第七章 三十八話 青空に銃声
まだ、時刻は昼と呼べるころであろう。
目を刺す陽光には赤みが足りなくて、まだまだ白色光と呼ぶべき代物。
けれども、着実に時は夕暮れへと向かい始めているのも事実だ。
その証拠に、低い木に両端を囲まれている坂道の空気は、少しずつその温度が下がり始めていた。
のんびりとお茶するには絶好のお日柄。
だが、俺の心はまったくまったりとはせず。
ぼうとした頭の感覚すらをも突き破る、激烈な感情を抱いてしまった。
「なにを……なにを言っているんだ! 君は! なにを馬鹿なことを!」
辺りから聞こえる、葉擦れのささやかな音をかき消すように。
天高くまでに届くのではないか、と思わせるほどの俺の大声が、この場に響いた。
怒声。
すなわち、俺が抱いた感情とは怒り。
何に対して俺は怒りを覚えたのか。
言うまでもなくそれは、エリーのあまりにロクでもない懇願に対してであった。
すべての責任を取るために。
自らの罪を雪ぐために。
殺して欲しい――
嘱託殺人。
赤毛の少女が俺に頼み込んだこととはそれ。
もちろん、俺はそれを受け入れる気はなかった。
俺の心は強烈な拒否反応を示してしまった。
「馬鹿なことじゃないよ。真面目なお願い。そして、このお願いは。この世界が平穏な未来を送るための、必要な犠牲でもあるんだ」
けれども、エリーは俺の怒声に答えた様子はこれっぽっちもなかった。
突然の怒鳴り声に、周りの大人たちは肩を震わせて、喫驚してしまったというのに。
モラトリアムに差し掛かる年頃にしか見えないエリーは、文字通り泰然としていた。
いや、それどころか、余裕すら持ち合わせていた。
声色といい、同情の色が多分に含まれた柔らかい眼光を俺に向けていることといい。
聞き分けのない子供を諭す大人が持つべき余裕を、エリーはたたえていた。
もちろんそれは、本来俺が持つべき余裕だ。
感情を揺さぶられたことをおくびに出さず、俺は希死願望に囚われたとしか思えないエリーを説得すべきだった。
だが、俺にそれはできなかった。
感情的になってしまった。
「もう、誰かの犠牲なんて必要ないんだ! まだまだこの世界には困難がたくさんあるけれど! それでも、犠牲を強いないと解決できない難問は! もうないんだ! 存在しないんだ! だから!」
「ううん。それは違うよ、ウィリアム。この世界は、いまだ危機に瀕したまま。その証拠もきちんとある」
「ない! そんなものは! そんな証拠は! 断じて――」
「その証拠というものは。私の存在そのもの」
そんな証拠は断じてない。あってたまるものか――
口から出そうとしたそれらの言葉は、あっけなく潰されてしまった。
だから俺はせめて目だけでもって、エリーに問いかける。
どうして君の存在自体が、世界が危機に瀕している証拠であるのか、と。
彼女は俺の無言の問いかけをきちんと受け取ったようだ。
エリーはゆったりとした口ぶりで答え始めた。
「さっきも言った通り、私が出した命令の効き目が、少しずつ弱くなってきている。そしてその弱体化は今もなお、進行している。今でこそ、この場に居る連中を制御出来ているけれど、いずれ出来なくなってしまう。だから」
「だから! 君を殺せっていうのか! それが理由になるというのか!」
「もちろんだよ」
頷きながらのエリーの一言に、俺は大きな衝撃を受けた。
なにしろ、幼さがまだまだ残るその顔には、恐怖した様子が見られなかったからだ。
真っ直ぐに俺を見据える瞳にも、迷いは少しも見いだせないのだ。
彼女は正真正銘、心の底から殺されたがっている。
いや、殺されなければならない義務感すら抱いているように見えた。
それを悟ってしまい、俺は戦慄した。
エリーのかたい決意によって。
濃厚になってしまった、俺が彼女を殺すという未来。
俺はそれを心の底から恐怖した。
エリーは俺が、物怖じしてしまったことを見逃さなかったようだ。
彼女の赤い目がぎらりと陰気に光ったような気がした。
自分の意思を、意見を、そして願望を押しつける絶好の機会とみたらしい。
彼女が殺されなくてはならない理由を、一気に、早口にまくし立てた。
「この状況を放っておけば、邪神は、この世界で新たな信徒を作ろうとする。私のときと同じく、世界を心から呪っている魂を見つけて、願いを叶えようとする。そうしたのならば……また、大きな戦争が起きてしまう」
そしてエリーは危機感を煽るために、時間がないんだ、と俺を急かす。
一応の終戦をつかみ、明るい兆しが見えつつあるこの世界が、再び血みどろの暗黒時代に後退してしまう、と脅してくる。
その文言はあまりに強烈すぎた。
はぐれた邪神どもを始末するのでさえ、今の人類にとってはあっぷあっぷなのだ。
辛うじて戦争を終わらせた今の人類に、もはや再び邪神と戦い続ける力なんて残されていない。
それをきちんと理解しているからこそ、俺の中の冷酷な面がこうささやくのだ。
