第七章 三十九話 できるわけがないだろう!
鼻につくにおいがする。
丘に生える下草や低木の葉が立ち上らせる、みずみずしいほどの青臭さではない。
ただいまこの場で漂うのは鼻の、喉の粘膜を突き刺すかのように主張が強いにおいだ。
その正体は火薬が焼けたにおい。
硝煙のにおい。
銃を撃った証。
その源は俺の手の中にあった。
真っ黒な銃口から薄紫色の煙がたなびいていた。
ついさっきの発砲音がきっかけであったのだろう。
辺りは水を打ったような静けさに包まれていた。
だが、みな息を呑むのも無理からぬことというもの。
彼らの目の前で俺がしでかしたことは、それほどまでインパクトがあったのだ。
そう、誰だってその光景が目の前で繰り広げられれば、目を奪われるであろう。
大の男が拳銃を少女に向け、あまつさえ引き金を絞るワンシーンを見てしまえば。
誰であろうと言葉が奪われてしまうはずであろう。
たとえ、なぜそんな光景が産み出されてしまったのか、それを知っていたとしても。
そして、そんなどうして、を知っているからこそ、余計に言葉が出なくなってしまっているのだろう。
俺が撃たなければいけないその理由を知っているからこそ。
たった今、この俺が。
引き金を絞るその直前になって、その銃口を空に上げたことに、みな呆気にとられてしまったのだろう。
つまり俺はわざと外したのだ。
エリーを殺すために当てるはずであった弾を。
「ウィリアム?」
訝しげな声。
エリーの声。
彼女は言外に俺に問いかける。
なぜ?
どうして弾を外したのか? と。
そしてこの問いかけは、この坂道に漂う空気の色そのものでもあった。
どうして彼女を殺さなかったのか。
俺と、もう一人を除いたみんなは、やはり視線でそれを俺に問いかけていた。
「……できない」
だから俺は答える。
彼らとは違ってきちんと言語化する。
できない。
撃てない、と。
何故であるならば、俺は悟ってしまったからだ。
「……できない。撃てる。わけがない。だって」
鼻の奥が、喉の奥が、舌根が。
本来感じ得ないはずの強い塩味を捉えたと、俺の脳みそにやかましく報告してくる。
それらは言うまでもなく、俺の感情が溢れてしまったことを示唆する情報で。
事実、ただいま俺の視力は著しく低下中。
網膜が捉えるもののすべての輪郭、これがぼんやりとして見えてしまっていた。
塩味とぼやける視界。
これらが意味することとはたった一つ。
俺が、今もさめざめと泣くアリス同様に、涙を流している、ということだ。
「だって。理解ってしまったんだ。でも、俺はそれが奇妙だったから気がつかないようにしていたんだ……君が。俺の子供だってことを。見ないようにしてた」
そうだ。
彼女が屋敷に住むようになってから、俺とアリスはなにかとエリーに対して甘い態度を見せてきた。
その様はまるで親子のようだとも茶化された。
なぜ、俺とアリスがエリーにあんな態度をとったのか。
今ならその理由がわかる。
俺たちは本能的に悟ってしまっていたからだ。
その中身がどうであれ、エリーの身体には自分たちの血が流れていることを。
そしてその悟りこそが、俺がエリーを撃てなかった最大の原因でもあった。
「だから……だから出来ないんだよ。撃てないんだよ。俺とアリスは。君を撃てない」
「どうして?」
「そんなの! 決まっているじゃないか!」
大声で叫ぶ。
声が裏返るくらいに大きな声で叫ぶ。
得てしまった悟りを。
撃てなくなってしまった理由を。
喉を痛めるくらいに大きな声で叫ぶ。
「子供を撃とうとする親が! 殺そうとする親が! この世に居ていいはずがないだろう! 許されるわけがないだろう! できるわけがないだろう!」
親が子供を殺すなんて間違っている、と。
たとえ、産んだときの記憶がなく、親子の絆を育んでこなかった、奇天烈な縁にあっても。
それは絶対に許してはならぬ大罪なのだ、と、涙声になりつつも、声を大にして主張した。
俺の感情をむき出しにした大声。
それを受けてエリーは感じ入ることがあったのか。
まっすぐ俺とアリスを見ていた赤い両目が、一度まぶたで遮られる。
目はすぐには開かなかった。
まるでさっきの俺の言の葉の余韻、それを確かめるように、一拍、二拍とたっぷりと間をとったあと。
彼女はゆったりとした所作で目を開いた。
「……それが人類にとって良くない選択でも?」
「それでも、だよ。俺たちには……君の身体との関係性を感じ取ってしまった俺たちでは……もう手を下すことが」
エリーに落ち着いた声をかけられる。
対する俺の返事は声の高低、強弱が安定していない。
ぐずぐずとしゃくり上げるせいで、上手に話せなくなってしまったからだ。
そのせいでどちらが本当に年上か、それがてんでわからなくなってしまった。
年上年下の区別がつかなくなるような仕草を、ついでとばかりにエリーは見せる。
赤毛の少女はわずかにため息をつく。
その息の音にはほんの少しの呆れの色が含まれていた。
やれやれ、仕方がないなあ。
こう言いたげな音色が多分に含まれていた。
それは長男長女が弟や妹をあやすときによく聞く音色であった。
「そっか。それが貴方たちの本心からの選択なんだ。そうであるならば――」
不意にエリーの声色が変わる。
直前のため息とは合致しなくなってしまう。
この声調には呆れが少しも含まれていなかった。
今度のやつは、一連の会話のどこにその要素があったというのか。
今のエリーの声は、どこか寂しげであった。
一体なにに対して寂寥を抱いたのだろうか?
