第三章 九話 記憶の連続性
久しぶりにとても静かな夕食であった。
ろうそくのクラシカルで柔らかいオレンジ色の光に満ちた部屋には、食器が当たる物音だけが鳴っていた。
その音もごくごく小さなものだ。
それも当然だろう。
今夜屋敷の食堂で食事を摂っているのは、たった二人だけなのだから。
俺とアリス。
ただ二人だけ。
テーブルを挟んで、向かい合い夕食を摂っていた。
同居人達の姿はない。
アンジェリカはクロードに連れられて、ただいまの所在はゾクリュの劇場。
なので、この場所で夕食で摂れるはずがなかった。
向こうはもうすぐ開演する頃合いだろうか。
何にせよ楽しい時間を過ごしてほしいものである。
俺らと一緒に屋敷に残っているヘッセニアは、例の大佐からの依頼に集中しているためか、最近ではもっぱら自分の部屋で食事を摂ることが多くなっていた。
先ほどアリスがヘッセニアに問いかけたところ、今夜も後で部屋で摂るとの答えが返ってきたとのことだった。
そんな次第で二人だけの晩餐と相成ったのだ。
一応の家主とメイド。
この二人の組み合わせの夕食風景というのは、この王国においてきっとレアなものなのだろう。
なにせ本来はメイドをはじめとする使用人というものは、雇用者家族と食事を摂ることは、まずない。
使用人部屋で使用人同士で食事を摂るのが普通なのである。
しかし、そのノーマルな風景はこの屋敷では見ることはできない。
俺もアリスも、そんなドライな関係であることを嫌がったのだ。
生死を共にした戦友同士なのに、雇用者と使用人というとてもドライな関係には、とてもではないがなれなかったのである。
そんな訳で、王国の常識からはかけ離れたこんな光景が出来上がるに至る。
貴族はこうあれかし、とごりごりに教育を受けた者ならば、恐らく眉をひそめる光景だろうけど。
しかし、生憎と俺は途中で貴族でなくなってしまった人間だ。
何故このシーンに青筋を立てねばならぬのか、それがとんと理解出来なかった。
気の知れた人間と食事を摂ること、それが何が悪いのか、と逆にそんな人らに問いかけたいくらいであった。
(それにしても)
俺の真向かいに座って、フォークを取るアリスを眺める。
いつもの通り口元には柔らかな微笑みを浮かべている。
そんな彼女だけれども、どうやら今のアリスはとても機嫌がいいらしい。
平時よりも、目元がうんと柔らかいように見えた。
「何だか嬉しそうだね」
「そうでしょうか?」
そう答える調子も、やはりいつもよりも弾んでいるように思える。
アンジェリカを見送ったときは、ここまで上機嫌でなかった。
と、すると、見送ってから今の間に、彼女を喜ばせる何かがあった、と見るべきであろう。
スタウトで煮込んだビーフシチューを口にしつつ、彼女を喜ばしたその何かの正体を考察してみる。
が、いくら考えてみても、そのあたりを付けようと努力しようとしても。
俺からすれば、唐突に彼女が機嫌が良くなったように思えるために、さっぱり見当がつかなかった。
考察しようにも、そのための材料が極端に少なすぎるのだ。
「……そうかもしれませんね。今、私は機嫌がいいのかもしれません」
先の問いかけからしばらく間を置いてから、アリスがぽそりと囁いた。
相も変わらず静かに、けれども軽快な声色で。
ご機嫌であることを認めた。
「もし良ければ聞いてもいいかな? どんな嬉しいことがあったのかを」
「ええ。いいですよ。もっとも、お話はすぐに終わってしまいますけれど」
「いいよ。聞かせて」
「今、この時。そのおかげで」
「今、この時?」
「ええ。そうです。この瞬間、こうして二人で夕食を食べていることが、とても嬉しいのです」
そう言うと、アリスは静かにワイングラスに口を付けた。
小さく白い喉が何度か小さく動いてワインを飲み込む。
そして彼女は小さく息を吐いた。
「最近、とても賑やかな夕食でしたから。それはそれで楽しくて素敵な夕餉なのですけれども……やっぱり、私は――」
彼女の言葉尻は小さくなってしまい、上手に聞き取ることが出来なかった。
けれども口の動きから何を言っているのか、それを推測することができた。
――やっぱり、私は。静かで貴方と一緒の方が。
彼女はそう言っていたように思えた。
二人で食事を摂れるのが嬉しい。
そう面と向かって告白されしまったので、何だかこそばゆい。
もしかしたならば、先日のクロードのように思春期よろしくに真っ赤になってるかもしれない。
そんな顔色を誤魔化したくて、俺も赤ワインを呷る。
強いボディながらも同時に爽やかさを感じさせる。
そんな素晴らしいバランスのワインであった。
このワインはこの間、カフェのテラス席にてファリエール女史から押しつけられた、あのワインである。
流石は共和国産のワインの一言に尽きる出来であった。
「どうぞ。ウィリアムさん」
「ん。ありがとう」
アリスの手が動く。
ほとんど空であった俺のグラスに真っ赤な液体に満たされる。
音もなく、静かに、静かに満たされた。
彼女だって手酌じゃ味気ないだろう。
彼女がボトルを置くの見計らって、俺もボトルに手を伸ばす。
アリスのグラスにワインを注ぐ。
アリスほど静かに、上手には注げなかったけれども。
小さな音を立てながら。
しばらくして彼女のグラスも深紅の葡萄酒が十分な量となった。
「ありがとうございます」
そう言って彼女はふわりと笑った。
アルコールが少し回ってきたのか、今のアリスの顔はどことなく紅潮している気がする。
赤がアクセントとなって、肌理の細かい綺麗な肌がとてもよく目立つ。
赤ワインのお陰で唇は艶やかに湿り、紅をさしたかように赤い。
アリスの容姿の良さがとても際立っていた。
(何だか、今のアリスはとても)
――とても色っぽい。
思わずそう思った。
そして俺自身も酔いが回り始めたからか。
アリスに失礼なことなのは重々承知だけど。
劣情を抱いてしまった。
久しぶりに。
そう、久しぶりにアリスを抱きたいと思ってしまった。
……
…………
………………?