もはや彼女の望みを聞き入れてやるべきではないのか、と。
けれども、俺の良心は力強く、冷たい意見を否定する。
大人が子供の犠牲を容認していいものか、と鋭く俺自身を糾弾する。
そんな極限の逡巡に見舞われようとも、エリーは俺を説き伏せるための口を止めようとしなかった。
「世界の悲劇を防ぐためには、私を殺すしかない。私が死ねば連中も今度こそ死に絶える。そうすれば、この世界は邪神の脅威から解放される。ハッピーエンドがもたらされる。それに――」
ちらと一瞬エリーの視線が俺から外れた。
罪悪感に満ち満ちた眼光で一瞬だけアリスを見て、そしてそれは俺へと戻る。
きっとそのとき抱いた罪の意識とやらは、とてつもなく強いのだろう。
彼女は一拍の間を置いて、きゅっと目を瞑った。
それは痛みに耐える人間が見せる顔によく似ていた。
「――子供の命を奪った大罪人は。その親に仇を討たれるべきなんだ。そうでないと。貴方たちがあまりにも報われなさ過ぎる」
心が痛む。
例えば彼女が、かのアーサー・ウォールデンのように救いようのない悪党であったのならば。
後悔だとか悔悟だとかをまるっきり覚えない人間であったのならば。
きっと、俺は人類のため、という免罪符を心置きなく使って、非情な決断を下せたというのに。
なんだって、エリーは。
こうまでも親しみを覚える人となりをしているのか!
これでは。
これでは!
彼女を殺さないで済む方法を必死になって探してしまう!
「――わかりました」
未練がましく、血が流れない方法を探している俺を尻目において、とうとう非情な決断を下してしまった人が現れた。
エリーの願いを聞き入れよう。
そう、囁く声が聞こえてしまった。
それを聞いて俺は、背中が粟立った。
だって、その声の持ち主が――
「アリス?!」
ずっと青い顔をして、呆然としてた。
アリスであったから。
「もう。そうするしか、ないのですね? 新たな大戦争を防ぐためには……貴女を。殺すしか」
「うん。そうだよ、アリス」
「……仇討ちが。貴女の殺害を正当化できる理由になるならば。貴女のその肉体が、私の子供であるならば……!」
やはりアリスの顔は、まだ血色がよくなかった。
けれども、その両眼はまったく顔色とは一致していなかった。
彼女の目はとても据わっていた。
エリー同様、決意の眼光を煌めかせていた。
これはまずい。
ほとんど瞬間的にそう思った。
なぜなら、このタイミングでこんな強い眼光を放つということは――
アリスが俺に代わって。
エリーを討とうと決意してしまったに他ならない。
事実その懸念は現実として表出する。
自衛手段として持たせていた、パーカッションリボルバー。
アリスはそれを両の手で握って。
かたかた、かたかた。
震える腕を必死に律して。
その黒鉄を、その銃口を。
静かに対面する赤毛の少女へと向けた。
「私にも、あるはずです。貴女を……殺す、権利が」
「アリス?! なにを! やめろ!」
俺はほとんどがなり声で言う。
やめてくれ、と。
それはやらないでくれ、と。
制止する。
けれどもアリスは頷かない。
それどころか、ふるふるとかぶりを振って否定する始末。
「いいえ。やめません。もし、ここで私がやらないと……ウィリアムさんが納得してしまったのならば……また。貴方が傷付いてしまう」
そして、彼女はこちらを一瞥もせずに言い放つ。
肩を震わせ、膝も笑わせながらも、エリーに狙いを定める。
「それは。それだけは。それを見るのは! もう、嫌だから!」
俺のために撃ってみせようと。
ほとんど涙声になりつつも、アリスは叫んで決意を表明した。
止めなくては。
彼女は今すぐにでも引き金を絞りかねない。
魔法の準備。
押し倒してでも、アリスを止めなくては。
地面を蹴るために、ぐっと足に力を込める。
だが、しかし。
アリスの強烈な決意とは裏腹に。
どうにも彼女の身体は、精神を裏切ってしまっているようであった。
あとは引き金に指をかけて、一息に絞ればエリーを殺せるというのに。
アリスの白くて細い指はそこにはなかった。
その人差し指は伸ばされていて、トリガーガードの外。
ぷるぷると細かく震えてはいるものの。
いくら待てども、ガードの内側に指が入り込もうとする気配がまったくなかった。
もう、魔力を足に込める必要はないだろう。
地面を蹴る必要もないだろう。
俺は静かに足を動かして。
アリスのそばに歩み寄る。
そっと、やさしく。
構えられた拳銃を取り上げた。
抵抗はほとんどなかった。
「……でも、どうして?」
「……アリス」
「どうして。撃てないの? どうして? どうして?」
その手に拳銃がなくなるや否や、アリスの膝は限界を迎える。
力がどうやっても入らなくなってしまったのだろう。
堪える素振り、一切見せずにアリスはぺたん。
地べたに腰を下ろしてしまった。
さめざめ、さめざめ。
彼女はぽたぽたと涙を落とす。
アリスが、泣いている。
誰が、泣かした?
