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第三章 七話 ファリエール・スマイル

 最近外出の許可がすんなり下りるようになった気がする。


 難民キャンプで見たように、種族主義者がどうにも街に現れ始めている。

 ゾクリュ全体からすれば種族主義はまだまだマイノリティではあるが、しかし守備隊は気が気ではないだろう。

 もしかしたならば、そっちの監視が忙しくて、俺の監視がなおざりになっているのかもしれなかった。


 そうなら結構ずさんな監視体制と言わざるを得まい。

 が、裏を返せば、そんなずさんな体制でも俺なら取り立てて問題は起こすまい、と見なされている証でもある。

 つまりは一種の信頼を寄せられているのだ。


 ならば、その信頼に答えるべく、出来るだけトラブルを起こさないようにしなければならないだろう。

 もっとも、この生活を始めてから何かとトラブルが俺にやってくるような気がしないでもないが。


 さて、ただいま俺は、先日まさかの世界的大女優とお茶をしたあのカフェに居た。


 席はいつものテラス席。

 たった一人でそこに座す。

 そして机の上には、頼んだ王室御用茶とスケッチブック。


 そう。

 いつぞやと同じく、また写生に勤しんでいた。


 対象もまた、近々行われる舞台の広告のリトグラフ。

 ついでに言えばそれを手がけた画家までも同じであった。


 しかし、先日のそれと違う点もある。


 まず大きさが格段に違うのだ。

 そして、躍動感のあるポージングで描かれている女優も異なっていた。


 今回のポスターの主役は、ルネ・ファリエール。

 つまり今回の広告ポスターは、近い未来クロードとアンジェリカが観劇しに行くものであった。


 歌劇座とルネ・ファリエールという豪華タッグのためか。

 原版を描いた画家は相当気合いを入れたようだ。


 構図、背景、色彩、そして女史のポージング。

 どの要素を取っても、進取の精神を感じさせられる意欲作であった。


 大人気画家の持てる技術の粋、そのすべてをつぎ込んだ作品なだけあってか。


 俺の技術がついていかず、写生は思うように進まなかった。

 模写することすら苦労するほどの完成度なのである。


 彼の画家人生で最高傑作といってもいいほどであった。


 この部分はどう描くべきか。こうか。

 いや違った。ああであった。

 では次はそうればいいのだろうか。


 そんな風に何度も何度も訂正ややり直しを繰り返したというのに、だ。

 今手元にある絵と、宿の壁に貼られているポスターは全くもって別物と成り下がってしまっていた。


 正直言ってカメラ・ルシダを使えるのならば、使いたいところではある。

 その方がしっかりとあの絵を模写出来るはずだから。

 が、それが出来ない以上、やはり目で見ての模写をするほかになかった。


 もうすぐ陽が正中にあがろうかという頃合いの出来事であった。

 写生に四苦八苦している俺に話しかけてくる人が現れたのは。


「相席、よろしいかしら?」


「構いませんよ。この席でよろしければ」


 先日とほとんど同じ台詞を、先日とまったく同じ声で問われる。


 この間と違ってカフェには空席が多い。

 だから相席なんていささか奇妙と思いつつも、それでもルネ女史の要望に応えた。


「ありがとう。歳を取るとね、一人のお茶の時間がたまらなく寂しくなるものなの」


「そうなのですか?」


「ええ。おばあちゃんを思い出してみて。何かにつけて孫とお茶したがったでしょう? あれはひとえに一人で過ごすのが嫌なだけなの」


「でも、貴女はまだおばあちゃんって歳ではないでしょうに」


「いいえ。もうおばあちゃんよ。あと十年もすれば、ね」


 どうにも相席を申し出たのは、一人でカフェで過ごすことに気乗りしないかららしい。

 言われてみれば、カフェにやって来る年嵩のあるご婦人方は、必ず団体様であるような気がする。


 だとすれば、今女史が言ったこともあながち間違いではなさそうだ。


「絵を描いているの?」


「ええ、下手の横好きですが。あの画家が好きなもので」


「ふうん。ね、綺麗でしょ。彼の絵は」


 誇らしげに女史は語る。

 それは少し不思議な声色でもあった。

