第二章 四話 ぼんやりとした不安
ふわふわとした浮雲が、日光を柔らかく遮った。
決して暑くはないが、それでも身体を動かせば汗ばみ始める今日の陽気。
それを考えれば、いくらか体温を下げてくれるありがたい雲、と評価出来るだろう。
今、俺は屋敷の庭の一角に居る。
レンガで区画された畑とも言える規模の花壇の内で、苗の移植作業を行っていた。
ゾクリュの街で買ってきた苗は、いずれもハーブ。
今まで観賞花と樹木しかなかった庭にとって、本日植えるそれらは全くの新顔ということになる。
観て愛でる代物がメインであった庭に、いきなり実用性の高い植物を育てる形となる。
突然の路線変更にも思えるが、これはアリスの要望を受けてのものだった。
その要望は言うならば、埋め合わせだ。
この間街に降りたとき、実はアリスと共に買い物をしていた。
が、途中俺があのポスターを見つけてしまったものだから、アリスに頼み込んで急遽別行動を取ることになったのだ。
アリスは買い物、俺は写生に、といった具合に。
そう提案したときのアリスの表情というものは、とても寂しげなものであった。
その顔の威力たるは凄まじく、後日必ず彼女に埋め合わせをしなければと、強烈な罪悪感に見舞われるほど。
だから先日、彼女の望むことは何かと聞いてみたのだ。
そして答えは件の通り。
ハーブを育てたいとのこと。
理由を聞いてみれば、あの野生臭に溢れていたハーブティーにリベンジをしたいとのこと。
どうやら街の花屋との立ち話で、ハーブには手入れが出来なくなると途端に、雑味が増し香りが臭いに劣化する種があると知ったらしい。
当時、俺がドワーフの将校に言った口からの出任せは、なんと真実であるようだったようだ。
と、なれば、あの時に摘んだハーブは運が悪かったことに、そういった種であったと見るべきだろう。
その話を聞いたとき、アリスはどうしてもあの時のハーブの、真の実力を知りたくなったようだ。
そんな頃合いに、俺の埋め合わせの話が舞い込んだのだ。
渡りに船、とばかりに、彼女は控え目に要望を口にして、本日に至るというわけだ。
「ふう」
空を仰いで一つ息を吐く。
雲によって柔らかくなった日光が、目に心地の良い刺激を与える。
花屋に荷車の使用を薦められるほどに買い込んだ苗は、丁度半分ほどの移植を終えていた。
中々いいペースだ。
このまま行けば、今日中には楽に作業を終えることだろう。
「ウィリアムさん」
丁度一息ついた頃合い、背中からアリスの声が聞こえてくる。
振り向けば、レンガ積みの区切りの向こう側に、小さなバスケットを手にした彼女が見えた。
「このあたりで休憩なさいませんか? 軽食をお持ちしてきました」
「ん。そうしようかな」
思いのほか作業が進むお陰で空腹を忘れていたが、なるほど、そろそろ昼食時だ。
アリスの言うとおり、休憩するにはもってこいタイミングだろう。
植えたばかりの苗を踏みつけないために、まっさらな地面を選んで、彼女へと近寄る。
耕したての地面は、一歩を刻む度にふわり、ふわりと俺の足をくるぶしのあたりまで飲み込んでいく。
歩きづらいものの、眉根を寄せるほどではない。
特別な苦労もなく、アリスの下へとたどり着いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
湿った手拭いを手渡される。
汚れた手をそれで拭いつつ、レンガ積みに腰掛ける。
アリスは俺の右隣に座った。バスケットを自らの膝の上に置きながら。
そして手の汚れを拭い切れた丁度その頃、彼女は膝の上のそれを、ゆっくりと開けて。
「お好きなものからどうぞ」
その内側を俺に示して見せる。
バスケットの中はサンドウィッチであった。
馴染みのキュウリのものもあれば、色とりどりのジャムが挟まったものもある。
それぞれの断面はとても綺麗で見栄えが良く、どれから手を付けるか、それに迷ってしまうほどだった。
「ん? これは、なんだい?」
そんなサンドウィッチの中で、一際目に留まるものがあった。
ジャムサンドの一つなのだが、その挟まっているジャムが独特の色合いをしているのだ。
それは何色と言うべきなのだろう。俺には的確な表現が見当たらなかった。
赤とピンクの中間。
ジャムはそんな珍しい色をしていた。
イチゴジャムではなさそうだ。
手に持って顔に近づけてみても、一向にその正体が掴めずに首を傾げた。
「それはですね。アンジェリカさんが作ったジャムです。あの娘の故郷でよく作られた、カリンのジャムだそうです」
「カリンの? へえ、こんな色になるんだ。でも、カリンの時期って秋じゃ?」
今の季節は夏に向かい始めている、そんな頃だ。
カリンならば花が落ち、青葉が繁茂する時期であって、実を結ぶにはあまりに早すぎる。
だから、どうやって材料を手に入れたのか。それが気になった。