そんなの決まっている。
俺だ。
俺が泣かした。
そして彼女の涙を見て、ようやく悟る。
もはや、俺の望む結末は実現のできない夢物語となってしまった。
この場に居る大勢にとって幸せな未来を手に入れるためには。
俺は俺が望まざることをしなくてはならないだろう。
仮に俺がここで頑迷にワガママを言い続けようとも、だ。
そのときは今みたいに、俺以外の誰かが覚悟を決めて、手を汚してしまうことだろう。
誰かが生涯癒えない傷を負ってしまうことだろう。
他でもない俺のせいで。
それを避けるためには――
「……エリー」
「なに? ウィリアム」
「もう、本当にそうするしか……ないのかい?」
「……うん。まごまごしていると。本当に邪神どもは新たな信徒を作るだろうから。新しいグランドマザーを作るだろうから。その前にやらないと」
「……そっか」
嫌々ながら。
覚悟を決める必要がある。
誰かが傷付くところは見たくはない。
癒えないトラウマを誰かに負わせたくない。
だから、俺は。
アリスから取り上げた拳銃を。
下唇を噛みながら。
その銃口をエリーへと向けた。
「中断。待て、撃つな、やめろ。ウィリアム。傷になる。一生モノの傷になる。お前が傷付く必要はない」
レミィの声。
制止を求める声。
さっきまでなにかとエリーを排除したがっていたのに、撃つなとはなんという急な翻意だろうか。
いや、違う。
彼女は翻意などしていない。
実際、レミィはこう名乗り出ているのだ。
私が代わりにエリーを撃つ、と。
たしかに、ずっと強硬な態度を示しているレミィならば、良心の呵責を大して覚えずに銃を撃てるのかもしれない。
そうしてくれるのならば、俺が受ける心の傷は、自分が手を下したときよりも浅く済むのかもしれない。
レミィに任せたくなる願望がない、と言えば嘘になる。
だってそっちの方が気が楽なのは違いないのだから。
けれども――
俺は銃を下げない。
たとえレミィの良心が傷付かなくても、彼女に人殺しの咎を背負わせるのは違いないのだ。
俺のワガママのために、彼女が罪人になる必要はないのだ。
それに真実はどうであれ、俺は流刑に処された身。
新しい罪を背負うなら、もうすでに背負っている人間の方がいい。
罪人は一人でも少ない方が、社会にとっては望ましい。
新たにレミィが罪人になる必要はない。
だから。
痛む良心を無視しなければ。
躊躇ってはならない。
さあ、罪を背負おう。
トリガーガードの内に指を滑り込ませる。
狙いを定める。
あとは。
引き金を絞るだけ。
「……許してくれとは言わない。でも、恨むなら。今度は世界じゃなくて。俺を、俺だけを恨んでくれ」
「恨まないよ。恨んだ結果がこれだから。私だって。もう、二度目はご免」
「そう……それじゃあ」
目はじっと一点を、エリーを見つめながら。
瞼を落としたくなる願望を必死に堪えながら。
俺は一気に、一息に。
引き金を絞った。
撃鉄が落ちる。
そして銃声が晩夏の青空に響いた。




