第二章 三話 下手くそな嘘
肌寒さもなく、かといって取り立てて暑いわけではない。
とても外で過ごすには、とても都合のいい日であったことを俺は誰に向けたわけではないが、ひっそりと感謝した。
一日中喫茶店のテラス席に居座れる陽気でありがとう、と。
本日、俺はゾクリュに居た。
とある喫茶店のテラス席に居た。
あの邪神騒動を経たこともあってか、席から見ることが出来る通りは、人の往来がまばらである。
騒動は解決したとはいえ、市民は各々警戒心を抱き、不要不急の外出を控えているのだろう。
現にこの喫茶店にしたってそうだ。
昼下がりで、友達と雑談して過ごすには丁度いい頃合いにも関わらず、ばらばらと空席が目立つ始末。
街が活気を取り戻すには、もう少し時間が要りそうである。
さて、そんな一種の寂寥感を覚えてしまう只今のゾクリュ。
しかし今に限って俺は、そんな街の現状を有り難く思っていた。
人々が恐怖を拭いきれず、外に出たくないと思っているのに、それを都合がいい思うのはろくでなしと見られてしまうだろう。
しかし人が少ないからこそ、出来ることもあるのだ。
それはそう、例えば。
今俺がしていることのように。
画板にスケッチブックに鉛筆。
その三つを時には手に持ち、時には動かし、時には机に置く――そんな作業を繰り返していた。
これらは先ほど、画材店に駆け込んで手に入れたものだ。
そう。俺は今スケッチをしていた。
対象は、丁度この喫茶店の向かい側にある宿だ。
その宿の佇まいが珍しくてスケッチしているのではない。
より正確に言えば、宿の壁を手元の画用紙に書き写していた。
壁にはポスターが貼ってあった。
花と植物がモチーフである幾何学模様が入った円形。
それをバックに、躍動感溢れるポージングで女性が描かれているポスターである。
モデルとなった女性は実在の女優。
ゾクリュの劇場で近日行われる、演劇の宣伝であった。
俺はそれをひたすらに書き写していた。
「よう。何してるんだ?」
しばらく写生に夢中になって居ると、頭上から声がかかってきた。
目をわざわざ声の方へ向けなくとも、その持ち主が誰なのかは解った。
クロードだ。
「写生。あのポスターのね、画家がさ。好きな画家なんだよ」
クロードが椅子を引いたようだ。
相席する気でいるらしい。
それでもなお構わずに、目を手元から外さずに彼の問いに答えた。
「煙くなるけど、いいか?」
「どうぞ。ご自由に」
「悪いな」
その返事から少しして、濃厚な紫煙のにおいが鼻孔に入り込む。
クロードが葉巻を燻らせ始めた証だ。
「なるほど、ね。確かに綺麗な絵だが……書き写すほどのものかね」
「もちろん。あの画家人気なんだぜ。知ってるか? あの画家がポスター手がけるとな。誰かがポスター剥がして家に持ち帰ることも少なくないんだよ」
「そこまでか。しかし、あれは所詮はリトグラフだろ? 俺にはそこまでして手に入れる価値はないと思うのだが」
リトグラフとは乱暴に言えば、彫らない版画だ。
石板に油性の画材で下絵を描いた後に、薬品と樹脂を塗布する。
そうすると下絵部分がインクを吸着し、紙への転写が可能となるのだ。
木版やエッチングと異なり、彫らないが故に細やかな描画が可能となる。
その細やかさや凄まじく、版に描かれた元の絵の筆跡まできちんと転写出来るほどだ。
しかも版画であるから、量産も比較的容易である。
それでいて彫り師を介さないから、画家の息づかいを直に感じることができるのだ。
手書きに匹敵する精緻さを誇りながら、それでいて大量に作ることが出来る――
これらの特徴は、ポスターを作るにあたっての要求をこの上なく満たしたものと言えよう。
だから登場して日の浅い画法でも関わらず、いまや大都市に行けば、そこかしこにリトグラフのポスターが貼られている光景を目にすることが出来る。
それくらいに、人気のある代物なのだ。
しかしそんな量産品であるが故に、一部の人々、大部分は貴族であるのだが、リトグラフを芸術と見なさない風潮も存在する。
あれはただの日用品である。
故に保存し、愛でる価値に値せぬ、と。
彼らは口々にそう言うのだ。
クロードも、またその一人のようだ。
だがしかし、俺はその意見に賛同することは出来ない。
「価値ならあるさ。リトグラフの登場のお陰で、大衆は美術への興味を強く持った。簡単に綺麗な絵を見れるようになったことによってね」
「それが、リトグラフの価値?」