「ええ。ですから、砂糖漬けを煮込んだようです。この間、砂糖漬けをアンジェリカさん市場で見つけたのです」
「へえ。ますます珍しい」
ジャムを拵えるのに、砂糖漬けを用いるなんて話はあまり聞いたことがない。
もっとも材料から考えれば、ジャムと砂糖漬けのそれはほとんど同じであるから、俺が知らないだけで、世界にはそういった作り方があるのかも知れない。
さて、気になるのは味だ。
砂糖や蜂蜜や酒に漬けたりするのが主な調理法であるだけに、火を通したカリンを口にするのは初のこと。
だから、あまり味が想像できないが、果たして。
アンジェリカ謹製のジャムサンドを口に入れる。
「ママレードに近い、かな? 苦みが渋みになってて、酸味をより強くした感じ」
不思議な味わいであった。
今まで経験したことのない味だ。
どうすればより良く味を表現できるか、それが解らない。
しかし、不味くはない。
いや、それどころか。
「でも、いい味だ」
「ええ。そうですね」
アリスもその感想に首肯する。
件のジャムサンドを今は食べてはいないが、どうやら味見として、屋敷でカリンのジャムを口にしたらしい。
この出来からするに、あの娘がこれを作ったのは一度や二度の話ではないのだろう。
と、なれば彼女はある程度は料理が出来る、と見て間違いないだろう。
そんな推測に至って、カリン由来ではない渋味が少しだけ心の内に広がった。
「ちょっと、悔しいな」
「何がです?」
「……アンジェリカが料理出来ることが。何だか負けた気がする」
十一才の子供に出来ることが、ロクに出来ない二三才。
文字に起こしてみると、みっともなさがより強調される。
多分顔もそれ相応に渋いものになっていて、可笑しいもののだろう。
右隣から、耐えかねて吹き出す声が聞こえた。
「……笑うなよ。ちょっとショック受けてるんだ」
「ご、ごめんなさい。でも……何だか。ウィリアムさんが子供っぽくて」
……確かに十一才に奇妙な嫉妬を覚えている、大の男の図は、あまりの情けなさに一種のシュールさを纏っているかもしれない。
と、いうか凄まじく大人げない。
その事実に気がつけば、嫉妬心は消え去り、代わりに羞恥心が襲いかかってくるだけだった。
思わず叫び出したくなる恥の衝動を、何とか頑張って食欲に変換して、手にある残りのジャムサンドを口に放り込んだ。
それでもなお、恥ずかしさは拭いきれなかった。
だから兎にも角にも、無理矢理話題を変えることにした。
「そ、それはさておき、だ。苗の移植はなんとか今日中に終わりそうだよ」
「ありがとうございます。ですが、良かったのでしょうか。私の要望なのに、移植作業、そのまま任せてしまって」
「いやあ。アリスに流石に野良仕事させるのは、ねえ。それにこの間、アリスを放っておいて絵描いてたわけだし。これくらいはやらないと」
あの時は自身の欲望に負けてしまったわけだが、欲望が満たされてしまった後が地獄であった。
別れ際のアリスの寂しげな表情が、ずっと脳裏にこびり付いて離れなかったのである。
日に日に罪悪感は強くなり、今では何か彼女のために動いていないと、気が病みそうなほどだ。
多分、ここで彼女に何かを手伝わせてしまったら、今度はそれが切欠で罪悪感を生じてしまうことだろう。
だから、是非ともこの作業を一人でやり終えたいところであった。
「今回買ったハーブは成長が早いらしいし、案外すぐにリベンジ出来るかもしれないな。いっそのこと対照実験でもやってみようか。野生化したのと育てた奴、両方でお茶作って、飲み比べするんだ」
「んー……私とウィリアムさんだけなら、それもいいかもしれませんが……今はアンジェリカさんが居ますから」
「あー……確かに。アンジェリカにアレ飲ませるのは……流石に可哀相だな」
「ハーブティー、飲むのが初めての可能性もありますし。人生初のハーブティーで悲惨な味を覚えさせるのは、あまりに酷かと」
「トラウマを植え付けかねないね。やめておこうか」
真っ当な味覚の持ち主の舌に、深刻なダメージを与える究極兵器――
件の代物はそういうやつなのだ。
そんな悪魔みたいなものを飲ませて、激烈なトラウマを与えて、二度とハーブティーを飲めない身体にしてしまう――
こんなこと、残酷極まりない所業でしかなく、もはや虐待の域だ。
今の彼女は経験したことが、そのまま後の人生へ直結しかねない大事な時期だ。
彼女に出すお茶は、素晴らしい出来のものでなければならない。
ならば、ただ怖い物見たさの対照実験は諦めるべきだ。
「忘れることが出来ない――か」
独りごちる。
アリスは少しだけ、きょとんとした顔をして俺を見た。
自分の台詞で思い出すのも我ながら中々唐突だと思うけど、この間のカフェでのクロードの話を思い出す。
最終戦闘を覚えているか――?
