言うものの、まだ少年を解放する気はないらしい。

 繋いだ手を離そうとする気配。

 それが一切見られなかった。


「もう少しだけ付き合って。私がホテルに着いたら。そこで貴方を解放してあげるから」


 少年は彼女の台詞にこくりと頷いた。


 どうにも肝の据わった少年らしい。

 ニコラに剣を突きつけられたときはあんなに恐怖していたというのに。

 刃が身近にない今ではケロリとしている。

 これっぽっちも恐れの色が見て取ることが出来なかった。


「良い子ね」


 本当に素直で良い子だ。

 愚直に過ぎるくらいに。

 ルネはそう思った。


 あの暴動に彼女が参加していることは、決して他人に悟らせてはならない。

 これはルネが逃げ切るための絶対条件。


 だが、今彼女が手を引くこの少年はどうだろう。

 あの暴動が起きたことは知らないかもしれないけど。

 だが、それでもルネがロクでもないことをしでかしたことくらいは、察しているはず。


 さらに、彼はこうしてペストマスクの下の彼女の素顔を見ているのだ。

 本気で逃げ切るためには、素顔を知る者は存在してはならないのであれば。


 消すしかない。

 この少年を。

 逃げるためには。

 殺すしかない。


 だが、しかし。


(でも、馬鹿正直なのは私も同じか)


 ルネにその気はなかった。

 この少年を殺す。

 そんな気なんてこれっぽっちも起きなかった。


 彼にかけた言葉通り。

 自室にたどり着くことができたのならば、彼を解放する気でいた。


(だって、どうみたって状況は絶望的。逃げ切れる気が、しない)


 ただいまのルネは、半ば諦めの境地にあった。

 恐らく自分は逃げ切れないだろう。

 そんな確信染みた予感が彼女にはあった。


 守備隊の隙をついて、あの現場から逃げ出したというのに、だ。

 何度も何度も後ろ振り返って、追っ手がいないことを確認したのに。

 どういうわけか居場所を突き止められ、さきほどは挟み撃ちにされてしまった。


 あの追跡能力。

 すんなりと挟撃を決められるほどの、手際の良さ。


 その二つが、あの大佐の指揮能力によるものであれば。

 あそこまで有能な人間から逃げられる自信など、どうして抱くことができようか。


(それに、あのカフェの赤毛君。彼はきっと)


 あの信じられないほどに強い彼は。

 たった一人で武装した歌劇座を挫いてしまった彼は。

 元軍人、それも精鋭中の精鋭の兵であったはず。

 あの身のこなしはそうであったからとしか思えない。


 優秀な頭に、強力な武器。

 相手をするのに、この上なく最悪の組み合わせだ。


(それでも……逃げられるところまで逃げないと)


 諦めかけているというのに、ルネがこうしてまだ逃走するその理由。

 それはひとえに後ろめたさからであった。


 ニコラがしんがりとなって足止めしたというのに。

 ルネを逃がすことを諦めなかったというのに。

 そうしてまで逃がそうとした人が、諦めてあっさり捕まるなんて。

 それはただの恩知らずな人間のやることでしかない。


 悪に堕ちてしまったけれども。

 ルネは恩知らずになりたくはなかった。

 だからまだ、こうして足をひたすらに動かしているのだ。


(それにしても……追っ手の気配がない)


 これはニコラが想像以上に奮戦しているから、と捉えていいものか?

 いや、先ほどの挟撃を思い出せ。

 気配がまったくなかったのに、突然退路を塞がれてただろう。

 と、すると泳がされているのか?


 そんな自問自答してしまうほどに、ただいまの彼女の周りは平和であった。

 殺気がなく、平穏そのものなゾクリュの空気が漂っていた。


 楽観していいものか。

 それとも悲観すべきか。


 うんうんと心中で唸っていると、気がつけば、あと一歩で目的地。

 彼女の宿泊するホテルが見えてきた。

 ここまで本当になにもなく、恙なくたどり着いてしまった。


(……期待しても……いいということ?)