「ああ、そうさ。大衆に美術への興味を強く抱かせること。それは他の名画では成しえなかった、燦然たる功績だ。他と違うことを成せたその力。これを価値と言わずして何を言うのだろうか」
「そういうもんかねえ。それにしちゃ、美術館に行く人間はいつだって中産階級以上の人々だけな気がするが」
「そりゃまだ美術館の入場料が高いからだ。優れたリトグラフのポスターが、すぐに剥がされてしまう理由はそこにある」
「と、言うと?」
「美術館に行くほど裕福ではない、でも絵は見たい。だからこっそり剥がして家でじっくり眺めよう――不届き者はそう考えたわけだよ。その行動は、美術の素晴らしさを知らない限りでは起こることはない」
そもそもリトグラフは、鍛冶の世界で言う数打ち物だ。
転売しようとしてもさほど値がつかない。
しかも剥がすところを目撃されれば、お縄になることだってあるのだ。
リスクと利益が見合っていないためか、リトグラフのポスターはそれほど泥棒市に出回ることはない。
だから剥がす人々の目的は、いずれもそのポスターが欲しいからに他ならないのだ。
そして各地でポスター泥棒が、度々起きているということは、それだけ美術に興味を持った人が多いということでもある。
この傾向は現代以前の社会では、例を見ることはできない。
なにせそれ以前の社会での美術品というものは、貴族が貴族コミュニティ内で自慢をするための代物であったからだ。
作品を求める階層というのは、社会のほんの一握りだけ。
大衆が見ることが出来たものなんて、それこそ清廉で香油くさい宗教画ぐらいなものだった。
多種多様な芸術をお目にかかることができなかった。
それが今では、社会の大多数を構成する大衆たちが、美を求める心を持ち始めたのだ。
絵画がとても美しい物、と知ったが故に。
その切欠の一つは、間違いなく安価でかつ大量生産が能い、しかも美麗な画面の提供を可能としたリトグラフがあってのことだ。
「タダかそれに近い支払いで芸術を見たい。それは美術の価値の下落、と見ることは出来ないか? 誰かが後生大事に保管して、時々、有償にて公開する。そっちの方がありがたみが強く、故に高い価値を得られそうなものだが」
「価値の下落は正しくない物の見方だな。文化の担い手が貴族から大衆に変わり、それに伴って、美術の価値も変化しただけだ。独占して誇ることから、共有して共感する。そうなっただけだよ」
戦争は多くの人々を殺し、社会に暗い影を落としてきた。
しかしその一方、生存のために、より効率的に邪神を殺せるようにするために、殖産興業と近代化を邁進させた結果、世の大多数を構成する中産層を勃興させる副作用ももたらした。
もはや世の中の主人公は貴族達ではなく、大衆に移り変わったのだ。
だからモノの在り方も、それに沿ったものに変化していくのは俺は自然な成り行きだと思った。
「それは果たして、いい変化と言えるものなのかねえ。特に戦後、真っ当とは言えない勢いで、その向きが加速しているように思えるんだが。ポスター泥棒なんて、結局は犯罪じゃないか」
「泥棒行為は論外だけど。でも、いい傾向だと俺は思うよ。だってさ」
由緒正しく、そして戦争によって家が潰れなかった貴族であるクロードとしては、その変化が好ましいものとは捉えにくいようだ。
だが、俺は自信を持って言える。
悪いことではない、と。
「人々が癒やしを美術とかに求めてる、ってことはだ。少なくとも人類は、追憶をほどほどにして、辛い過去をどうにか忘れて前を向こう――そう思い始めた証、と見れるんじゃないか? 前向きになるための、その原動力として美術が求められているならば。それはきっといいことだ」
時には追憶と悲嘆も必要だろう。
だが、そればかりでは、前には進めまい。
いつまで経っても、同じところに立ったままだ。
だが、今の人類は違う。
目の前の素晴らしいものを見て、なんとかして今を生きていこう――
そんな風に自らを慰めて、どうにかして前進しようとしているのだ。
それは困難から立ち直ろうとしている、とても心強い姿に他ならない。
「辛い過去を忘れて――か」
その一言に思うところがあってか。
クロードは何度もその言葉を、葉巻の煙とは別に、口元でもごもごと反芻。
横顔に視線を感じる。
彼は画板に向き合う俺をじっと見ながら、なにやら物思いをしているようだ。
「……忘れたくなるほどに、辛く、悲惨な過去、か」
脈絡がありそうで見いだせないような、そんな微妙を呟きをして。
そして何かを逡巡するような間を見せた後に、クロードは。
