第七章 三十四話 エゴが生んだもの
その瞬間思考が止まった。
エリーがそうだと認めた瞬間、本当に頭が真っ白になった。
今、自分がどのような顔をしているのか。
その把握すらできないほどに、思考能力が奪われた。
……今、エリーはなんと言った?
願いの対価としてなにを奪ったと言っていた?
子供?
誰の?
俺の?
アリスの?
俺たちの?
わけがわからない。
本能も理性も、エリーが語ったことを真実と認めたくないのか。
考えが一向にまとまらないし、ぐちゃぐちゃのまま。
混乱。
俺とアリスはただいま大混乱中。
「……あー、お嬢ちゃん。啖呵切った手前、なに奇妙なことを言ってんだ、って思うかもだけどさ。まずは、落ち着きなよ。ね? こっちもまだまだ聞きたいことあるんだしさ」
だからヘッセニアの声を聞いてようやく気がついた。
平静を失っているのは、なにも俺とアリスだけの話ではない、と。
発言によって、俺とアリスの冷静さを奪った当の本人であるエリーもまた、常ならざる様子。
堰を切ったように止めどなく涙が溢れ、何度も何度もしゃくり上げ、もう二足では立っていられぬとばかりにしゃがみ込んでいた。
小さくか細い声で、何度も何度も謝罪の言葉をひたすらに紡ぎ続けていた。
彼女もまた、悲しい激情に駆られているようであった。
その姿を見て、俺は少しばかり冷静さを取り戻す。
中身はそうとは限らないけれど、エリーの見た目は十四、五の少女なのだ。
そんな子がぐずぐずと泣いているのに、俺はヘッセニアが言うまでそれに気がつかなかった。
自分のことに精一杯で、少女の涕泣に気がつかなかったなんて。
余裕を持って然りの大人として、こんなにも恥ずかしいことはあるまい。
しかしその恥は思わぬ効能があった。
インパクトのある告白によって奪われてしまった思考能力、これが戻ってきたのである。
おかげで、エリーの発言を自分なりに噛み砕く余裕が生まれた。
本来クロードしか覚えていない最奥部での出来事を知っているというのは、多分本当だろう。
クロードが冷静さを失ったままなのがその証明だ。
もし、エリーの言うところが嘘っぱちであったのならば、彼はたちまち落ち着きを取り戻して、生じた矛盾を指摘するはず。
それがなかった、ということは、大筋においてエリーの表明は真実なのであろう。
とは言え、である。
エリーの告解めいた告白に肝を潰して、頭が真っ白になってしまったけれど、彼女のあれには、いまいち飲み込めない部分が多々あるのも事実だ。
さきほど戦端が開かれるのでは、と思うほどにこちらの殺気が高まってしまったように、この話題は極めて繊細な代物だ。
早合点や解釈違いのせいで、一気に極端な状況に流れかねない。
それを防ぐためにも、早めに疑問を解消する必要があろう。
さきの衝撃的な告白は一度忘れて、落ち着いた口調を作って、エリーに質問することにした。
「エリー。質問しても大丈夫かな?」
「……怒らないの?」
「ん?」
「私を、怒らないの? 憎まないの? とってもひどいことをしたのに」
「正直に言うと、わからない。怒るべきか憎むべきか、それとも許すべきか、それすらも。なにせ、やっぱり君の言うところはあまりに嘘っぽいからね。だから――」
「だから?」
「その判断基準が欲しいな。だから聞きたいことがあるんだ。もしかしたら、核心的なものかもしれないけれど……いいかな?」
「……どうぞ」
ヘッセニアの言の影響かどうかは定かではないが、エリーはなんとか受け答えるできる程度には落ち着いたようだ。
しゃくりあげつつも、たどたどしくも、質問に答える意思を見せた。
「君の正体、なんだけどさ。結局なんなんだい?」
「言ったでしょう? 私は、あなたたちが言うところのグランドマザーだって」
「あー、いや。そういうことじゃなくて。うん、聞き方が悪かったな」
期待した答えが返ってこなかった。