待て。
今、俺はなんて。
なんと思った?
抱きたいだって?
(久しぶりに、だって?)
それはつまり彼女とそういう関係になった、ということである。
彼女をパートナーとして欲し、彼女もまた、受け入れたということである。
以前身体を重ねた、ということである。
それは本来、忘れるはずのない記憶のはずだ。
忘れることの出来ない記憶のはずだ。
それだというのに。
いくら何度も記憶の底をさらってみても。
彼女との情事の光景が、記憶が。
これっぽちも見当たらなかった。
いや、まだ思い出せないだけならそれでいい。
記憶を鮮明に思い出せないのにも関わらず、だ。
どういうわけか俺には確信があったのだ。
間違いなく俺とアリスはそういう関係にあった、と。
そしていざその時の光景はこれっぽちも思い出せないというのに。
その時に感じたであろう彼女のぬくもりや、柔らかさは、どういうわけかうっすらと思い出せるのだ。
思考が、意思がそんな過去はなかったと否定する度に。
肉体はいや、そんなことはない、確実にそんな過去はあったと、思考に抗議してくる。
(なんだ、これは)
記憶がまるで滅茶苦茶だ。
モザイクのようになってしまっている。
ある事柄を思い出せるのに思い出せない。
とても気持ち悪い感覚だ。
(思い出せないと言えば)
そうだ。
何も失っているのは、重ねたかもしれないアリスとの情事の記憶だけではない。
ヘッセニアが大騒ぎを引き起こす前にした、アリスとの語らいを思い出す。
俺もアリスも、俺達がどのようにして終戦をもたらしたのか。
その瞬間の記憶をまるっと失っていることを。
(……そうであるならば、俺は。いくつか、失っているのか? あの戦争で体験したことを。本来なら忘れないはずの出来事を)
印象の薄い出来事。
あまりに昔の食事内容。
そんな失って然るべき、取り留めのない記憶ではなく。
絶対に忘れないはずの、また、忘れてはならない記憶。
俺はそれを二つも失っているとなれば。
まだ他に忘れてしまっている記憶があるかもしれない。
その可能性に至ると、なんとも言えない気味の悪さと一種の恐怖を感じた。
自分の記憶が自分の記憶でなくなる恐怖だ。
自我意識というものが同一性、つまり時間、記憶の連続性によって構成されているのであれば。
所々不自然に抜け落ちてしまっている今の俺は、きちんと自我意識が成り立っていると言えるというのか?
俺が知らないだけで、ある時点から別の俺が生まれ、かつての俺と成り代わって今を生きているのではないのか?
今の俺は昔の俺とは、文字通りの意味で別人になっているのではないか?
先に抱いた恐怖は換言すれば、自分が自分でなくなっているのでは、という恐怖だ。
それは人間の意識において、もっとも根源的な恐怖である。
そして厄介なことにそれは個人では解決しがたい、とんでもない難問でもある。
だから俺は――
「あら、珍しいですね」
――悪い考えを酒で洗い流すことにした。
ほんの少しだけ、驚きながらアリスは言う。
俺が一息でグラスに入ったワインを干したからだ。
乱暴な飲み方、と言えるだろう。
それはクロードがよくやることであり、俺はほとんどやらない飲み方であった。
その代償はそれなりについた。
アルコールが勢いよく食道を灼き、とても美味しいワインなのにも関わらず、顔をしかめる羽目となる。
たまらず酒精に満ちた大きなため息が漏れ出てしまった。
「……クロードの真似。するもんじゃないね。もう二度とやらない」
「ふふふ」
そのしかめっ面がとても奇妙なものだったのか。
心底楽しそうな笑顔を見せて、アリスは笑った。
そんな彼女を見れて、暗く重いものになりつつあった、俺の心は少しだけ晴れやかなものになった。
けれども、その安堵は心の不安を拭い去るには僅かに不足していて。
不安を誤魔化すために、結局この夜の俺は、いつもよりもずっとずっと速いペースで酒を空けてしまった。
この間のクロードほどとはいかないけれども。
泥酔一歩手前となるまでに酔っ払ってしまった。
少なくとも深く酔っているその間は強い不安を覚えなくて。
少しだけ酒で身を崩す人の気持ちがわかってしまった。