その問いかけを。
どうしてクロードがそんなことを聞いたのか、彼自身が話したくないのか、結局教えてはくれなかった。
それはそれでいいのだけれども、やっぱりこうして理由を隠されるのは何だか気になる。
だから、俺は俺なりにちょっと彼の思惑を推察してみることにする。
同じ場に居た、アリスに話を聞くことによって。
「ちょっと思い出しんだけどさ。アリス、最後の戦闘のことって覚えてる?」
「唐突ですね。どうしたんですか?」
「いやね。写生の時にクロードに会って、そんなことを聞かれたんだ。でも、俺、最奥部での戦闘を覚えてなくてさ。どうして聞いたんだろうって、ちょっと気になってるんだ」
そう告げるや、否や、アリスの顔にすっと一筋の影が差した。
彼女の表情は、見るからに不気味さというか、薄寒さ感じているような、深刻そうな感じだ。
「……ウィリアムさんも覚えてないんですか?」
「も? と言うとアリスも、最奥部で起きたことを覚えていない?」
「はい。実は」
ゆっくりとアリスは首肯。
……なるほど。
確かにアリスが気味の悪そうな顔をするのも、納得できる。
にわかに彼女の顔同様、なんとも言えない薄気味悪さが、心中に過った。
事実これは異常事態だ。
現在解っているだけで、最奥部にたどり着いた六人の内、二人がそこでの記憶をまるっと失っているのだ。
一人であれば、そういうこともあろう、と片付けられるその忘却も、それが二人も重なるとなると。
最奥部で人の記憶を消し去るだけの威力をもった、なにかがあった、と思わざるを得ない。
一体、俺らはあの日、あの最奥部でなにを見て、なにをしたのだろうか?
「でも、うっすらと覚えてることがあるんです。何が起こったのか、それは覚えていないのに、そこで感じたことは、どうしてか薄く覚えてるんです」
「感じたこと?」
「ええ。その時どんな感情を抱いたのか、その記憶だけは漠然と」
「ふうん。どんな感じだったのか、聞いてもいい?」
彼女は無言で頷く。
一瞬、躊躇うような素振りを見せるも、意を決して。
「悔しくて、情けなくて、悲しくて。そんな辛い感情です」
そう口にする。
うっすら残っているであろう、その時に覚えた感情を思い出したせいか、沈痛な面持ちで。
「どうしてそんな感情を抱いたのか。それは全く思い出せません。でも、そんな感情を持ったからには、相応のことがあったのだと思います。それだけ辛いことが」
辛いこと――アリスのその言葉を受けて。
脳裏に鮮明に蘇る言葉があった。
(忘れたくなるほどに、辛く、悲惨な過去、か――)
カフェでのクロードの一言だ。
あの様子を察するに、彼は最奥部で起こったことを覚えている、と見るべきだ。
なら、あの言葉の真意とは。
戦争で傷付ききった大衆へ向けたものではなくて。
もしかしたならば。
あれは俺らに向けたものであったのではないか?
たった一年で記憶を忘却の彼方へ葬り去るほど、それだけ悲惨で強烈な目に遭ったかもしれない、俺らへの言葉であったのではないか?
そんなぼんやりとした懸念が、俺の目の前に現れた。
「ウィリアムさん……もしかしたら、私たち。私たち……あの時、あの最奥部で……」
アリスも同様の懸念を抱いているようだった。
久しく見たことのなかった、怯えきった表情を見せている。
なにか、とんでもないことを忘れているのではないか。
本当は忘れてはならない、しかし忘れたいと願うほどに、酷い経験をしたのではないか。
彼女の顔は、そう無言で俺に語りかけていた。
とても心細げに。
「……思い出せないけど。でも多分大丈夫」
そんな彼女をなんとか安心させたくて。
俺自身確証が持てなくて、無責任だと自覚しつつも。
それでも、大丈夫とアリスに語りかける。
悲しそうなアリスを見たくないから。
「だって、あの時一緒に突入した全員で終戦を迎えたじゃないか。それも五体満足で。飛び切りの悲劇はなかった。それは確かだよ」
「……そうですね。そう。そのはず、ですよね」
俺の言葉を深く信じ込んで、抱いた不安をどうにか忘れようとしているのであろう。
何度何度も、そうだ、そうだと言っては、何度も何度もアリスは頷く。
心中の不安を消し去るための、拠り所を与えられたのであれば、この上なく嬉しいけど、だが、ふとこうも思うのだ。
先ほどアリスに投げかけたあの言葉。
あれは、もしかしたら無意識に、自分自身に向けた言葉でもあったのでは、と。
薄く心に纏わり付いた、ぼんやりとした不安を振り払うための言葉であったかもしれない、と。