 あっさりとルネに都合が良すぎる展開だ。

 気を抜くとあっという間に楽観論に支配されそうになる。

 少しくらい気を抜いても大丈夫だと、肩の力を抜きたくなる。

 

 しかし彼女はその欲求をなんとか堪えて、緊張感を維持。


 抜き足、差し足。

 音を立てず、息を殺し。

 慎重にホテルに近付いて、裏口に向かって。


 そして抜け出したときと同じく、誰にも気付かれることなくホテルへ足を踏み入れた。


「呆気……なさすぎるわね。あまりにも」


 拍子抜けとはまさにこのこと。

 追いかけ回されることなく、気付かれることなく帰れてしまった。


「ホテルの周りにはすでに守備隊が囲んでいる……そんな最悪も考えたけれど」


 ホテルに入る前に何度も何度も辺りを確認したが、そんな気配は感じられなかった。

 ニコラが先ほど言っていた通り、ここは、ルネはノーマーク。

 そう見ていいのだろうか。


 ルネにはわからなかった。


「杞憂であれば、それでいいけど」


 それでも細心の注意を払って、ホテルの内を行くルネ。

 窓の外から襲撃されないように、時には壁に身を寄せ、時には屈み、慎重に歩き続けた。


 ゆっくり、じっくりと時間をかけて、歩みを勧め。


 そして彼女は何とかたどり着いた。

 自分が宿泊する部屋に。


 そっと、静かにドアノブを摑んで、回して、開けて、入って。

 ゆったり、ふんわり。

 音を立てずにドアを閉める。


 念のため追っ手がないか。

 ルネはドアに耳を当てて、外の気配をうかがった。


 三十秒経ち、四十秒経ち。

 慎重に聞き耳を立てたけれど、異常は感じられず。


「逃げ……切れた?」


 その可能性が濃厚となるのを認めるや、ルネは大きくため息をついて。

 ドアに背中を預けて、そのままずるずると腰を下ろした。

 いや、腰が抜けてしまった、というのが正確なところか。


 無理もない。

 逃げ出してから、ここに来るまで、緊張状態にあったのだ。

 それが一気に解放されたとなれば、だ。

 緊張による麻痺で感じてこなかった、心労と向き合うことなる。


 事実彼女の足腰は潰されてしまったのだ。

 襲撃に加わってしまったこと。

 失敗してしまったこと。

 ニコラを囮にして逃げ切ってしまったこと。

 それらが生んだ心労に。


 目を閉じれば、このまま眠りにつけそうだった。

 だから彼女は上を向いて。

 瞳を閉じて。

 実際寝入ろうとする……が。


 ぐうと腹の虫がなった。


 彼女は目を開けた。


「あっ」


 彼女のものではない。

 ここまで連れてきてしまった、あの少年のものだ。

 空腹であることを悟られて恥ずかしいのか。

 彼は赤面して、じっと俯いていた。


「ふふふ」


 耳を真っ赤にして恥ずかしがる姿は、子供らしいもの。

 とても微笑ましいもの。

 だから彼女は自然と笑みがこぼれた。


 殺伐としたときをさっきまで過ごしただけあって、その微笑ましさは心に染み入るようであった。


「こっちにいらっしゃい。大した物はないけど。でもお茶菓子くらいな……ら?」


 足腰に檄を入れ、ルネはなんとか立ち上がった。

 確か化粧台の上に、お茶菓子の入ったバスケットがあったはずだ。

 それを彼に食べさせようと思い立って、ベッドルームへと向かうと。


 ルネ・ファリエールは絶句した。

 ベッドルームに二つの人影があったからである。


「……女性のベットルームに勝手に入る無礼を、どうかお許しいただきたい」


 影の片割れはそう言った。

 その声は最近、あのカフェでよく聞いたものであった。


 いつの間に部屋に入られたのだろう。

 そんな当たり前の疑問は、しかし彼女は思うことはなかった。


 それ以上に強い驚愕に襲われたからだ。


 何故なら、ベッドルームで見たその二人分の人影とやらは。


 先ほどニコラが決死の思いで足止めしようとした、あの二人であったから。

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