第七章 三十五話 ウィリアムス
元は違う世界の住民。
そして邪神がこの世界に牙を剥くきっかけを作ったそもそもの元凶。
それが私である。
グランドマザーである、とエリーは言い放った。
現実離れした情報が次から次へと襲いかかってくるせいだろうか。
俺はそれを無感動に聞き入れた。
さっきまで抱いていた怒りも、訝しみも、そして悲しみも、一切抱いてはいなかった。
葉擦れの涼やかな音と駆け抜ける爽やかな風。
本来なら目を細めそうになるくらいに気持ちのいい風が吹こうとも、やはり俺は無感動のままだった。
きっと、俺の心は目まぐるしく変化する感情に疲れ切ってしまい、しばしサボタージュを決め込むことにしたのだろう。
おかげで胸の辺りも痛くならないし、イライラも覚えなくはなったはいいものの、しかし、これはその副作用なのだろうか。
どういうわけかは知らないが、頭がぼうとしていた。
「……魂は。異世界で生まれ育った?」
だからだろうか。
片眉を上げたヘッセニアがそう言って、なにかに気がついたことを示唆するも、彼女がなにに気がついたのか。
それがてんで掴めなかった。
今の俺にはヘッセニアの口ぶりでさえ、エリーのそれみたいにとても難解なものに聞こえた。
「もしかして、お嬢ちゃん。その肉体は。こっちの世界産、ということ?」
「うん。そう。さっきも言ったとおり、世界は異次元によって束ねられている。その異次元を移動するためには、肉体は邪魔だったの。だから魂だけにならなきゃいけなかった」
「逆に。移動した先の世界で活動するには。きちんとした肉体が、容れ物が必要になる? クロードが言うところの超グロいグランドマザーの姿は。貴女の容れ物の内の一つに過ぎなかったってこと?」
「その通り。もっとも、あの時の化け物そのものな体は、私自身で処理した。だから、もうこの世に存在してないけど」
「それを聞いて安心した。ところで。まだ聞きたいことあるんだけど?」
「いいよ」
「……貴女のその名前ってさ。向こうの世界から引き継いだもの?」
「……ううん。違う」
「……なるほど。じゃあ、もう一つ」
ヘッセニアの質問に答えるエリーは、答えるたびに言いづらさを強くさせているように見えた。
ヘッセニアはヘッセニアで、俺にはわからない、とても深刻な可能性に気が付いてしまったのか。
時を負うごとに灰色髪の戦友の口ぶりが、どんどんと重苦しくなっていった。
ヘッセニアはどんな不都合な可能性に気がついてしまったのだろうか。
素面の俺ならば、多分なんなくそれを察せただろうけれども、だ。
しかし、今の俺はかくの如しで残念無念。
ぼんやりとした今の脳では、とてもではないがヘッセニアの思考のトレース。
これがまったくもってできなかった。
ヘッセニアは一体、何に気がついたのだろうか?
全然、わからない。
「貴女のその名前は。貴女自身が付けたの?」
「いいえ。ヘッセニア、貴女の考える通り、だよ。そうすることが……私にできる弔いの形だって信じてるから」
「……そう。そうなんだ」
そう言うと、ヘッセニアは重々しいため息を吐き出した。
瞳孔が認めにくい灰色の瞳を伏して、そっと肩を落とす。
今のやり取りに失望してしまったからこその、このヘッセニアの反応だろうか。
いや、違う。失望ではない。
一瞬伏せていた灰色の瞳が、ゆったりとこちらに向けられてそれを悟った。
とても悲しそうで、哀れみに満ちた視線を、俺にそしてアリスにと順繰りに寄越してきた。
どんなに頭が鈍くなっても、この眼光がどんなものであるのかは気がつけた。
これは同情の視線だ。
ヘッセニアは明らかに俺に、アリスに同情していた。
いや、どうやら同情を寄越してきているのは、ヘッセニアだけではないようだ。
ファリクも、レミィも、ギルトベルトを筆頭とする無国籍亭の面々も、似たような目を俺たちへと向けていた。
もちろん、この場に居る全員がヘッセニアの境地に上れたわけではない。
呆けたままのクロードや、殿下、チェンバレン中尉ら親衛隊と、ソフィーたち守備隊も気がついていないようだ。
気がついていない者たちは、肩を寄せあいながらボソボソと語り合う。
一体、彼らはなにに気がついたのであろうか、と。
もちろん、俺もだ。
いまだ、彼女たちがなにに気がついたのか。
見当もつかない。
「……救いがないねえ。今のを否定してくれれば。貴女も、ウィリアムたちにも。ほんのりと救いがあった、というのに」
「でも……この名前じゃないと。ダメだったんだよ。せめてこうして存在を示さないと……それこそ本当に救いがなくなってしまうから」
「そうかも、しれないねえ。やれやれ。まったく、奇妙なひとときだよ」
また、ヘッセニアはため息をついた。
