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エピローグ ある昼下がりのこと

 墓石の下に遺体や遺骨が入っていない墓は珍しくもない。

 その墓が百十年前から十年ほど前、いわゆる邪神戦争前後に建てられたのであればなおさらだ。

 特に軍人の墓はその傾向が顕著で、故人の代わりに愛用の品が墓石の下で眠っていたりするものだ。

 そうなった原因は、守るべき土地が邪神に攻め落とされたとき、軍人たちの亡骸を運ぶことなくその場に置いたまま、人類が逃げ続けてきたせいだ。

 だから、各国で行われている陥落地の復興事業。

 これの妨げになっているのが、地面を掘れば次々と出てくる遺骨の存在だと聞く。

 見つかるのは世界を守ろうとして、文字通り命を賭した英霊たちの骨。

 見なかったことにして埋め戻す、なんて死者を冒涜する真似なんて当然できず、発掘されるたびに棺が運び込まれて丁重に送るものだから、遅々として作業が進まないらしい。


 さらに問題は遺骨が発掘されたあとにも存在する。

 見つかった遺骨が、どこの誰のものであるのか、これがまるっきりわからないのだ。

 運良く故人の遺品が骨に引っかかったりしていればいいけれど、大体の例だとそんなものはなく、特定作業はもはやお手上げ。

 だからその地で戦死した全軍人の名前が刻まれた合同墓地を作って、身元不明の遺骨をひとところに葬るしかなくなってしまうのだ。


 無縁墓地のような葬り方に反感を持つ人も決して少なくはない。

 共感性に富んだ人なんかは、どんなに時間と金がかかってもいいから、必ずや見つかった遺骨を特定しろ、合同墓という手抜きの逃げ道を作るな、と言っているようだ。

 気持ちとしては、俺もその声は十分に理解できる。


 だが、それの実現は極めて難しいと言わざるを得ないだろう。

 なにせ、誇張抜きで遺骨は毎日毎日見つかるのだ。

 一つの遺骨にたっぷりと時間を割くと、調査待ちの遺骨がどんどんとたまっていってしまう。

 とある記事によると、一つ一つのケースに今の二倍以上の時間をかけてしまえば、身元特定事業の完了が最大半世紀までずれ込んでしまうとのことだ。


 時間も予算も無限にあるわけではない以上、どこかで線引きをせねばならない。

 現在は遺骨に個人特定を助ける遺品が見当たらない場合、そのまま合同墓で合葬という流れになっているようだ。


 興味深いのはこの方針に異を唱えるのは往々にして、その戦地で家族を失っていない人々である、ということだ。

 遺族の反応はむしろ、合同墓での合葬に好意的な傾向にあった。

 どうして彼らは合同墓に前向きなのか、その理由もまた、俺には痛いほどに理解できる。

 

「まあ、そうだよね。今までは墓参りしても、そこにその人は眠ってなかったわけだから。でも、合同墓ならそこに居るかもしれない、という希望を見いだせる。墓参りをするにあたって、この違いは大きい」


 誰かに語るような俺の台詞。

 けれども、誰かに返事をされるようなことはない。

 いくら神経を研ぎ澄ませようとも、だれかが首肯する気配すら感じ取れない。

 あの日と同じく、晩夏の晴れ空に俺の声が吸い込まれるだけ。


 そうなるのも、しかし当然だ。

 なにせ今この場には、生きた人間は俺一人しか居ないのだから。


 繁茂する下草、それらの頭上で風によってさわさわ揺れる枝、小鳥と虫の喉から発せられるノイズ――

 今や俺名義となった屋敷がある丘の麓。

 門に続く道から外れたところに居た。

 低木の群れをかき分けて少しのところに居た。


 そこには墓があった。

 石の墓。

 ひっそりとたたずむ、小さな墓。

 それが俺の語りかけの相手であった。


 その墓には名が刻まれていなかった。

 木漏れ日によって色の濃淡が生じている表面には、ただただ没年日が刻まれているのみ。


 端から見ればこれは不思議な墓だろう。

 その故人を悼む人が居るからこそ墓が建てられたというのに、名前が刻まれていないのだ。

 墓から得られる情報は、どうやらその年、その日に逝去した人間がいるらしい、ということのみ。


 その人が確かに生きた証を遺すために墓を建てるのであるならば、それだけの情報では不十分だ。

 誰が死んでしまったのか、という肝心要となる情報がまるっと抜け落ちているからだ。


 けれども、そうせざるを得なかった事情を俺は知っていた。

 とてもよく知っていた。

 なぜであるならば、この墓は俺が、いや俺と俺のパートナーが建てたものだから。


「そこに本当に眠っていない、って知っているとね。遺された人たちってのは、なんだか悲しくなってくるんだ。故人を見知らぬ場所で、ひとりぼっちで眠らせていることに、罪悪感を覚えるんだ。今だって、そうだ。それどころか俺は、君の名前さえ――」


 墓の下には誰も眠っていない。

 なぜならどこを探しても、その人の体が見つからなかったから。

 そして、墓に名は刻まれていない。

 ぐずぐずと泣きじゃくるほどに悲しんだにも関わらず、俺もアリスも、その人の名前を思い出せなかったから。


 つまりこの情報不足の墓は、そのまま俺たちが知っている、その人の個人情報すべてであった。

 あれだけ泣き悲しんだというのに。

 俺たちにはその日その人が死んでしまったことしか、わからなくなってしまったのである。

 己の情けなさが原因で、視線が地面へと吸い込まれる。

 


 あの日から十年も経ったというのに、そのときを思い出せば、悔しさがどくどくとあふれ出てくる。

 まるでナイフで手を深く切ったときと同じように。

 悔恨が決して癒合しない傷口から止めどなくあふれては流れ出る。


 ああ、ああ。

 どうして俺たちは。

 こんなに薄情なのだろう!