しかしそれはエリーのせいではない。
俺が上手に聞きたいことを質問にできなかったせいだ。
ならば、さて。
どのような質問をすべきか。
台詞を考える。
「……そうだね。君たちの正体と言えばいいのかな。それがいまいちわからなくて」
「邪神とはどのような存在か、ということ?」
「そう。その通り」
俺は首肯する。
そもそも邪神とはなにものか。
全人類が知りたくてやまないそれが、エリーの告白ではうかがい知れることができなかった。
もし、本当に彼女が邪神の親玉であるならば、これを淀みなく答えられるはずだろう。
そしてこの質問にスムースに答えられるか否かによって、彼女の吐露の信憑性がずいぶんと変わってくる。
すらすらと答えられたのならば、エリーは本当に嘘偽りなく真実を語っていたという証明になる。
だが、幾度も言葉がつっかえたり、考える素振りを何度も何度も見せたのならば――
それはどこかに嘘が混ぜられていたという証明になりうる。
真実をベースにしつつ嘘を織り交ぜると、往々にしてその二つの間に矛盾が生まれるもの。
言葉が途切れ途切れになるというのは、話しながらその矛盾を埋め立てるべく、新たな偽りを創造しているに他ならない。
結果、より話からスムースさが奪われる。
だから俺は真っ直ぐにエリーを見据えながら問う。
彼女が偽りを語るか否かを見定める。
未練がましくも、できれば矛盾が生じてくれ、と願いながら。
彼女の仕草、一つも見逃さぬように瞬きすらも我慢した。
さて、問題のエリーの様子は。
少なくとも動揺の気配は一切見せなかった。
相も変わらずしゃがんだまま、目を伏してこっちを見ようともしないで。
やっぱりぼそぼそとした声で語り始めた。
「……邪神はね。神様、なんだよ」
「……はい? 神様?」
「そう。でも、この世界の神様ではないの。こことは別の世界に存在していた……けれどもそこでは、ほとんど忘れられていて瀕死となっていた神様」
「別の世界? 忘れられていて瀕死……? ちょ、ちょっとまった。答えてくれるのはありがたいけど……その、なんというか」
小声なれど、エリーの口ぶりはとてもスムースなものであった。
だからきっと嘘は言っていないのだと思う。
けれども、それによって俺の疑問が綺麗に解消されたわけではない。
むしろ新たに現れた強烈で、それでいて謎めいたワードに頭を悩ますばかり。
神?
別の世界?
神が死ぬ?
まったくもってわけがわからない。
それらのインパクトはとても大きくて、エリーの不自然な素振りを見逃すまい、としていた俺がしどろもどろしてしまう始末。
新種の正体不明ワードの身元を、どのように明らかにしてやるべきか。
そのための文言が上手に浮かんでこない。
だから言葉が頻繁に途切れる。
皮肉なことに俺が見逃すまい、としてた嘘の兆候は、嘘を吐くつもりはないのに俺自身が見せてしまっていた。
「……狂気。そうとしか思えないな。アドバイスをするのならば、もうちょっと現実味がある方が人を騙せる。と、言いたいのだが……」
どうにも俺よりもレミィの方が冷静であったようだ。
多分にトゲと呆れが目立つ口ぶりでもって、彼女はエリーに言い放つ。
とってもストレートにシンプルに、たった今語ったことは狂人のそれである、と。
狂人呼ばわりされてしまったエリーであるが、特に新しい反応を見せることはなかった。
相も変わらずしゃがんだままで、ぐずぐずと洟を啜るだけであった。
「世界はね。一つだけじゃないんだ。いくつも同時に存在しているんだ」
「はい? 同時に?」
「そう。同時。そうだね。喩えるなら……夜空の輝く星々、みたいなものかな?」
正体不明ワードに解説が必要であるとは、エリーも重々承知していたらしい。
さっきよりも、また少しだけ落ち着きを取り戻した口ぶりで、説明を開始するのだけれども、これがまた哲学的というか難解。
世界が星空?
