第三章 二十三話 緞帳が降りるとき
ニコラ・ル・テリエの額にはうっすら脂汗が浮かんでいた。
彼の心には、少しばかりの畏怖さえ抱いていた。
(まさか、ここまでとはな)
こうまで彼の心を動かす存在は、ニコラと相対する一人の男である。
小柄な男であった。
くすんだ赤毛が印象的な、人の良さそうな男。
しかし、そんな彼がただいまの顔は、人の良さとは一切無縁。
ひたすらに剣呑な色を纏う視線を、遠慮無くニコラにぶつけていた。
殺気がほとばしる目、と換言してもいい。
その鋭さたるや、肝の細いものなら昏倒必至なほど。
(これは強い。とてつもなく)
ウィリアムと呼ばれた赤毛の男。
ニコラは彼に対する評価をここにきて改めた。
並外れた強化魔法の才があり、身のこなしもまた見事。
この二つの能力を併せ持つ彼は、なるほど、組み敷くに中々難い相手であるのは事実だ。
しかし、倒せぬ程強い相手ではない。
ニコラはそう評価を下す。
彼の能力は対人戦、それも確保を前提とする戦闘には不向きであったからだ。
確かにあの強化魔法は強力ではあるが、あまりにも小回りが利かなすぎる。
強化魔法をかけて攻撃をすれば、相手を殺してしまうのは必至。
故に彼はヒラのまま攻撃せざるをえなくなる。
その上彼はこの戦いを心から厭う様子を見せているのだ。
人と殴り合うのは好みではないようにも見えた。
ことある毎に降伏を薦めてきたのがその証拠だ。
人の確保に向かない能力と、本人の気性。
この二つの要素がある限り、絶対にウィリアムに負けることはない。
ニコラはそんな確固たる自信を抱いていた。
そうであったのだが、しかし。
「……ふふふ」
「何が可笑しいので?」
「いや、君がここまでのものとは、思いもよらなんでな」
次に相手が仕掛けてくる攻撃がなんとなしに予測できる――
ニコラがここまでの人生で、一度も敗北を喫していなかった理由がこれであった。
どのような攻撃が飛んできて、どのように身体を動かせれば躱せるか。
それが直感的にわかるのだ。
先のウィリアムの攻撃もそうだ。
彼を見失いはしたものの、どの方向から彼が攻撃を仕掛けてくるか。
それを直感が教えてくれて、先の結果を導いたのである。
そう、ついさっきまでその直感が働いていたのにだ。
しかし、どういうわけか今では――
「正直言おう。杖を持つ前までなら君に負ける気がしなかった。が、今では違う。むしろ君に勝てる気がしない。君がどう動いてくるのか。それがまったく読めん。初めての経験だよ、これは」
まったく彼の動きが読むことができなかった。
自分が勝利するビジョンはまったく見えなくて。
代わりに想像だにできない攻撃を受け、打倒される未来しか見えなかった。
「ならば、降伏を……と言っても」
「ああ、その通り。お断りする」
「自分自身でさえ勝てると信じていないのに?」
「それでも、さ。勝てなくてもやれることはあるのでね」
例え負けるにせよ、意味のある負けというものは存在する。
時間稼ぎというのがそうだろう、とニコラは思う。
むしろこの勝負でニコラが倒れて負けたとしても。
ルネが逃げおおせるに、十分な時間さえ稼ぐことができたのならば。
敗北に意味を持たせることができるはずだ。
いや、むしろ、実質的にはニコラの勝利と言ってもいいだろう。
勝負に負けて、戦いに勝った、というやつだ。
(なに、難しいことではない。要するにもう一度やってみせればいいのだ。あの首都防衛戦を)
そしてニコラからすれば、意味ある敗北を喫することは難しくはない。
彼はすでに経験しているからだ。
共和国の民を逃がすための、あの決死の防衛戦を。
それに比べれば、今回の争いの方がずっとずっと易しいはずだ。
故にニコラの心中は極めて明るかった。
敗北が約束されている戦士には似合わないほどに。
悲壮感がこれっぽっちもなかった。
「――させませんよ。一瞬で終わらせる」
意図を読み取ったか。
目の前の赤毛の敵はさらに視線を鋭くして、そう言った。
ニコラに完全なる敗北を与えてみせる、と。
きゅっと、手に握る即席の杖を絞りながら。
「吹くではないか小童」
対してニコラは不敵に笑む。
そして彼に倣って、自らも柄を一度強く絞り込んで。
「ならばやってみるがいい。幾年を経て、積み重ねた我が手札の数を侮るでないわ」
出来るものならやって見せろ。
そんな不遜な態度を演じ抜く。
少しでも彼の冷静さを失わせることができたのならば、という期待を込めて。
さて彼の反応は。
されどニコラは観測できず。
赤毛の彼が、ニコラを攻めたてんとするために、激烈な踏み込みを見せたから。
(しめたっ!)
杖を構え、猛烈な勢いで突進する若人。
老躯を打ち据えるための突撃を目の当たりにしつつも。
しかし、ニコラは唇をつり上げた。
望外の喜びに、笑みを作って見せた。
(得意の得物を持って、慢心が生じたな! 坊や!)
