第三章 十三話 善行
空はすっかりと鉄紺色に染まった。
天然の光源は姿を消し、代わりに街を照らすは、人口の光りであるガス灯。
その光のお陰で、夜といえども街の往来は多い。
家路に急ぐ人。
一杯引っかけようとする人。
これから夜の仕事に出掛ける人。
人々が道を行く理由は、おおよそその三つに大別することが出来よう。
しかしながら、例外も存在する。
さきほどパブ・無国籍亭を後にした彼がまさしくその例外であった。
亜麻色の髪を持つ彼はこれから家に帰るわけではなかった。
新たに酒を身体に入れるつもりも、そしてこれから仕事に行くわけでもなかった。
彼が夜の街を行く理由は、そのような真っ当で穏当な理由ではない。
極めて物騒な理由を彼はその胸に抱いていた。
彼の視線の先には人影があった。
人影は女のものだった。
随分と深く酔っているのか。
あっちにふらふら、こっちにふらふらと女は真っ直ぐ歩けていない。
そんな彼女に気取られないように、彼はこっそりと尾行しているのである。
彼女と彼には面識はない。
それどころか話を交わしたことすらなかった。
しかしそうだというのに、彼は彼女に対して強い憎しみを抱いていた。
その理由は彼からしたら、とても簡単であった。
彼女がただただ魔族であったから。
彼が彼女を恨むのに、その一点の事実だけで十分であった。
ガス灯が等間隔に並ぶ大通り。
家が近くにあるのだろうか。
彼が追っている魔族はそれに交差する、細道へとふらふらと入ってゆく。
適度な間隔を保って彼も曲がると――
ニタリ、と、彼は見るも醜悪な笑みを漏らした。
見よ。
あの魔族が入ってくれたこの細道。
ガス灯は一つも無く、頼りになる灯りは、くたびれた建物の隙間から溢れ出る光のみではないか
おまけに極端に人通りが少ないと来た。
今こそ絶好の時。
こここそ絶好の場所。
今すぐ"善行"に及ばない理由なぞ、どこにあろうか。
(いや、そんなもの! 止める理由なんて、この世のどこにもない!)
端っから結末が見えていた自問に、彼は内心で威勢よい答えを返した。
彼はベストの内から、前膊の半分ほどの大きさ黒鉄の棒を取り出した。
ただの鉄棒ではない。
これで人を打擲すると、気絶させるに足る電流が流れる仕組みの魔道具であった。
いつも通りこいつで打っ叩いて気絶させて。
そして仲間達が見繕ったあの施設にあの女を放り込めば。
それで善行は達成と相成る。
それで一日一善は果たされる。
戦争のせいで四人類の垣根が失われてしまい、渾然一体となってしまったこの世界。
様々な色が混じり合ってしまって、多様人の彩りを失ってしまったこの世界。
再び多様人が持つ本来の色を取り戻すために。
彼は早足で近付いて、近付いて、近付いて。
そして女の背後までにじり寄って。
黒鉄の鉄棒を振り上げて。
一層、醜い笑みを浮かべながらこう思った。
(――取った!)
善行、ここに達成也、と。
だがしかし、それは果たされなかった。
「なっ」
驚愕の声上がる。
それも当然だ。
何せ力を入れて振り下ろそうとしたその手は。
その手首は。
「下衆め」
冷たくそう言い放つ、魔族ではない若い女が、後ろからがっしりと摑んでいたのだから。
いつの間に、後を着けられていた?
