第三章 八話 覚悟せよ、少尉殿
きっとあの娘の日頃の行いが良いからだろう。
アンジェリカとクロードが観劇するその日は、まさしく晴天であった。
ただただ劇を見るのであれば、別に今日が雨でも大した問題とはならない。
だが、アンジェリカにとって今日はただの観劇ではない。
街のあちらこちらを歩き回って、(主にアリスが)こだわりにこだわり抜いた一張羅のお披露目の日でもあるのだ。
折角初めて袖を通して外に出るというのに、ざあざあ降りの雨で、ドレスの裾が泥だらけになる羽目になるのは、ただの悲劇でしかあるまい。
だから今日が晴れてくれて、心の底から良かったと思えた。
さて、晴れてくれたお空に感謝の念を抱いている俺であるが、ただいま広間でぽつんと一人クッキーをついばんでいた。
手にするクッキーはアリスが焼いてくれたものである。
心地よい歯ごたえと、過ぎない甘さが嬉しい逸品であった。
そんな素晴らしいクッキーとは言えど、たった一人でぼりぼり食べているのは実に味気がないもの。
その味気なさを紛らわせるために、書斎から本を持ってきたの。
が、開いてしまえば最後、寂しさが強調されるような気がして、結局開いていない。
どうしてこの広い屋敷でそんな寂しいことをしているのかと聞かれれば、待機しているからしか答えようがなかった。
今、アンジェリカは件のオーダーメイドのドレスに着替えている最中だ。
着付けの手伝いとしてアリスが着き、ヘッセニアはそんな二人を興味本位で見物しているのだ。
流石に野郎の俺が着替えを手伝うわけにもいかず、こうしてぽつんと一人広間で待機するに至ったのである。
一人でソファーにすわってどれくらいの時間が経った頃合いだろうか。
扉の向こう側から足音がした。
三人分の足音。
それが一度ぴたりと止まって。
入れ替わりに扉がノックされた。
「いいよ。入って」
言葉を投げかけてから一拍の間をおいて、扉は開く。
まず最初に入ってきたのはアリスであった。
心なしかその顔付きは明るい。
そんな彼女の反応から察するに、この間オーダーメイドしたドレスの出来は素晴らしいものであるらしい。
次いで入ってきたのはヘッセニアだ。
彼女の反応もまた満足げなものであった。
奴の場合、ドレスの出来に対してではなく、初めてドレスに袖を通したアンジェリカの様子を見てご満悦なのだろう。
意地の悪そうな笑顔、と換言してもいい。
それから察するに、あの娘は今、ガチガチに緊張しているのかもしれない。
さて、アリス、ヘッセニアが来たとなれば、だ。
いよいよ残るは主役のみ。
けれどもどうしたことか。
中々広間に入って来ない。
入り口の近くでアリスとヘッセニアが待っているというのに。
一向にアンジェリカが入ってくる気配が伝わってこなかった。
「アンジェリカさん。さ、こちらへ」
「……でも。やっぱり恥ずかしい……ような」
アリスが未だ廊下にいるアンジェリカに誘いかける。
例によって柔らかいあのニコニコ顔で。
こっちに来てよ、と。
対するアンジェリカは蚊の鳴くかのような声で答える。
どうやら先ほど思い浮かんだ推測は正しいようであった。
やはり初めて着てみたドレスに相当緊張しているらしい。
「はいはいはい。今日はこれから沢山の人のその姿見られるんだから。ウィリアム一人にビクビクしちゃあ、劇場で緊張のせいでぶっ倒れちゃうよ。だから……さあ! さあ! さあ!」
ヘッセニアが言う。
彼女が言っていることはもっともなんだけど、人をおもちゃにしていて楽しいと言わんばかりのニヤニヤ顔のせいで、言動に説得力が伴っていなかった。
そんな胡散臭い彼女は、一度廊下に戻って。
そして一人分の人影を広間に引っ張って来た。
その人影が誰のものであるのか。
今更言及する必要はなかろう。
「あ……ウ。ウィリアムさん」
流石にヘッセニアに無理矢理広間に引き込まれるとは思っていなかったらしい。
扉を潜った直後、アンジェリカは目をまん丸にして、いかにもぎょっとしていた。
