第七章 三十三話 重ねられる謝罪
みんなを止めなくては。
みんなとエリーの間に割って入らねば。
そう思って足に力を入れた、それとほぼ同時のことだった。
相まみえる形で静かに佇んでいたエリーが微笑んだのは。
幸か不幸か。
少なくともその微笑に、敵意や悪意は感じ取れなかった。
「安心して。そのつもりはないから。取り立てに来たのではない。こいつらがここに集まったのは別の理由だから。あなたのせいでは、ない」
「なら、安心した」
俺のその一言は心からのものであった。
どうにも邪神たちは俺の命を狙いにやってきたのではないらしいし、向こうもやはり敵対する意思はないらしい。
啖呵を切ったはいいものの、俺の戦友たちも内心では出来れば戦いたくはなかったようだ。
殺伐とした気配はすっかりと消え失せて、安堵の雰囲気、にわかに空気中へと滲みはじめた。
彼らもきちんと自覚があったのだろう。
勝ち目の薄い戦いであったことを。
ひとまずは悪い事態を避けることができた。
一安心だ。
ぴんと張り詰めていた空気は弛緩した。
けれども、気が抜けたのはどうやら人類の方だけであったようだ。
相対するエリーはというと、なんだか顔色が優れていなかった。
体調不良とか病気とかが原因の青ざめ方ではないように見えた。
どちらかというと、これは精神が由来の方。
大目玉必定な大失敗をやらかしてしまった時みたいな感じ。
その推察はどうやら誤ったものではなさそうだ。
エリーははくり、はくり。
陸に打ち上げられた魚よろしくに、何度も何度も空を噛み砕いた。
声を上げるか上げまいか、それを思い悩んでいるように見えた。
「……それに。それに……もう、私は。ちゃんと対価はもらっている」
「……? でも。俺は。まだ……」
ようやく覚悟を決めたか。
小さく、蚊が囁くかのような声でぽそり、エリーは呟いた。
もう対価をもらっていると。
しかし、それは奇妙な言い分であった。
人身御供の対価は人命。
この場合は俺の命、ということになる。
本来彼女が対価を得た、という状況は俺がエリーの血肉と成り果てていることを意味しているはず。
ところがどっこい俺はここに居る。
ここにこうして生きている。
だから、エリーが対価を得たはずがないのだ。
けれども、エリーが嘘を言っているようにも見えない。
なにせエリーはさっきまで、何度も何度も言うか言うまいか迷っていたのだ。
嘘を言うならさっさと吐いていたはずで、葛藤なんて抱くこともあるまい。
まず、真実と見ていいだろう。
しかしそれでは、対価を得たのならばどうして俺が生きているのか、という疑問が解消できないわけで――
思考は堂々巡りに。
自力で答えにたどり着けなくなってしまった。
だが、そんな不毛な思考の循環は唐突に終わりを告げた。
これまでの文脈からはあまりにも飛躍したエリーの発言でもって。
「ウィリアム。アリス。戦争中、あなたたちは子供を欲しがっていたよね?」
「……は?」
声が重なる。
俺とアリスの声が。
疑問の音が零れ出る。
ついでに表情も一致する。
ぽかんと呆けに呆けた、だらしのない顔に二人揃ってなってしまった。
……いやいや。
はい?
いや、たしかに……それは、その。
思わず感情が高ぶって、たしかにそのようなことをアリスに言ったのは事実だけれども……
なんだって今、このときにそんなことを表明するのだろうか!
顔が紅潮する。
いや、だってそうじゃないか。
その、子供を欲しがった事実があった、と暴露されてしまったのならば!
それはつまり、行為があった、と暴露されているのに等しくて……!
「実際、休暇を作って、なかなか素敵な静養地に逃げ込んで。何発かおキメになられましたよね?」
「んなななな! な、なにを急に?! なんでそれを?! エリーさんがご存じに?!」
追撃、来る。
アリスも慌てふためく。
と、言うか、たしかにアリスの言うとおりで、なんで彼女はこんなことを知っているのだろう。
あの夜のことは、俺とアリスと。
あとはあの宿を手配した殿下がうっすらと知っているだけ……で?
いや、まて?
殿下?
