第七章 三十六話 恩返し
例の丘になだれ込むための準備はいよいよ最後の仕上げに入ったようだ。
それまで忙しなく陣のあちこちを這いずり回っていた兵らの動きが、ここにきてずいぶんと鈍化したのだ。
それは隊なり班なりに固まって、員数に欠けがないかを確かめるための最終点呼を行っているから起きたのだろう。
あと少しすればこの場を発ち、邪神が群がる丘へと踏み込む。
邪神と近接戦闘を繰り広げるようになる。
兵らもそれを重々承知しているのか。
陽光に照らされ、そのせいでうっすらと汗ばんだ各々の顔には、強い緊張感がみなぎっていた。
彼らの強ばった顔から、きっとスパイスにも似た成分がにじみ出ているのだろう。
幾門の砲が立ち並ぶその陣地には、ぴりりと刺激的な空気が停滞していた。
この現場で、最も位の高い軍人二人も、その空気に当てられたのか。
楽観とはとても無縁な渋っ面を揃って顔面に貼り付けていた。
今のナイジェルらを末端の兵が見れば、ああ、二人もきちんと緊張を抱いているのだな、と一種の親近感を抱くことだろう。
だが、真実はさにあらず。
二人の強面っぷりは、すぐそばにまで迫っている突撃が原因ではなかった。
「……では。ウィリアム・スウィンバーンの追放劇の真実、とは」
使われることはなくなった砲に、腕を組みながら背を預けたボリスは、だらしなく地面に胡座を欠いたナイジェルに語りかける。
確認するような口調。
事実、今のボリスはそれ以前に交わされた、ナイジェルとの会話の総括に入ろうとしていた。
「彼を人身御供の生け贄になることを防ぐために行われた、と?」
「うん。そう」
そしてナイジェルは認めた。
首肯とともに。
ボリスの総括が、きちんと正鵠を射ていたことを。
「……チ」
もはや日々の癖になってしまった感のある舌打ちを、ボリスはやはりわざとらしくしてみせる。
潜めた眉はますます近くなり、顔付きそのものもコーヒー豆をばりぼり囓ったかのような、いかにも苦味を感じさせるものとなる。
その様子から鑑みるにどうやらさきの総括は、そうであってくれるな、とボリスは願っていたようである。
そんな舌打ちとしかめっ面をぼんやりと眺めたナイジェルは、まあ、苦々しく思っても仕方がないな、と思った。
実際ナイジェルとて、陸軍省のあの一室で真実を聞かされたとき、珍しく声を荒げてかの老宰相に食ってかかったくらいなのだから。
かくしてそれまで、何かしらの言葉が交わされていた二人の間に、にわかに沈黙が訪れた。
重苦しい沈黙。
(まあ、そうだろうなあ。健全な軍人なら怒るか、嫌になるかの二択だろうなあ)
特にボリスは神経質なまでに生真面目な気性なのだ。
いい加減なナイジェルでさえ、飲み込むに難儀したこの事実を受け入れるのは、それなりの時間がかかるはずだろう――
居心地の悪い沈黙の中、太ももに肘を立てて頬杖をしているナイジェルは、うっすらとそう思った。
それほどまでに昨夜、宰相コンスタッドから聞かされた真実なるものは、受け入れがたいものであった。
なにせ、あれは――
「……フィリップス」
「うん?」
「貴君は。どのようにしてこの真実を受け入れた? 今、私の心の奥底には……王国軍人が抱いてはならぬ真っ黒な感情が湧き出して止まらない」
「ま、そうだろねえ。僕だって、そうだったさ。誰だってそうなるだろうさ」
ナイジェルとてきちんと気持ちに折り合いを付けられたわけではなかった。
その証拠に、昨夜のことを思い出すと――
ボリスほどではないとはいえ、ナイジェルの面持ちが、くしゃりと不機嫌な形に歪んだ。
そして、ふんと荒々しく息を吐き出して。
ナイジェルは一息に紡いだ。
「たった一人を救うために。しかも救えるかどうかは確証もないのに。そのために最悪街一つ消えてもいい、と言われちゃねえ。そりゃ僕だって怒るよ」
臣民の盾となり剣となれ、と叩き込まれた軍人からすれば。
一つの命を消費することで、無数の命を救うべし、とすり込まれた人間からすれば。
とてもではないが、一人のために一つの大きな街を存亡の危機に晒しても良い、という判断は受け入れられないはずだ。