しかし、広間に出てしまったことを悟るや、その仰天した顔付きはみるみる変わっていき。
今や、恥ずかしげに伏し目がち。
視線はじっと俺の足元に注がれていた。
さて、そのアンジェリカの今の格好であるが――
「うん。いいね。まるで貴族の令嬢だ」
口から出たのは心からの感想であった。
最近流行りのクリノリンを欠いた白のワンピースドレス。
ケープと見間違うばかりに大きな、高襟のラッフルドカラーに重くならない程度のフリル。
全体的に品のあるコーディネイトであった。
よろず控え目を望むアリスの好みがとてもよく見て取ることができた。
そう。
あくまで、ドレスそのものを見た場合ではアリスの影響を色濃く見ることは出来るけれど。
しかし、それでもアンジェリカがそいつを来た姿に、アリスの面影はこれっぽちも見出すことが出来なかった。
無意識ではあるろうが、アンジェリカはドレスに完全に着こなしていたからだ。
もはやドレスはアンジェリカの色一色に染まっていた。
意図せずに、それも一発で着こなせるなんて、美少女でなければ実現できないことと言えよう。
元々彼女には美少女の素質はあった。
思い出すことすら苦しいが、娼館で使うはずだった写真が良い例であった。
そんな彼女に惜しみなく綺麗な衣裳を与えたのだから、こうなるのは当然の帰結と言えよう。
「……本当に、変じゃないですか?」
「うん。よく似合っている。俺が保障する」
世界的な劇団である歌劇座の公演故に、王国各地、いや世界各国の富裕層がゾクリュの劇場に集まり、ロビーはちょっとした社交界のようなことになるだろう。
そんなノーブル染みた空間に、このアンジェリカを放り出しても、決して雰囲気から浮くことはないはずだ。
それくらいに拵えたドレスは彼女によく似合っていた。
俺の言葉を受けて、アンジェリカの視線がちょっとだけだけど上向きになった。
少しだけ自信を得れたのかもしれない。
もしそうであるならば、僅かばかりではあるけれど、彼女の役に立てたようで何よりだ。
これで彼女の準備は完了したと言ってもいいだろう。
あとはエスコート役の到着を待つばかりだ。
アンジェリカを迎えにクロードが屋敷に訪れる手筈になっているのだ。
「おっと。北部生まれの紳士殿のご到着かな?」
噂をすれば何とやら。
来客を告げる鐘がなった。
きっとクロードだろう。
失礼します、と一言を残してアリスは応対するために玄関へと静かに向かっていって。
そしてしばらく間を置いた後、夜会服を着たクロードを引き連れたアリスが広間に戻ってきた。
「よう。待たせてしまったか?」
「いいや。ちょうどこっちも準備出来たところだよ。ナイスタイミングで来てくれた」
「そいつは良かった。しかし……ほう」
来訪の挨拶もそこそこに、クロードが感嘆の吐息を漏らした。
着飾ったアンジェリカを見て漏らした。
それは間違いなく好ましげな反応であった。
悪い反応ではないことに安心したか。
もう少しだけ、アンジェリカの視線が上向きになる。
俺に続いてクロードまで好反応を示したことに、自信を得たのか。
彼にドレスの事細かを見せるように、軽くその場でターンを披露するまでの余裕を見せた。
「どう。今日のアンジェリカのご感想は」
「ああ。似合っていると思うぞ。これならエスコートのしがいがあるってものだ」
「だろう?」
こうして誰かにアンジェリカが褒められているのは悪くない。
いや、はっきり言おう。
俺まで嬉しくなる。
きっとこの感情は、世の中に居る子を持つ親たちに共通するものなのであろう。
いわゆる親バカな感情ってやつだ。
俺もどうやら親バカになる、その因子はしっかりと持ち合わせているようであった。
「本当に似合ってます?」
アンジェリカがクロードに問いかける。
その言葉はさっき俺に投げかけたものと似たり寄ったりのもの。
けれども声の調子を比較すれば、違いがあることが分かるのは一目瞭然。
今回の声色は自信の色が見え隠れしていた。
似合うでしょ? どう?