突然の事態に狼狽しつつも、しかし相手は女たった一人とすぐさま冷静になる。
男の力をもってすれば女の拘束なぞ労せずに振りほどけるはず。
そう思って、全力でもって脱出を試みるも。
「ぐっ!」
しかしどうしたことだろう。
いくら力を込めても。
いくら身を捩っても。
拘束された手首はびくとも動かなくて。
それどころか。
「鍛え方が……」
彼よりもずっとずっと細腕なはずなのに。
必至に抵抗したはずなのに。
あれよあれよの内に腕はひねり上げられて。
体勢が崩されて。
ついには。
「足りないわっ!」
その一言が聞こえて一拍の間も開かず視界は大きくぶれる。
争う二人に気がつかず千鳥足で家路につく、魔族の背中が見えて。
次には鉄紺色の夜空が見えて。
最後にはすぐ目の前に石畳が見えて。
そして彼は腹ばいとなって地面に放り出された。
彼にとっては信じられないことであるが。
どうやら、彼はあの女にぶん投げられたらしかった。
◇◇◇
まさにそれは電光石火の一撃であった。
ソフィーは魔族の女を害せんと襲いかかった男を掴み上げ、放り投げ、そして関節を決めて男を拘束。
この一連の流れを、瞬きの合間にソフィーはやってのけたのだ。
部下が見せた鮮やか手際に、上官であるナイジェルは惜しみない拍手を送った。
「いやあ。お見事ソフィーちゃん」
「恐縮です」
その賞賛をさらりと受け流すソフィー。
表情は一切変化せず、いつもの通り事務的なもの。
もうちょっと顔に感情を出してくれたら可愛いのだけどな、と苦笑いを浮かべつつも、ナイジェルはソフィーの下で未だにもがいて抵抗する男へと歩み寄った。
ナイジェルが近付いたことに気付いてか。
なおも抵抗を続けつつも、唯一自由に動く眼球を、男はギロリと動かして、ナイジェルを睨んだ。
「お前ら……軍人。いや守備隊かっ!」
怨恨が籠もりきった言葉を吐く男。
そんな極めて濃度の高い恨みを、ナイジェルはさらりと受け流すことにした。
「うん。ご明察。そういう君はどうにも素人だね? 尾行されてる可能性、全然気にしてなかったもんねえ」
「……くっ」
男の動きはナイジェルからすれば、とてもお粗末なものであった。
標的に気取られまいとする姿勢は、評価はできる。
が、そのことに注力しすぎてその他があまりにも等閑に過ぎた。
ナイジェルが彼を尾行している際、一切後ろを振り返らなかったのがその最たる例と言えよう。
ソフィーに腕を取られたときの驚きようから察するに、きっと自分が着けられている可能性なんて、これっぽっちも想定しなかったのだろう。
「さてさて。これからちょっと隊舎までお付き合い頂けるかな? 君とお話し合いをさ。ちょっとばかし、しなくちゃなんないのさ。こっちは」
「……」
お話し合いという穏当な表現を用いたものの、守備隊の隊舎にて男に行われるの尋問である。
それを即座に悟った男は、早速口を噤んで情報を提供することを拒んだ。
「あー、だんまりか。うん。その覚悟はご立派ご立派。仲間、巻き込みたくないもんねえ。でもね。僕としちゃあ素直に話してくれた方が助かるのよ。そっちの方がとっても楽だし、それに――」
当然の如く非協力的な男の態度。
それに辟易するかのような顔を作って、ナイジェルはふうと深いため息をついて。
間を置いて。
いかにも面倒くさいと言わんばかりに、乱雑に頭を掻いて次なる言葉を紡ぐ。
「身体に直接聞くって方法、あんまり僕は好きじゃないんだよ」
そう告げた声はいかにも気だるげ。
気のない声色と言ってもいいのかもしれない。
だからこそ矛盾が目立った。
台詞そのものは拷問を厭うものであるのに。
気だるげなながらも声色それ自体には、拷問を躊躇する色がこれっぽっちも含まれていないという矛盾が。
とてもとても強く浮き彫りとなった。
非常で非情な手段を用いても、一向に構わないという顔付きである。
こいつは絶対にやる。
死なない程度に人体を破壊してくる。
後の人生に影響を遺す傷をつけてくる。
それを今のナイジェルの発言と表情の不一致から感じ取ったか。
亜麻色髪の男の顔は恐怖に染まって。
脂汗を額に浮かべて。
不言の覚悟は何処へやら。
早くも翻意の色が濃厚な顔となった。
こっそりと連続投稿……