 自分の息子が褒められた時の母親の声に似ていたのだ。


「こう言うのもなんだけどね。埋もれていた彼を見つけたのは私なの」


「そうなのですか?」


「ええ。十年くらい前かしら。手違いでポスターが発注されなかったときがあったの。時間に余裕がなくてね。兎に角ポスターを間に合わせるためには、劇場近くの印刷所で住み込みで働いてた若い子に頼まざるを得なくて。そしたらびっくりしたわ。色彩は素晴らしく、何よりも演目を深く理解してないと、描くことの出来ないものだったのだから」


「十年前の作品、と言うと」


「"とある公爵未亡人"」


「ああ、あの作品が出世作だったのですか」


 名前を聞いてその作品を思い出す。

 それは棕櫚の葉を持った女史が印象的な絵であった。

 あれは劇のクライマックスの一シーンを抜き出したもので、彼女の言う通り、演目を理解せねば描けない傑作であった。


 と、するとだ。


 なるほど。

 今回の公演ポスターからぞっとするくらいの気合いを感じる理由が、なんなくだがわかった。


 要は恩返しなのだ。


 自分を有名画家にした切っ掛けを与えてくれた恩を、今、全身全霊を込めて描いた絵で返そう。

 その信念でもって、彼はあのポスターを描いたはずだ。


 そして女史が母親染みた感想を抱くのも、また当然だ。

 あの時のうだつの上がらなかった若人が、いまやポスター泥棒してまで手に入れたいと思わせる作品を生み出すようになったのだ。


 誰よりもその成長ぶりを感じたはずだろう。

 この最高傑作を目にして、きっと感じ入るものがあるはずだ。


 そうであるならば、だ。


「あら、もうやめてしまうの?」


 それまで忙しなく動かしていた手を止めたばかりか、スケッチブックを閉じた俺に、意外そうな声で女史が問う。


 模写は完成には至っていなかった。

 なのに中途半端な出来で急に切り上げたところを見れば、誰であろうと訝しむのは当然であろう。


「いえ。本人が目の前に居るのに、その人がモデルとなった作品を模写するのは。とても奇妙なことだなって思いまして」


「言われてみればそうね」


 女史は今の言葉に得心がいったようである。

 だがしかし、彼女を納得させたそれは、実は口から出任せであった。

 写生することをやめた理由は、別なところにあった。


 あの作品は言うなれば親子の語らいなようなもの。


 自らの成長を言葉を使わず行動で示さんとする子と、それを笑顔で見守る親の、無言のコミュニケーション。

 それがあのポスターの本質だ。


 そんな心の交流を、見ず知らずの第三者が議事録よろしくに紙に書き写すなんて、無粋もいいところだろう。

 

 これでもよろずのことに紳士的でいたい、という願望は人並みにある。

 その願望が先ほどに囁いたのである。

 今回はこうすることが紳士的である、と。


「ねえ、一つ聞いてもいいかしら。前にここで会ったとき、少しだけね。気になったことがあったの」


 きっと俺がスケッチブックと向き合っている最中に頼んだろう。

 新たにもう一つ王室御用茶がテーブルに運ばれてきたタイミングで、女史はそう切り出してきた。


 聞きたいことがある、と。


「気になったこと、ですか?」


 答えながら、俺は前回の邂逅を思い返す。

 何か礼を失したことをしてしまったのでは、と必死に思い出す。


 が、いくら考えてみても、それらしきものは見つからない。

 だから、首を傾げる。


 はて。彼女は何を聞きたいのか、と。


「もしかしたら気に障るかもしれないけど――」


 女史は一度そこで息を継いだ。

 二回、三回と瞬きをして間をとって。

 そしてじっと俺を見ながらぽそり。


「貴方、故郷でなにがあったの?」


 探るような声色だった。

 控え目な声、と換言してもいいかもしれない。

 しかしそんな声にも関わらず、俺は硬直した。


 前回、彼女が気になったことはつまり。

 クロードの紡いだ実家というワードを前に見せた、俺の反応であったのだ。


「……どうしてそんなことを?」


「相方の金髪ののっぽさんが実家という言葉を口にしたときにね。貴方本当に寂しそうな顔を見せたの。それは時間のすれば一秒に満たない表情の変化だったかもしれない。でも、一度見たら忘れられないくらいの強烈なものだった。だから気になったの」