クロード・プリムローズ大尉がもたらした報告は、どうにも信憑性があるらしい、と判断されたとき、王国の上層部はある可能性に戦慄したという。
恐怖の源泉は彼の報告の最後の部分、かの人身御供にあった。
ウィリアムが応じた人身御供によって、戦死してしまった独立精鋭遊撃分隊の面々はたしかに蘇った。
ここまでは、まだいい。
実のところ問題はなくはないが、無視しても構わないほどに些末。
だが、その代償たる生け贄を、グランドマザーは受け入れた形跡がない、というのは大問題であった。
もし、グランドマザーが後々彼の命を奪おうと決め込んでいたのならば、ウィリアムの存在は文字通り生ける爆弾へと変貌する。
例えば、彼が王都で戦後を過ごしたとしよう。
その日々の中で、エックスデイが来てしまったのならば。
王都に、王国の中心地にグランドマザーが現れてしまうはずだ。
乙種よりもずっと厄介な存在がそこに現れてしまえば、王国は大混乱に陥るだろう。
戦後なのに、邪神が原因で亡国となろう。
「一番簡単に対処するならば。それこそ、彼を刑殺してしまえばいい。そしてその遺体を、陥落地に置けば問題解決だ。グランドマザーが現れても被害は最小限に抑えられる」
「……ああ、そうだな。だが」
「そう。そうしなかった。あの爺さんたちは、ウィリアムさんを生かすことを選んだ。そして陥落地に流せばいいのに。わざわざゾクリュに流した」
「ますます解せんな。何故、かの陰険宰相は。そのような臣民に危機が及ぶ選択をしたのだろうか?」
「恩返しだってさ」
「は?」
恩返し。
それは思わぬ言葉だったのか。
ボリスは腕を組んだまま、ナイジェルの顔を見返した。
その表情には先ほどまでの苦々しさはまったくない。
ただただ驚いて、すっかり緩みきった顔をナイジェルへと向けていた。
そんな呆けたボリスの顔は、ナイジェルにわずかばかりの愉悦をもたらした。
ナイジェルはやはり胡座のまま、何度も何度も笑いで背中を震わせた。
話の流れは極めてシリアス。
そんな中急にゲラゲラ笑われてしまえば、文句の一つや二つを言いたくなるのが、人情というもの。
その例に漏れずボリスは緩んだ顔をすぐさま引き締めて、思い切り眉をひそめた。
「ああ、ごめん、ごめん。まあ、要するに、ね。ウィリアムさんが国のために、粉骨比類なき働きを見せてくれた恩。陛下がね、それを返せぬのは王家の恥だって、断固とした態度をとったらしいんだ」
「……だから。だからこの問題が解決するまで、偽りの流刑に処した、と? 流刑にも変わらず、気軽に出歩けるものにした、と?」
「そ。ま、何かあってもゾクリュは兵力を集中するのが容易、ってのも理由の一つらしいけど……でも、それ以上に。陛下は、なかなかに子供思いであられるのが、こうなった一番の原因らしいよ」
「と、言うと?」
「ウィリアムさんは、メアリー王女殿下のお気に入りだ。そんな人を殺してしまうのは。娘が可哀相で仕方がなかったんだってさ」
「……そんな理由のために。流刑に?」
「うん。ま、王女殿下は知らない話らしいんだけどさ」
万が一があっても、人的被害が生じ得ない陥落地ではなく、人口が密集するゾクリュに流した理由。
これがやむを得ないものであったり、あるいは深謀遠慮によるものかと思えば、なんてことはない。
人死にが生じ易いリスクを取った理由とは、ただただ王の私的でかつ感情的な理由であるという。
私的な理由を叶えるためには、人死にが生じても仕方がないという。
この真実は真面目な人間ほど、腹立たしく思えるものなのだろう。
現にその類いであるボリスは、強い怒りを覚えたようだ。
激しく深く息を吸って、吐いて、肩を大きく上下させて――彼は、それを面に出さないように精一杯の努力を重ねていた。
大きな呼吸を重ねて、何度目のことか。
ようやく音も、肩の動きも大人しくなり、静かに会話できる程度にボリスは落ち着いたようだ。
「……ああ、恐ろしい。口を開く度陛下への不敬極まる罵詈。これが自然に出てしまいそうになる」
「我慢してよね。貴君は僕の部下たちにずいぶんと嫌われているようだから。ご注進されちゃうよ?」
「……そういう貴君は。ずいぶんと落ち着いているな。まさか、貴君もさもありなん、と思っているのか? もしそうだとしたら。こう言わざるを得まい」