ニコラにウィリアムが迫る。
しかし、その速度はウィリアムが空手であったときよりも、ずっと遅い。
先は目にも映らぬ速さで迫ってきたのに。
ただいまは注視しなくとも姿を捉えることができる。
それはウィリアムが強化魔法を用いていない証拠。
ヒラでニコラを倒さんとしている証拠。
(これであるならばっ!)
ニコラが持つ数多くの手札。
その一つが深く深く突き刺さる。
ならば勝てる。
にわかにニコラが勝つ可能性。
それが浮上した。
だからニコラは彼を迎え撃つために。
ウィリアムに負けない勢いで一歩を踏み込んだ。
次いで計算する。
ウィリアムの身の丈、杖の長さ、突進の速度、そして迎え撃つニコラの速度。
それらを勘案し、計算して、答えをはじき出して。
そして求めることが出来た。
ニコラがウィリアムの間合いに入ってしまう、その位置を。
その一点をじっとじっと注視し続けた。
ウィリアムの杖の結界、迫る。
あと五歩も踏み込めばその内へと立ち入る。
残り四歩。
三歩。
二歩。
そして残り一歩となったその瞬間。
ウィリアムが彼を打ち据えるために、杖にわずかに力を込めた瞬間。
ニコラは満を持して切り札を切った。
魔力を下半身に流す。
筋肉が魔力に反応し、筋力が増強。
増して筋力により、速力上昇。
そう。
その手札とは強化魔法。
ウィリアムほどの高倍率は実現は出来ないけれど。
それでも常人とは比べものにならぬ速度をニコラは得た。
杖は長柄物。
懐での取り回しであれば、剣が優れる。
潜り込んでしまえば、勝機は摑んだも当然。
もしウィリアムが突進の際に強化魔法を用いていたのならば。
懐に潜り込むことは不可能となる。
ニコラが反応する前にウィリアムの一閃が到達するからだ。
だが、侮ったか。
ウィリアムはそうしなかった。
ヒラのままで十分と判断したか。
未強化のまま距離を詰めようとした。
それが大きな隙を生んだ。
ニコラがまさか強化魔法を使えるとは知らなかったウィリアムは。
ニコラにあっさりと懐に潜り込まれてしまった。
本当にいとも簡単に。
この間合いは杖の間合いにあらず。
むしろ剣の必殺の間合い也。
(取った!)
つり上げた唇をさらに歪めて。
剣を振りかざし。
あとは振り下ろすのみ。
それでニコラの勝利と相成る――
はずであった。
「がっ!」
音がした。
枝を折るのに似た、けれどもそれよりいくらか湿り気を帯びた、そんな音。
ニコラはすぐ近くで、その音を聞いた。
いや、感じた。
直後に左手首に衝撃が襲う。
痛みが走る。
手から力が抜けて。
振り抜くはずであった、剣がするりとこぼれ落ちる。
一体何が。
状況が把握できない。
ニコラはほとんど反射的に自らの手を見る。
「なんと」
そして知る。
衝撃と痛みの原因を。
杖だ。
ウィリアムの得物が食い込んでいた。
打ち突かれていた。
骨が、砕かれた。
しかし、もうすでに杖の間合いではないはず。
訝しんだニコラはウィリアムの手元を眺めて。
そして手品の種を知る。
杖の端のあたりを持っていたはずの両の手は。
いつの間にやら。
杖の中程にその姿を移していた。
「なるほど。強化、か」
歌劇座の座長は呟く。
痛みでいくらがしがわれた声で。
そのカラクリを持ち前の勘の良さで悟る。
ニコラが不意打ち的な強化魔法で一歩を刻んだその瞬間。
ウィリアムはその不意打ちに見事に反応して見せたのだ。
ニコラが強化魔法を使ったのと同じように。
彼も同じ強化魔法で対応して見せたのだ。
ただし彼が強化したのはニコラと同じく下半身ではない。
手だ。
手に魔力を流して、一瞬にして握り位置を変えたのだ。
果たしてその分杖の間合いは短くなり。
不敗の剣士が必殺と見込んだ間合いに、自らの間合いを調整してみせて。
そして強かに老剣士の手首を打ってみせたのだ。
「……見事」
賞賛の声がニコラの口から漏れた。
実にスムースに、実に自然に。
理性は、心は悟ったのだ。
完全に敗北してしまったことを。
しかし身体の方はそうでもないらしい。
未だ健在ないやしくも右手は落ちた剣を追う。
拾い上げ、なおも戦わんとする。
だが、ニコラ自身はすでに知っていた。
もう彼に勝てるはずがないと。
何故なら見えているのだ。
次の彼の動きが、打擲が。
ニコラの頬目掛けて飛んでくることを。
そしてもう知っているのだ。
自分がそれを躱すことが適わないことを。
しかしてその未来視は現実のものとなる。
老剣士が得物を拾い上げたその瞬間。
彼の頬に強かな一撃が入って。
ニコラの意識は暗闇に落ちていった。