はたと嫌な予感が脳裏によぎる。
多分、アリスも似た予感を抱いたのか。
示し合わせたわけでもないのに、俺とアリスは顔を見合わせて。
そして。
ぐるり。
勢いよく振り返り、我らが敬愛すべき王女殿下を見た、いや、睨んだ。
殿下はと言うと――
露骨に目を逸らして、下手くそな口笛を吹いて知らんぷり。
……ビンゴ。
雨漏り箇所を発見した。
後々不敬にならない程度の報復をしてやる必要があるだろう。
たまには王族も痛い目をみる必要があると思うんだ。
「な、なにを仰っているんだい? あの、その。こんなシリアスな場に急にそんなセンシティブなネタをぶっ込むのは……脱力、してしまうというか、なんというか」
「……きわどいジョークなんかじゃないよ」
温度差。
今のやり取りでは、俺たちとエリーとの間にとてつもないほどの温度差があった。
それはもう真冬の雪山と、常夏の南の島くらいの温度差であった。
顔を真っ赤にして慌てふためく俺たちを尻目に、エリーの態度はとても落ち着いていた。
いや、落ち着きすぎていた。
ただいまの否定の台詞も、なんだかもごもごとした口調。
ひどく言い辛そうな様子であった。
明らかにエリーのテンションは地の底にまで落ちてしまっている。
常の彼女であるならば、すぐさま茶化してきそうな話題なのに。
尋常ならざるエリーの様子。
そのお陰と言うべきか、そのせいと言うべきか。
俺は少しずつ冷静さを取り戻していった。
恥じらいも薄れていった。
「エリー? どうかしたの?」
「……ウィリアム。あなたはね。あのとき私にこう言ったんだ。俺の命でも、俺の大事なものでもなんでもいい、くれてやるって。だからアリスを、皆を。俺から奪わないでくれって」
「……記憶にないけど。うん。多分、きっと。俺ならそう言ってもおかしくはない、かな?」
「……だからね。私は。対価として実際に奪ったんだ」
「一体、なにを? 少なくとも俺は、五体満足だけど?」
「ウィリアム。アリス。こう言っても許されないのはわかっているけれど――」
エリーの急降下するテンションは留まるところを知らない。
声は相も変わらずどんどんと小さくなるし、それどころか洟を啜る音すら聞こえてきた。
明確なる落涙の気配。
それは急な出来事。
訝しみがすっかり羞恥を駆逐した頃合い。
あるいは彼女の急な涙に肝を潰したその刹那。
エリーは、目を伏したままで、ちっとも目を合わせようとしなかったけれど。
落涙の時とまったく同じように、なにも前触れもなく。
ぺこり。
俺とアリスに頭を垂れた。
「二人とも……ごめんなさい」
「エリー?」
「私が奪ったのはね。あなたたちにとって、とても大事なものだった。とても大事になるはずだったんだ。あなたたちの未来そのものであった。それを私は……奪ったんだよ」
突然の謝罪。
けれども彼女の言い回しはとても回りくどい。
子供がイタズラを白状するときの様子に似ていた。
謝らなくちゃいけないけれど、でも、大人のカミナリをもらうことに怯えてしまい、はっきりと白状できない――こんな感じ。
そのせいで俺はいまいちつかめなかった。
一体エリーはなにを謝っているのかを。
てんでわからず、小首を傾げる。
同じく謝罪されたアリスを見る。
アリスと視線が交錯。
どうやら、アリスも俺と同じ気持ちでいるらしい。
その綺麗な瞳には得心の色、欠片も見いだせず。
やはり彼女もエリーの謝罪の真意をつかむことができなかったようだ。
俺とアリスが小首を傾げあう様子を見てか。
もう先延ばしにはできぬ。
いよいよ核心を語らねば。
エリーはそう決意したことをうかがわせる深呼吸を、静かに、けれども大きくしたのちに。
ずっと俺たちから逸らしてきた弱々しくて、やはり謝意に満ちた眼光を。
ようやくこちらへと寄越して。
彼女はもう一度頭を下げて謝罪した。
「ごめんね。あの時はね。あなたたちは六人じゃなかったんだよ。厳密に言えば、七人だったんだよ。」
「うん? どういうこと? 六人じゃなかったって? 七人だったって?」
「二人分だったんだ。あの時のアリスが持っていた命は」
「二人……分……? ちょっとまって、それって」
血が凍る。
まだぎりぎり晩夏といえる季節なのに。
背中がひんやりと冷たくなってしまった。
二人分の命。
アリスが持っていたという。
そして、ただの下ネタであったとしか思えなかった、さきの発言。
これを合わせたとき――
ある可能性が浮上する。
血の気が頭から引き切るような、飛びきり最悪な可能性を。
アリスも俺と同じ結論に至ったか。
顔の血色は悪化の一途を辿り、あっというまに病的な白さとなった。
かたかた、かたかた。
彼女の体は小さく震えているようにも見えた。
きっとその震えは、絶望が体に作用しているからこそのものだろう。
俺は願う。
そうであってくれるなと。
俺の考えすぎであってくれ、と。
だって、あまりにも悲しすぎるから。
救いが少なくなってしまうから。
だから。
頼むからその最悪の可能性であってくれるな、と。
けれども――
俺のそんな心中を読み取ったとしか思えないタイミングで。
エリーはふるふる。
かぶりを振って。
「そう、その通りなんだよ。私は……まだ名もなく、気がつかれていなかった命を――」
肯定して。
震える声を一旦打ち切って。
俺とアリスにとっては、救いのない締めくくりに入った。
「――奪ってしまったんだ。あなたたちの。あなたたちですら気がついていなかった子供を。対価として」
件の可能性が。
可能性ではなくて真実であったことを。
エリーは認めてしまった。
すなわち、彼女が奪い取った対価とは。
あのとき。
情けなく、泣いてまで望んでいた者であった、と。