はて。
いまいちピンとこなかった。
困惑はますます強くなっていく。
今の俺の頭上には、たくさんのはてなが浮かんでいるはずだ。
エリーは伏し目がち故に、それが見えないのか。
難解なままの解説を続けた。
「星空は一つ一つの星を、夜闇が包み込んでいる。これは世界も同じことなの。星が世界で、夜闇が異次元なの。だから、それぞれ違う性格をもった世界が、現在進行形で同時に存在しているの」
「よく解らないけれど、例えば……邪神が現れてしまったこの世界と、現れなかった世界。この二つが存在しているってこと? 俺たちが観測できないだけで」
どうやら俺の大雑把な解釈はあっているようだ。
エリーは俯いたまま、静かに肯んじた。
「邪神はね。その正体はね。この世界からは観測できない世界での神、なの。神は生物に似た存在。人々の信仰を食べることで、命脈を繋いでる……そんな存在なんだ」
「まって。君はさっき、邪神とは瀕死になっていた神々、って言っていたね? つまり、邪神は――」
「メジャーな宗教に駆逐されたり、あるいは科学技術に取って代わられたり。とにかく様々な理由で信徒を失い、忘れられるのを待つだけであった神々……それが邪神」
……やっぱり話はとても複雑だ。
一旦、整理しよう。
まず、どうにも世界は複数同時に存在しているらしい、ということ。
そして憎き邪神とは、実は観測できない別世界に存在していた神。
神は人々の信仰がエネルギー源であり、邪神は信仰を失い滅びるのを待つ存在で――
「な、なんだか頭が痛くなってくる話ですな……」
「出版社に持ち込んだら、買ってくれそうだねー。当たれば、いい暮らし。できるかもよ?」
頭を抱えながらのファリクの感想は、まさに俺の代弁であった。
事実、心なしか少しくらくらしてきてる。
そして、俺よりも頭のいいヘッセニアでさえ、理解するのに苦しんでいる節があった。
肩をすくめながらの軽口には、熟慮している気配、これがまったく感じられないのだ。
半ば理解するのを諦めてしまっている風でさえあった。
「あの……それだと……」
たまげてしまっているクロードを除けば、もっともインテリであるヘッセニアが、理解を放棄したのだ。
ちょっとやそっとの理解力では太刀打ちできない話に、真っ向から挑まんとしている者が居た。
鈴を転がすような声。
アリスだ。
さきほどの現実感は皆無なれど、残酷極まりない告白から、いまいち立ち直れていないのか。
アリスの顔は依然として真っ青のままであったけれども、おずおずとした様子であったけれども。
未だ存在し続ける疑問点を解決しようと、エリーに質問を投げかけようとしていた。
「どうして邪神がこの世界に襲いかかってきたのか。それが……全然」
「簡単だよ。邪神にとってそれが唯一の生存の道だったから」
アリスと同じくらいに顔色が優れないエリーの返答は、ほとんど即答に近かった。
これまでの話に比べると、難しい話ではないのか、あるいは一等深く理解できているからか。
かの即答は、今までで一番滑らかな口の動き方であった。
「邪神は、異世界の忘れられた神々は。彼らにとって最後の信徒。その願い事を叶えようとしたんだ」
「どんな願い、ですか?」
「世界を心の底から憎んでいたその信徒は、自らが死ぬ寸前になって、こう願ったの。いかなる神でもいい。我が願いを聞いたのならば、叶えたまえ。世界を、人類を。滅ぼしたまえってね」
「それを実行しようと? 人類を滅ぼそうとしたのですか? その世界の」
「そうよ、アリス。でもね、問題があったの」
「問題?」
思わず口を挟んでしまった俺の疑問形の声に、エリーは小さく頷いた。
「その世界の人類はね。あまりにも強すぎたんだ。仮に化けて出たとしても……あっさりと返り討ちにあってしまう。それほどまでに人類が力を付けていた世界なの。だから……」
「滅ぼしやすい程度には人類が弱い、この世界が選ばれた、と」
「……うん」
「……エゴ。じゃないか」
再びのエリーの首肯。
それを見た途端、彼女の告白を聞いて以来では始めての感情が、俺の心に湧き出した。
感情の温度は高い。
炎のようであった。
その熱気にあてられて、血液の温度も上がっていき、その熱い血潮が血管を通って、頭の天辺まで回ったとき。
激情は、怒りは。
逃げ場を求めて、俺の口にわっと殺到した。
自分自身のために誰かの命を消費するなんて!
間違っている!
「エゴじゃないか! 最後の信徒といい、邪神といい! 自分自身のために! 自分が生まれた世界を滅ぼそうとしたのか! でもそれができないから! 手ごろな世界を選んだのか! 俺たちは、俺たちは! そんなことのために! たくさん殺されてきたのか!」
「私だって! こうなるとは思わなかったんだ! 私の今際を見ていた存在が居たなんて! 神という存在が実在したなんて! 知りもしなかったんだ! 私だって……こんなのは! こんなのは!!」
「……待って。私の今際? それって……」
だが、俺の憤怒は長くは続かなかった。
思わぬ方向から冷や水をぶっかけられて、怒りはにわかに鎮火されてしまった。
今際。
私の。
逆上に近い激しい口調で、エリーはたしかにそう言った。
それはつまり、エリーの正体とは、彼女が言っていたところの――
「そう。それが私の正体。私は。この私の魂は。異世界で生まれ、育ち、そして殺されてしまった――」
涙と鼻水でどろどろに汚れてしまった顔を、力なく歪めてエリーは作り上げる。
自嘲の笑みを。
そして自虐の色濃い表情を保ったまま、こう言った。
「――邪神の。唯一の信徒、よ」
私が、私こそが。
あまりにもエゴに満ちた願いを抱いてしまった。
そして百年に及ぶ血みどろな歴史の。
そもそもの元凶である、と。
エリーは認めてしまった。