そう言うやボリスはふんと大きな鼻息。
皮肉な音色を多分に含んだ音を奏でたのちに。
やはり音色同様、皮肉たっぷりの表情でもって、言葉を紡いだ。
「この世界は。彼の者にとって、極めて優しい世界だ、とな」
「ははは。まあ、僕だって爆発したさ。キレちゃったさ。あの爺さん宰相にね、激しい口調で詰め寄ったさ。でも最後には毒気を抜かれちゃった」
皮肉を真っ正面から受け止めながらも、ナイジェルはかぶりをふって意思を表明。
いくらウィリアムとの間に友情が芽生えようとも、とても私的な理由で多くの臣民を死地に追い込むが如き真似を、彼は容認したつもりはない。
むしろ、激しい怒りすら覚えた、と明らかにした。
だが、今の彼は到底怒りを抱いているようには見えない。
いつも通りへらへらしているようにしか見えない。
事実、今の彼はボリスほどの怒りは覚えていない。
昨晩、陸軍大臣執務室にて宰相の口から飛び出た台詞のせいで、すっかりと怒気が拭われてしまったのだ。
そしてナイジェルの怒りを鎮火させた冷や水は、今度は若い大佐の口を介して、怒りを燻らせるボリスに向けて。
静かに、けれども勢いよく振りかけられた。
「宰相はこう言ったんだ。王が国を私してなにが悪い。それができるのが王権政治だってね」
「は、なんと傲慢な物言いか。流石は緊急事態をダシに立憲君主制から、実質的な王権政治へと時代を逆行させただけはある」
「僕もそれを聞いて、頭に血が上りきったんだけどね。でも」
その時を思い出せば、ナイジェルは自然と苦笑が出てしまった。
そんな顔を見て訝しんだボリスを尻目に、すっきりとしない笑みを口元にたたえたまま、ナイジェルはぼりぼりと頭をかきむしって。
「でも、次の瞬間にはこう言ったんだ」
彼らと自分。
その器の大きさがあまりにも違いすぎる、と痛感した一言を、ナイジェルは、今、この場で蘇らせた。
「もし、今の政体が気に入らないならば。法でも暴力でもいい。引きずり下ろしてみろってね。王政を終わらせ、立憲政治に戻すのであれば。臣民からの支持を得られるであろうってね」
「なっ」
「ホント、大物過ぎる爺さんたちだよねえ。まだまだ、僕では敵う気がしないよ」
宰相、コンスタット・ケンジットが言い放ったという言葉に、ボリスは面食らう。
抱いた衝撃はとてつもなく大きくて、そのせいで膝が笑ってしまったのか。
一瞬、ずるりと背を預けた砲から滑り落ちかけて、あわや尻餅をつきそうになる。
見る者が見れば、ボリスをなんと気が小さな男か、と罵るかもしれないが、ナイジェルはこれっぽっちもそうだとは思えなかった。
むしろ、そうなって然りの反応だな、と納得すらしていた。
なにしろ、あの時、コンスタットがナイジェルに言い放ったことは、とても気の強い挑発でしかないのだ。
気に入らないなら、私たちを倒してみろ。倒せるものなら、倒してみろ。
王と宰相を殺して、自分好みの未来を作って見せろ――
あの台詞は、そんな群雄割拠の時代の英雄めいた挑発であったのだ。
実質的にはどうであれ、暴力が憲法と法律で雁字搦めにされた時代に生まれた人間では、到底言えないし、受け答えられない挑発。
あの老人はこれを顔色一つ変えずに言い放ったのだ。
まともな感性を持つ軍人であればあるほど、肝を潰して当然だとナイジェルは確信していた。
ボリスがなんとか体勢を整えた頃合い、なんとも間がいいことか。
軍靴の音響かせ、この二人の大佐の下に歩み寄る者が現れた。
ゾクリュ守備隊に一、二を争う手練れである、オリバー・ディスペンサー軍曹だ。
オリバーは、もはや体の一部となった感すらあるレッドコートをたなびかせたのちに、堂に入った敬礼を二人に捧げた。
「フィリップス大佐。フィンチ大佐。準備、整いました。ご下知あらばいつでも進発可能です」
「ん、ごくろうさん。それじゃあ」
とうとう準備は整った。
ならば、やれやれ。
一仕事するか。
そう言いたげな気だるげな動作でもってナイジェルは立ち上がって。
「ぼちぼち行こうか。ウィリアムさんたちを助けに行こうか」
「はっ」
寝起きの者のように大きく伸びをしながらそう言った。