 そう叫びたい欲求に駆られる。


 深いところまで潜行してゆく自己嫌悪の螺旋階段。

 下りの第一歩を刻む寸前で、俺はなんとか思いとどまることに成功した。


 ふうと息を吐いて、面を上げて。

 再び大切な、けれども名前も顔も思い出せない誰かが眠っている墓に向かい直した。


 心配はいらない。

 きっと天高いところから俺を眺めているその人にそれを示すべく。

 俺は努めて笑顔を作った。


「いけない、いけない。つい感傷的になってしまったね。ここではネガティブなことは言わないって決めているのに。まったく、我ながら暗い性格で嫌になるよ」


 俺が穏やかに、そして健やかに過ごせていることを伝えれば、きっとその人は心配しなくなる。

 だから俺とアリスは、なにかいいことがあると、その日がたとえ雨であろうとも、その人にお土産を届けるべくこの場へと足を運んでいた。


 俺の流刑が恩赦されたときも、クロードが佐官に昇進したときも、ヘッセニアが研究者として大学に招集されたときも、レミィが国憲局の背広組となったときも、ファリクが石材商として軌道に乗ったときも。

 俺がアリスと一緒に一生を過ごしてゆくと決めたときも、そして……そんな彼女との間に娘がやってきたときも。

 そんなとびきりのハッピーがあったときは、例外なくここにきて、お土産話を披露した。


 今日だって、話の流れで奇妙な方向に向いてしまったけれど。

 日々のささやかな幸せを報告しようとやってきたのだ。


「今日はね。古い仲間たちが来るんだ。君もよく知っている、彼らが。なぜなら今日は君の命日だろうから。そのことを報告したかったんだ。今、アリスと娘が居ないのは、彼らを迎えに行っているから」


 今日は特別な日だ。

 世界にとっても、また俺たちにとっても。

 世界からすれば十年前の今日、この世界から邪神が本当の意味で絶滅した日だ。

 解放の日と称され、終戦記念日と並んで特別な休日として祝われる日。


 かたや俺たちにとっては、名前も忘れてしまったあの人を失った日。

 喪に服すべき日。

 けれども、その日は俺たちが最後の激戦を無事に生き延びた日であって。

 その意味ではやはり祝うべき日でもあるのだ。

 だから、せめてもの折衷案として、毎年この日はあの激戦が繰り広げられたこの丘で、馬鹿騒ぎをすることにしているのだ。


 あなたが亡くなったことは、いまだに引きずってはいるけれど、でも、日々を元気に生きられるくらいには折り合いがつくようになった。

 だから、心配することはない。

 それを示すための馬鹿騒ぎをこれからしようというのだ。 


「あさってには、面白い話を聞かせられると思う。みんな歳をとったからね。特に四十手前のクロードは最近酒に弱くなったみたいで……ふふふ、面白い失敗談が今日も生まれそうだなって期待してるんだ」


 どんな風に馬鹿になって、どんな風に笑い合ったか。

 本当はそれをすぐに報告したいけれど、大体において翌日にまで響く遊び方をする奴が現れてしまうのだ。

 毎年誰かしらを介抱しなくちゃならないので、大体一日開けてからの報告になりがちであった。


 去年はまさかの大穴でファリクが酒で失敗してしまったけれども。

 さて今年は誰がみっともない姿を晒すことだろうか。

 誰がそうなるにせよ笑える失敗が、今年もまた生まれそうで自然と口角が上がった。


 俺が笑ったその直後、少し強い風が吹いた。

 木々の葉っぱのみならず、枝々を、そして梢を大きくしならせる程度の風だ。


 その風に乗ってだろうか。

 遠くから声が聞こえてきた。


 ゾクリュの街へと続く道の方から声は聞こえてきた。

 聞き覚えのある声。

 幼い声。

 それは俺を呼ぶ声であった。


 俺譲りのくすんだ赤毛を持つ、どういうわけか成長するにつれ、見覚えのある姿になってゆく女の子――彼女が声の持ち主であった。


 それはアリスたちが帰ってきたことを示す声。

 愉快な仲間たちが、再びこの屋敷に戻ってきたことを告げる声。

 それを聞いたからには――


「それじゃあ。またね」


 名残惜しいけれど、ここはお暇しなければなるまい。

 なに、どうせあさってにはまたここに来て、これからはじまる愉快なひとときの総括をすることになるのだ。

 二回目の今生の別れ、となるわけではない。


 それに、今ここで別れたとて、いずれは俺もアリスも死後の世界でその人と再会することになるのだ。

 そのときはあの日、フィリップス大佐に諭されたように、この真の平穏が訪れた世界で手に入れた笑い話をたくさんしよう。


 今日の騒ぎをそのときの話題の一つとするために。

 俺は墓をあとにして。

 坂の麓にまで出て、娘をアリスを、そして仲間たちを待ち構えた。


 彼らはまだ、麓に来ていない。

 ゾクリュに続く道の上で、大きく手を振る人影たちがそれであろう。

 それを見た俺は、わずかに笑みを湛えて。

 彼らに負けないくらいに大きな動きで手を振り返した。


 それはあの真っ白な灰が降り注いだあの日にそっくりな、よく晴れた夏の昼下がりのことであった。


◇◇◇


 戦争があった。

 世界のほとんどを焦土と化し、文明を築いた者どもに、絶滅の二文字を連想させるほどに激しい戦争が。


 これはそんな戦争を生き抜いて、傷だらけになりながらも明日を手に入れた人たちの。

 ようやく手に入れた平穏な日々の一ページ。

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