第七章 三十二話 責任の取り方
急がねばならない。
急いで逃げなければならない。
そうでないと砲弾が空から降り注いでくる。
丘と一緒に耕されてしまう。
そのはずなのに、俺の足ときたら動こうとしなかった。
まるで地面に根を下ろしてしまったかのようだった。
ただいま俺たちは丘の麓のすぐそばにまで来ている。
数歩を刻めば、坂道から解放されて街へと続く道に出られるところまで来ている。
文字通りあと一歩で拘束砲撃から逃れることができる。
生を繋ぐことができる。
そうだというのに、まるで死にたがっているかのように、俺の足はぴくりとも動こうとしなかった。
足が止まってしまったのは俺だけではない。
この場に居る誰しもがそうで、特に独立精鋭遊撃分隊の面々が顕著であった。
呆然、唖然、上の空。
心ここにあらずといった体で突っ立つのみ。
丘の麓には沈黙が訪れる。
聞こえるのは葉擦れの音のみ。
風に揺られてさらさら、さらさらと。
自然が織りなす柔らかい音のみ。
なぜ呆気にとられて足を止めてしまったのか。
こうも押し黙ってしまったのか。
その理由は、それまで先頭を往き、邪神の群れを割っていた少女にあった。
俺たち同様、やはり歩む足を止めてこちらをじっと見つめるエリー。
彼女が、いや、彼女が紡いだ言葉こそがこの停滞の原因であった。
「つまり――」
声を出すことに成功する。
エリーの過去語りによって奪われた言葉をなんとか取り返す。
「つまり――」
もう一度口を動かせたけれども、まるっきりさっきの焼き直し。
同じ台詞を言い直してしまう。
にわかに見舞われた体調の変化によって、上手に言葉を紡ぐことができなかった。
頬につうと汗が伝う感触。
冷や汗。
口の中も急にからからになる。
唇の裏側が歯にくっついて気持ち悪い。
胸もなんだか調子が悪い。
早鐘を打つ、という慣用句がこれ以上なく当てはまるくらいに、鼓動が速い。
俺の体に襲ってきた体調の変化とは、そのようなもの。
いずれも人が強い緊張を覚えたり、悪い予感を得てしまったときに見られるもの。
そして今回の場合は、とても残念なことに後者であった。
エリーが語った最終戦闘の帰結を知って、猛烈な悪い予感を抱いてしまったのである。
たどり着いた最奥部。
そこに踏み入るや否や、みるみる内に居なくなっていく仲間たち。
あれよあれよの内に一人、二人と喪っていき、最後にアリスが斃れた頃合い――
今とは姿形が違っていたエリーは、すっかり気が動転していた俺にこう持ちかけたという。
贄を差し出せ。
さすれば、望みを叶えん――と。
俺は覚えていないけれど、そう持ちかけたのだという。
人身御供を要求したのだという。
嫌な予感は、その告白のせいで抱いてしまった。
何故ならば、だ。
にわかには信じがたい、エリーが言うところの真実が本当であったのならば。
実際に俺とクロードを除いて、分隊の皆がやられてしまったのならば。
やられてしまったはずの彼らと、こうして同じ時を過ごせているのを考慮すれば。
エリーの方から持ちかけたという人身御供。
俺はそれを――
「つまり。俺は。願ったのか? 頷いたのか? 自身を犠牲にして……皆の命を救ってくれ、と?」
「ええ。その通り」
やはり、か。
悪い予感は的中した。
大切な仲間を、そしてアリスを喪うという事態に遭遇して。
俺は藁にもすがる思いで、にわかには信じがたい誘いに乗ってしまったようだ。
人身御供に応じた先に待つのは、悲劇的な結末だけだ。
それで一時の平穏を手に入れたところとて、長く続くはずもない。
ヤツらにとって人身御供が狩りである以上、腹を空かせれば何度も何度も人身御供を持ち掛けてくる。
一瞬にして多くの人命が失われるか、じわじわと減り続けるかが違うだけだ。
だから、邪神の人身御供には決して応じぬこと。
生け贄を提供する限りでは里を襲わぬ、と持ちかけられても頷かないこと――
これは前線からそう遠くない人里に、連合軍が口を酸っぱくして通達していることだ。
なのに俺は――
「……世話ない。軍人がすすんで。お決まりの通達を破ってしまっているなんて」
自嘲の笑み、自然とこぼれ出る。
守るべき人たちに選択の不自由を押しつけながら、自分は例外とばかりに人身御供を受け入れるなんて。
あまりにも格好がつかなすぎた。
だが、いつまでも自らを嘲っている場合ではないだろう。
努めて顔をシリアスなものに戻す。
もし、本当に俺の戦友たちが人身御供によって息を吹き返したのであれば、だ。
エリーは契約をきっちり履行したこととなる。
彼女はきちんとお代をいただく権利が、俺には支払いの義務がそれぞれ発生する。
人身御供の対価とはすなわち人命だ。