こぼれ落ちる涙を何とか律しようとしている中でも、抱いたわずかな疑問。
けれども、その訳を当の本人に聞く機会はにわかに奪われてしまった。
何故であるならば、エリーはまぶたを上げたときと同じく、ゆったりとした所作で右手を上げて。
ぱちんと良く響く音を残しながら、指を弾いてみせると。
その小気味がいい音に反応したのか。
これまでエリーに頭を垂れて、ずっと大人しくしていた獅子級の乙種、にわかに絶叫。
久方ぶりに聞いた気がする、害意に満ち満ちた咆哮がこの丘の麓に響き渡った。
その哮り声は俺たちの不意をまこと巧みに突いていた。
エリーの告白前ならば、すぐさま叫び声の主を特定し、しかるべき予防措置を取れていたというのに。
不意を突かれてしまった俺たちは咆哮に喫驚し、ほんの僅かな間、硬直してしまった。
俺たちが揃って固まってしまったのは、ほんの一瞬の出来事であっただろう。
瞬き一回するかどうかの、そんな一瞬。
けれども、相手は乙種だ。
戦場にて、乙種を相手にそれだけの隙を見せてしまったのならば。
手痛い大損害を受けるのは必定。
血が凍るほどの大失態とはまさにこのこと。
下手を打てば、誰かの血が流れかねない。
「不覚!? 気がすっかりと抜けてしまった! 不意を突かれた!」
元よりエリーを警戒していたからだろう。
この事態にもっとも早く対応できたのはレミィであった。
彼女は拳銃を振り向きざまに問題の乙種へと向ける。
だが、いち早く反応できたとは言っても、やはり彼女も不意を突かれてしまったのだ。
その対応も理想的なそれと比べると、幾段も動きが悪かった。
緩慢な動きのツケはすぐさま支払われることとなる。
レミィが再度凶暴化した獅子級乙種、これを撃つために狙いを定めるも、敵のご自慢の触手がぞわりと立ち上がる。
それは予備動作だ。
触手の先端から高圧の血液を飛ばすための。
このタイミングでは――
「間に合わない! 伏せて!」
――レミィの銃撃は間に合わない。
彼女が引き金を引いたと同時に、真っ赤な凶器は獅子級の身体から発射されてしまう。
このままぼうとしていればモロに被害を受けてしまう。
涙のせいで、いまだ声の調子は悪いけれども、俺はあらん限りの声を振り絞って警告する。
危ない!
伏せろ! と。
「――その必要はないよ」
しかしながら。
俺の冷や汗と涙が伴った警告を、聞き入れようとしない者が居た。
エリーだ。
ほとんどの者は俺の大声の通りに伏せて、この危機から逃れようとしているのに、エリーはかくにあらず。
一体彼女はなにを考えている!
あの乙種はエリーの制御から外れてしまったかもしれないというのに!
そんな中、あんなふうに突っ立っているなんて。
あれでは狙ってくれと言っているようなものだ!
俺は大きく息を吸う。
もう一度大声を出すために。
前回以上の声量で伏せろと叫ぶために。
肺の奥底にまで詰め込んだ空気が、塊となって、そして声になって口腔内にまで遡る――
その瞬間のことであった。
エリーと目があった。
彼女は微笑んでいた。
にっこりと。
こんな危急存亡の秋もいい状況なのに。
諦観したような顔で……いや、違う。
これは……納得、か?
彼女は納得しているのか?
一体なにに?
いや、現実逃避するのはよせ!
この状況であんな顔を浮かべているということは!
「馬鹿! ダメだ! いいから! 伏せろ!」
「これでいいんだよ。ウィリアム」
エリーはかぶりを振る。
拒絶する。
俺の懇願を。
やはり。
彼女の意図は!
嫌な予感が予感に終わらないことを知ってしまったそのとき。
獅子級乙種の触手がぶるりと震えた。
時を同じくして。
エリーの胸から血の華が咲いたところを、俺は見てしまった。