そんな彼女の心の声が聞こえてきそうであった。
それに対してクロードは。
「ああ。本当に似合ってるぜ。そうだな……まるで――」
どうやらアンジェリカを称えるに最適な言葉を見つけたらしい。
クロードもまた、自信に満ち満ちた顔付きと声でそう言って。
わざと一度言葉を句切って、この場の注目を一身に集めて。
そして満を持してこう言い放った。
「――まるで、ヴィオレッタのようだぜ」
と。
それを受けて、俺は反射的に傍らに置いてあった本をクロードにぶん投げた。
ついでにヘッセニアもクロードに跳び蹴りをお見舞いした。
「ぐおっ!」
両者見事に命中。
クロードは苦悶の声をにわかにあげた。
……何だってこの男はこうもデリカシーが読めんのか。
もっとマシな形容が出来なかったものか。
あんまりな答えに頭を抱えつつ、痛みに悶えるクロードに歩み寄る。
「おい! 何をしやがるんだ!」
「何をしているってのはこっちの台詞だっ。よりによってヴィオレッタはないだろうっ。理知的で魅力なヒロインだけどさっ。ヴィオレッタって言ったら、クルチザンヌじゃないかっ」
「あんたもあの娘の境遇、知ってるじゃないっ。なのにその喩えはどうなのっ。アホッ。マヌケっ。だからあんたはいつまで経っても独身なんだっ」
アンジェリカに聞こえないよう、声を潜めてクロードに詰め寄る。
ヘッセニアもひそひそと、彼を非難する。
俺とヘッセニアが抱いた反感は、アリスもまた抱いたものらしい。
彼女は控え目な抗議行動として、クロードの視界にアンジェリカが入らないよう、そっと立ち位置を変えて彼女を隠した。
彼の言ったヴィオレッタとは、とある演劇のヒロインの名前である。
美しく、また理知的で素晴らしい人物で、なるほど、褒め言葉になるかもしれない。
だが、今回はさにあらず。
むしろ大問題であった。
何せ劇中のヴィオレッタの職業はクルチザンヌ……つまりは高級娼婦だ。
クルチザンヌは時には、貴族間の社交のためのサロンを開いたりと、ある意味上流階級の人間ではあった。
だが、アンジェリカは娼館に拾われ、挙げ句、あと一歩で無理矢理娼婦に仕立てられそうだった過去を持つのだ。
そんな娘にクルチザンヌの代名詞みたいだってのはあんまりだろう。
そのことにクロードも気がついたか。
はじめは強烈な突っ込みをお見舞いした俺とヘッセニアに、大きな不満を見せていたのが。
あれよあれよの内に不満は消え、見る見るうちに後悔が色濃い顔付きになり。
「……すまない。迂闊だった」
自分の落ち度を認めて頭を下げた。
「あ、あの。いきなりどうしたんですか?」
幸いなのはアンジェリカが自分を何に喩えられたのか、それにピンとこなかったことだろうか。
急に本をぶん投げ、跳び蹴りをクロードにかました俺とヘッセニアを不審そうに眺めていた。
まあ、何も知らない彼女からすれば、妙なことをしでかしたのはクロードではなく、俺らなのは間違いないだろう。
「いやあ。ちょっちゅね。この男のにやけ面を見て無性に腹が立ってね。跳び蹴りせざるをえなかったんよ」
「なかなかひでえこと言ってくれんな、おい。まあ、今回は俺の落ち度であるから、敢えて何も言わんでおくが」
あまりにも酷すぎることをヘッセニアは宣う。
いつもなら怒鳴り声を上げて抗議するクロードであるが、今日ばかりはぐっと我慢していた。
もっとも額にはぴくぴくと青筋を立てており、いつ爆発してしまうかわからない、そんな危うい状態ではある。
ヘッセニアからもう一声飛んでくれば、堪忍袋の緒が切れかねない。
そしてヘッセニアもヘッセニアで調子に乗って、そんな余計な一声を言いかねない状況にある。
ドレス姿を褒められて、ようやくアンジェリカが観劇に乗り気になりつつあるのにだ。
この二人に喧嘩でもされて気分を盛り下げられるのは困る。
「それはそうと、クロードさん。そろそろいいお時間なのでは」
同じ懸念をアリスも抱いたか。
喧嘩される前に出発させてしまおうとばかりに、そう促した。
「ん。ああ、そうだな。遅れたら馬鹿らしいし。早速行くとしようか」
「……ああ。くれぐれも。くれぐれもだ。アンジェリカを頼んだよ」
「ははは。何、あんなミス、二度としねえさ。大船に乗ったつもりで任せてくれ」
俺に任せておけと言わんばかりに胸を叩くクロードであるが、しかしやはり心配ではある。
何せ、チケットを手に入れてからのクロードの行動はちょっと怪しい。
先日のカフェでは恥も外聞も無く、思い切り頭を下げて手袋を手に入れようとしたこともある。
とんでもない暴走をしてしまうのではないか、という懸念を俺はどうしても抱いてしまっていた。
(まあ、もし。アンジェリカの初観劇に泥を塗るようなことがあったら)
それは彼女の保護者として、クロードに制裁を加えねばなるまい。
少尉殿にもういっぺん戦場とは何たるかを叩き込まねばならないだろう。
その時は、しばらく泣いたり笑ったり出来なくしてやるから覚悟しておけよ、少尉殿?
「うっ」
「ク、クロードさん。どうしたんですか? 何だってそんな大きな身震いを?」
「わ、わからん。何故だか、急に寒気がして……」
そんな俺の密かな決意を鋭く感じ取ったか。
クロードはぶるりと大きく身震いをしていた。
すいません。
モロ椿姫です。
でも、ヴィオレッタに変わる名前がどうしても浮かばなかったんです……