「なあ、ウィリアム。お前、最後の戦いのこと、覚えているか?」
おもむろに、彼は過去のことを問うてきた。
大反攻作戦のことを。
それは戦争を終わらせることに成功した、人類の死力その全てを注ぎ込んだ一大作戦であった。
その規模は、とてつもなく大きなものであった。
失敗すれば、以後の邪神への抵抗が難しくなるだろう、と予測されるほどに。
それはリスクがあまりにも大きすぎる賭けだ。
尋常であれば、ベットするに躊躇われる賭けである。
しかし得られる利益も、また莫大であった。
勝つことさえ出来れば、戦争を終わらせることが出来ると人類は確信を抱いていたのだ。
百年ものあいだ、人類はただ単純に戦っていたのではない。
敵となる邪神という生物の謎を、少しでも詳らかにせんと努力してきた。
邪神は女王とその子供を軸とした一つの社会を構築していることを、つまり蟻や蜂に似た生態を持っていると突き止めたことも、その努力の結果の一つだ。
一つの女王は大地に大穴を開けて巣を拵え、その中で何百、何千の邪神を出生する。
そしてその子供たちは、女王から何らかの命令を受けて人類の領域へと侵攻し続ける――
生物学者らはそう分析したのだ。
最初トンデモ説の一つであった。
だが実際、邪神の巣と思われる構造体で潜伏していた女王個体を発見したことにより、それは一気に通説へと昇華した。
それどころか女王を討伐した途端、周囲に跋扈していた邪神のほとんどが一部の例外を除いて、唐突にその活動の一切を停止させたのだ。
女王を倒せば、同時にその子供の邪神を討伐出来る。
ならば、各地に散らばる女王たちを生んだ個体、言うなれば祖母とも言える個体を討伐できれば――
邪神の侵攻に抗い反攻しながら人類は、祖母を探し、そして数え切れない犠牲の払ってついにその巣を突き止めることに成功した。
ここさえ潰すことが出来れば、戦争を終わらせることが出来る。
勝利を、明日を摑むことが出来る。
そんな人類の思いを双肩に乗せて、俺は大反攻作戦に従事したのだ。
だが、しかし。
「んー? 実を言うとね、あまり覚えてない」
どういうわけか、そんな重要な作戦であったのにも関わらず、俺はその時何をしたのか。
それをとんと覚えていなかった。
いや、全く覚えていないわけではない。
ある時点を過ぎてからある時点まで、さながら櫛の歯折れのように、その部分の記憶がごっそり抜け落ちてしまっているのだ。
「……そうか」
「唐突にどうしたの? そんなこと聞いて」
リトグラフを端とする美術の議論から、気付けば大反攻作戦の話に。
不自然な話題の飛躍、と言えよう。
だがら俺は問う。
どうしてそんなことを聞いてきたのか、と。
「……あー。あ、実はな。俺も、うん。ああ、俺も良く覚えてないんだ。だから、そうだ。そう。聞いてみたんだ。お前に」
しどろもどろになって、クロードはそう答えた。
俺も覚えていない。
だから、知りたくてウィリアムに聞いてみたのだ、と。
(相変わらず嘘が下手なようで)
そんなクロードの様子を見て口の中でそう呟いた。
馬鹿正直な性分が災いして、彼は嘘をつくのがとても苦手だ。
だから嘘をつく時は、決まってクロードはこんな風にしどろもどろな言葉遣いになる。
真実を覆い隠すための言葉を、あらかじめ考えていないからだろう。
喋ることと嘘を考えることを同時並行で処理せざるを得ず、口が思考に追いついてしまったが故に、言葉をすんなり出すことが出来ないのだ。
「そっか。嫌だねえ。お互いまだ若いのに物忘れがひどいなんて」
「そうだな。まだ、たった一年前の事なのにな」
だが、お前は嘘をついているな、と俺は指摘はしなかった。
それどころか、その嘘を肯定する頷きまでした。
ひとえにそれはクロードに対する信頼が故だ。
例え彼が嘘をついたとしても、その嘘は俺を貶めるためものではあるまい。
そんな確信があるからこそ、すんなりと流せることが出来るのだ。
それに誠実なクロードはきっと時を置けば、今日嘘で隠した何かを話してくれるはずだ。
だったら、無理に追及する必要なんて何処にもないだろう。
クロードが話したくなった時に話せばそれでいい。
もっと言えば話したくなる時が来なくとも、それはそれでいい。
それが戦友であり友人への、正しい接し方だと俺は確信している。
ポスターのそれに比べると、いささか動きのかたい女性がスケッチブック上でぎこちなく踊る。
写生はあと少しで終えることが出来そうだった。