今度の息はどちらかというと軽口の類いか。
口元にはわずかに苦笑が浮かんでいるし、音にもやや軽薄さが含まれていた。
「お嬢ちゃんにグランドマザーだの、元異世界の人間だのと告白されるし。私は一回は殺されていたと言われるし。本来なら憎まなきゃいけないのに、その気がまったく起きないどころか、親近感を覚えるとは。本当に奇妙」
「親近感? どうして」
「さあ。私にもわからない。でも、私はお嬢ちゃんよりも年上だから。これくらいの遺恨くらい流せなくちゃあねえ」
ヘッセニアの言葉にはトゲというものがまったく見当たらなかった。
こう言うのはとても奇妙かもしれないが、自分を殺したことがある存在にあたる態度には到底思えなかった。
昨日までと同じく、姪おばの関係にも似た気安さをエリーに向けていた。
いや、昨日までと同じく、と表現するのは間違いかもしれない。
なぜなら、ヘッセニアはエリーがこの屋敷に住むと聞いたときから、彼女に対して過剰なまでの警戒心を抱いていたからだ。
だが、今の態度にはそれがまったくない。
恐らくヘッセニアが持っていたエリーへの不信感は、隠し事をしていることを本能的に悟っていたからなのだろう。
しかし信じるかどうかは別にして、エリーは秘め事をこうして白昼の下に晒した。
と、なれば彼女からすれば、かの少女は警戒する対象ではなくなったのであろう。
かくしてヘッセニアはこの場において、もっともエリーと親しい存在にまで上り詰めた。
「……それで? お嬢ちゃん。どうするの? これは二人に教えなきゃいけない事柄だよね? 言いにくいのならば……私が代わりに言おうか?」
「……ありがとう。でも。けじめは、自分で付けなきゃ」
「そう。なら、頑張りなさい」
ヘッセニアのエリーへの気遣い。
ついさきほど啖呵を切っていたとは思えないほどに、それは柔らかい声であった。
事実、魔族の戦友の一言は、異世界出身だと主張する少女にいい影響をもたらしたか。
エリーは伏し目がちで、涙のあとで汚れきってしまった面を上げて、真っ直ぐな視線で俺とアリスを見た。
「ウィリアム、アリス」
少女が俺とアリスを呼ぶ。
やはりこれから口にすることは、これまでと同じようにひどく言い辛く、また重たい代物なのだろう。
エリーは今日何度目かわからぬ深呼吸。
息を吸って。
吐く。
ゆっくりと。
息を吐き出して。
今度は迷いのない動きで。
口を動かした。
「私は、さっきこう言ったね。対価を奪ったって」
「うん」
「奪ったということは……つまり、誰かのものを私のものにしたということ。だから――」
対面する少女の喉が蠢く。
唾を飲み込む運動。
人が覚悟を決めるときに見せる動き。
「だから」
しかし、まだ覚悟が足りなかったか。
エリーはきゅっと目を瞑る。
数瞬の間が空いて。
赤毛の少女は目を開く。
再び露わになったその赤目には、躊躇いの気配、これがなくなっていた。
どうやら瞼の裏で上手にそれらを拭えたようだ。
それを見て俺も覚悟を決める。
なにせさっきからエリーが言い淀んだり、躊躇ったりすると、決まって俺の心に強烈な爪痕を残してくるのだ。
おそらく今回も動揺は避けられまい。
なら、せめて。
せめて、動揺の気配を外に漏らさぬように。
努めて素面を作り続けないとな、と気張った。
「今、この場でエリー・ウィリアムスと名乗っているこの体は。この体の基は。私が奪った……貴方たちの子供、なんだ」
……大丈夫。
思ったよりは、ショックを受けなかった。
めまいは、起きない。
アリスも似たような感じ。
ショッキングな告白への耐性がついてしまったのだろうか。
でも、やっぱりそれはヘビィな話題には違いなくて。
ほとんど不随意に、口が、舌が動く。
「……なんなんだい?」
「うん?」
「君は。なにが、目的なんだい?」
君の目的はいかに、と。
邪神、エリー、最終戦闘の真相は大雑把ながら知ることができた。
でも、肝心要の部分が見えてこなかった。
なにが目的で、彼女はゾクリュにまでやってきたのか?
そしてどうして俺に接触しにきたのか。
これがてんで見えてこなかった。
エリーは答える。
やはり言葉が足りない台詞でもって。
「私はね。終わらせに来たんだよ」
「終わらせに?」
エリーは頷いて。
そしてちょっとだけ深く息を吸って。
一息にこう答えた。
「私も終わらせたいんだ。私の怨嗟によって産んでしまった。百年も続いてきたこの血みどろの歴史を。そのために……私は来たんだ」
百年戦争の真の終止符。
それを打つことが私の目的だ、と。
戦争のそもそもの原因である者の責任を。
果たすためにここにやってきたのだ、と。
エリーは平坦な声でそう言った。