往々にして契約を交わした当人の命、邪神はこれを求める。
この場合だと俺の命だ。
だが、しかし俺はまだこうして生きている。
つまり邪神はお代を受け取っていない、ということ。
そうであるならば。
「……聞いてもいいかな?」
「なにを?」
「この一連の騒ぎ。ゾクリュで立て続けに起きた邪神絡みの事件。そして邪神がこうして、ここに押し寄せてきたのは――」
一つの可能性が浮上する。
一度深呼吸。
そして問う。
浮上した可能性が真実か否かを。
「俺が原因かい? 対価をいただくために。俺の命を取り立てに来た――そういうことかい?」
邪神が何度もゾクリュに襲来したこと。
そして今ここに集う邪神どもが。
俺を殺すためにやってきたのであるならば。
もし、そうであるならば。
ここ最近ゾクリュで立て続けに起きた事件の元凶とは、他でもない俺ということになる。
俺のせいで。
ゾクリュの平和が壊されたこととなる。
ならば、どうにかして責任を取らねばなるまい。
さて、重要なのはエリーの反応だ。
イエスと答えるか、ノーと答えるか、これが重要だ。
これ次第によっては俺の身の振り方が大きく違ってしまう。
では、エリーの反応はいかに――
「もし、そうだとしたら?」
だが彼女は首を振らなかった。
頷きもしなかった。
否定も肯定もしなかった。
ただただ仮定の話を持ちかけるのみ。
依然として真偽ははっきりとしない。
俺は彼女が持ち出した仮定の話に正直に答えることにした。
「……嫌、なんだけどね。誰かが責任を取らなければならない。そして俺は残念ながら大人なんだ。責任は。後始末は。自分自身でつけなければならない」
「ウィリアムさん! それは……!」
制止の声。
焦りが色濃い声。
それはアリスのものであった。
自分自身で後始末をつける――
彼女は、俺のこの台詞に反応したのであろう。
ここでいう後始末の意味とは、いわずもがなってやつだ。
自らの命を邪神に捧げる――このことを意味している。
俺の死。
アリスは明確にそれを拒絶してくれた。
昔の俺ならともかく、俺とて命は惜しい。
死にたくはない。
だが、状況がそうせざるを得なくなってしまったのならば、仕方がない。
これ以上邪神をゾクリュに呼び寄せないためにも、そして騒動の原因となってしまったことへの謝罪も兼ねて。
俺は、俺の命を、邪神たちに捧げねばならないだろう。
そうするのが大人のけじめってやつだから。
だが、それを拒む子供っぽい人々が、どうにもアリスの他にも居るらしい。
一人、二人、三人。
ぞろぞろと雁首揃えて、俺とエリーの間にするり。
割り込んでくる。
たった三人分の大きさだけれども。
しかし頑丈さは、自衛能力は人類の中でもピカ一な、強固な人の壁を三人は産み出した。
「馬鹿め。あんたに責任を取らせてやるものか。格好つかせてやるものか。あんたが遺される立場になるのを嫌がったように、私たちもそうなるのは嫌なんだ」
「同感。もし、事実が本当にその通りであったのならば。真に責任を取らねばならないのは。ウィリアムに負担をかけてしまった私たちだ。ウィリアム、お前ではない」
「と、言うわけなんで。軍曹の命はくれてやれない。もしどうしても、欲しいと言うのならば……リベンジ、だ」
人の壁は俺の戦友たちだ。
ヘッセニアは俺に格好を付かせてなるものか、と言いながら俺とエリーの間に割って入った。
レミィは相も変わらずボソボソとした声で、責任は俺にない、と俺を庇う言葉を紡ぎながら、人の壁の一部となった。
今にも飛びかかるのでは、と思わせる物騒な声色を上げて、エリーの前に立ち塞がったのはファリクだ。
いや、好戦的な雰囲気を醸しているのはファリクだけではなかった。
ヘッセニアもレミィも、それどころか――
「リベンジマッチをやんなら。俺たちも一枚噛ませてもらうぜ。頭数増えりゃあ、今度は負けはしねえだろう?」
俺の後ろに控えていたはずのギルトベルトを筆頭とした無国籍亭の面々。
彼らもずいと一歩を踏み出して、今や俺と肩を並べるようになる。
やるならやるぜ。
その意思表示なのだろうか。
各々の手に撃針銃を携えていた。
いつでも撃てる体勢を整えていた。
かくして殺気が丘の麓に満ち満ちる。
満ちたそれはあまりに純度が高すぎた。
俺が反射的にやめてくれ、と思ってしまうほどに。
相手は分隊を、歯牙にもかけず返り討ちにした猛者なのだ。
いくら数が増えようとも、こちらが有利になったとは思えない。
むしろ不利なまま、と見るべきだろう。
この流れを許せば、忘却の彼方に追いやられてしまった最奥部の敗戦を、ここで再現しかねない。
止めなければ。
皆を。
そう思って俺は。
皆の前に抜け出すべく。
慌てて一歩を踏み出した。