 なんとか力を振り絞って問い返す。


 その質問の意図は如何に? と。

 問いかけを問い返すのは、とても失礼なことだとは承知している。

 けれども、そうせずにはいられなかった。 


 そして彼女は答える。

 記憶に残るほどの寂寥感に溢れる顔していたと。

 如何にも尋常ならざる様子であったと。


 あの時抱いた動揺は、自分では上手く抑えたつもりではあったけれど。

 少なくともファリエール女史に夢中であったクロードには隠すことが出来たけれども。

 しかし流石は年の功と言うべきか。

 この大人の女性からすれば、そんな努力は無きに等しいものであったらしい。


「……よくある話ですよ。そう、あの戦争ではありがちな話」


「ありがちな話?」


 仕事柄からだろうか。

 とても強い女史の眼光が突き刺さる。

 嘘をついたらすぐさま見破られてしまうような、そんな強い視線だ。


 だから悟った。

 先の模写を取りやめた件とは異なり、この話では適当なことを言って誤魔化せそうにない、と。

 

 ふうと小さく息を吐く。

 誤魔化せないのであれば仕方がない。

 正直に話すことにしよう。


「ええ。ありがちです。とある片田舎で暮らしていたごく普通の貴族の少年。ある日突然、そんな彼がたった一人になってしまった。邪神によって家と一族がやられてしまった……よくある話でしょう? この時代では、残念なことに」


「……ごめんなさい。私の好奇心のせいで貴方を傷つけてしまったようね」


「いいえ。気にすることはありません。よくあることなのですから」


 とは言うもの、場の空気は一気に重苦しいものになってしまった。

 一応ギリギリ悲劇に該当する話なのだからそうなるのも仕方が無い。

 ただ、案外悲劇を味わった側はけろりとしていることも多々あるもの。


 例えば今回がそうだ。


 話し疲れた俺は、さきほど乾いた口を潤すために紅茶に手を付けた。

 嗅覚はふくよかな香りを、そして舌は複雑な味わいをしかと感じることが出来た。

 ぼやけた味に感じた、寂寥感に支配されてしまった先日とは大違いだ。


 このことからも、今日の方が心持ちが穏やかであると言えるだろう。


「もう一つ、聞いていいかしら?」


「どうぞ」


 静かに、しかし躊躇いのない口調で女史が言う。

 先の質問と違って探るような音色は含まれていなかった。

 

 と、するとだ。

 女史が真に俺に聞きたかったことは、先の故郷云々ではなく、むしろこれから口にすることなのだろう。


「もし。もしよ。壊される前の故郷に帰る方法が見つかったとするわ。でも、その方法が時に他人から非難されるべきものなの。そうならば……貴方ならどうする?」


「取らないでしょうね。自分なら絶対に」


 そして彼女が真に問いたかったことに、俺は即答する。

 誰かに非難されて、あるいは誰かを不幸にしてまで、俺の幸せ得ようするなんて。

 そんな真似は天地がひっくり返ってもする気はなかった。


 何故なら俺の幸せとやらは、そこまでして得る価値がないからだ。


「ただ……」


「ただ?」


 とは言え、である。


「本当にそんな方法が目の前に現れたのならば。いざその時に散々迷うかもしれません。魅力的なのは確かですから。少なくともそんな手段を取る人が居てもおかしくはない、と思えるくらいに」


 拒絶という選択を結局選ぶにせよ、そこに至るまでの過程では散々悩むかもしれないのも、また事実であった。


 何せ親が、祖父母が、兄弟が、使用人達が、そして実家が健在な故郷に帰ることが出来るのである。

 幼き日は、帰郷を夢見て涙まで流したこともある。

 そんな俺にとって、そいつは優しい世界だ。


 誰だって自分に優しい世界を望む心はあるのだから、心が揺らぐだけならば十分にあり得た。


「……そう」


 その答えは満足がいくものなのか。

 女史は穏やかに、短く返事をした。


 それにしても彼女は何故こんなことを聞きたがったのだろうか。

 結構唐突な問いかけであったがために、彼女の意図が読めなかった。


 それに、である。


 そして短く返事をした時の彼女は、穏やかさとは別に何かを覚悟したような目の色を湛えていた。

 やるかやらないか、それをずっと悩んでいて、そいつの始末を決めたかのような、そんな色。


 それから察するに、どうにも先の問いかけは俺へのものであるのと同時に、彼女自身に向けたものでもあったらしい。


 つまりは俺の返答によって、彼女の問題が知らずのうちに解決したということ。


 どうして、そんなことを聞いたのか。

 なんの覚悟を決めたのか。


 そう聞かんとするために口を開こうとするも、しかしそれは阻まれた。

 他ならぬ女史の行動によってだ。


「そんな手段をとる人が出てても――ね」


 そう呟いて。

 そして相も変わらずゆったりと綺麗な所作で立ち上がって。

 そして携えていたバスケットから、一本のとても深い緑色の瓶を取りだし、机に置く。


 未開栓のワインボトルのようだ。

 瓶の色からして赤ワインであろう。


「ごめんなさいね。嫌なことを思い出させてしまって。ささやかながらだけれど、これは私からのお詫びよ」


 ラベルを見る。

 そして驚く

 クァン・ジュール(qu'un jour)


記されているのは共和国語。

つまりは共和国産のワイン


 元々共和国産のワインは評価が高かったのだが、邪神によって陥落してからというものの、希少価値が着いて、価格はうなぎ登り。

 今や、金持ちでも手が出しにくい逸品となってしまった。


 そんな代物をくれてやるというのである。

 ずいぶんと重たいささやかだ。

 こんな物を渡されたら誰だって驚くのは当然だ。


「こんな貴重な物を。それに詫びを入れなきゃならないことなんて、貴女は何もされてれてませんよ」


「でも間違いなく、写生の時間は邪魔してしまっているわ。なら、詫び代として適ってると思うけど」


「そもそも前回もお茶代を払っていただいてるのですから。これ以上いい思いをしてしまうのは……」


「ならいいじゃない。自分で言うのもおかしいけれど、大女優とお茶したばかりか、贈り物までされたのよ。貴方はね。子や孫に言い聞かせるための、いい自慢話として受け取っておきなさい」


 再び彼女はボトルを手に取って俺に押しつける。

 どうやら何があってもこいつを俺に渡したいらしい。


 俺とてこんな高価な物を渡されても困る。

 だから控え目に押し返したのだけれども。


 彼女の強い目力に気圧されてしまっているせいか。

 ボトルを押し返す力は徐々に徐々にと弱くなってしまい。

 結局共和国ワインは俺の両の手に収まってしまった。


 そのことに満足したのか。

 クロードを骨抜きにしたファリエール・スマイルが飛んできた。


 ……なるほど。


 クロードがふにゃふにゃになってしまった理由が今、分かった。

 自分の頬に紅が差していくのを知覚した。

 まるで思春期に戻ったようである。


「それじゃあ、またね(オ・ルヴォワール)


 赤ちゃん返りならぬ、急な少年返りに戸惑っている俺を尻目に、女史は軽やかな別れの挨拶を残して、軽やかな足取りで去りゆく。


 その手には先日と同じく二人分の伝票を携えながら。


「……あの人には敵いそうにないな」


 先日の偶然の出会いから、ずっと彼女のペースに呑まれっぱなしだ。

 これも年の差か、あるいは世界に股をかけている者とそうでない者の違いと言うべきか。

 どうにも手玉に取られている感が否めない。


 冷め始めた御用茶に手を伸ばしながら、俺は件の広告ポスターを眺める。


 自信と強烈な目力を湛えた女史が、そこからも睨みを利かせていた。

 どう見てもジスモンダです。

 どう見てもミュシャです。

 どう見てもベルナールです。

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