第七章 三十一話 人身御供、再び
「……は?」
それはまったくもって間が抜けた声であった。
声だけではない。
目を大きく見開き、瞼は何度も何度もしばたきと、いかにも面食らった様子。
しかもその声と表情の持ち主が、いつもイラついていて、しかめっ面が素面なボリスなのだ。
彼が抱いた驚きの大きさがうかがい知れよう。
「どうしたのさ、フィンチ大佐。そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔しちゃって」
そしてそんなボリスに驚きを覚えたのがナイジェルであった。
まさか自分の目の前でボリスが、こんなにも間が抜けた有様を晒すとは夢にも思わなかったのだろう。
なんとも珍しいことがあるものだ。
いや、自分の目がおかしくなってしまったのだろうか。
そう言わんばかりにナイジェルは、自らの眼を何度も何度もこすって、視力の失調をまず疑っていた。
けれども、幾度目をこすろうとも結果は変わらない。
ボリスにしては極めてレアな表情は、依然としてナイジェルの目の前に存在し続けた。
「……フィリップス、正気か? おちょくっているのか? 私を」
しかし流石は高級将校と言うべきか。
ボリスはすぐに正気を取り戻す。
彼は弛緩した表情筋を引き締めるや否や、すぐさまトゲが目立つ声をナイジェルへと投げかけた。
そうだ。
さきのボリスの驚愕、これは突飛としか言いようのないナイジェルの発言によってもたらされていたのだ。
だが、どうにも元凶となった人物は、その自覚がなかったようだ。
ナイジェルは急に向けられた険のある声に戸惑い、小首を傾げる。
はて。
僕はそんなに奇妙なことを言ったのかな?
そう言わんばかりの仕草であった。
「いやいや。僕は正気でいるつもりだし、おちょくっているつもりはないさ。第一、さ。こんな状況下でふざける人間に見える? 僕が?」
「見える。私からすれば、貴官は存在自体がおふざけだからな」
「うわあ……面識なんて、ほっとんどなかったのに。超辛辣ゥ」
「貴官がサボりにサボったせいで、たまりにたまった事務仕事。誰が片づけたと思う? 嫌悪を抱いて当然だろう?」
「あー、うん。それはまっことに申し訳ない」
「ふん。本心からではない謝罪なぞいらん。それよりも私が欲しているのは――」
「どうして陛下が、そして宰相が。プリムローズ大尉のデブリーリングを受け入れたか、でしょ?」
続く言葉を潰されたことに不快感を覚えたらしい。
わざとらしく舌を打ちつつも、情報は欲しいのか。
ボリスは小さく頷いた。
「彼の報告を受け入れる理由が見つからないからな。分隊が大尉と軍曹を残して全滅した――どう考えてもストレスで気が狂った、と解釈して然りな報告だ」
「まあ、普通ならそうだよねえ」
もっともらしくナイジェルが頷いた。
どうにもボリスが肝を潰してしまった事柄。
最終戦闘にて分隊が壊滅してしまったという報告。
たしかにかつてのナイジェルも、その報告を信じられなかったことを認めた。
「当然だ。分隊が全滅したのならば。かの屋敷に集う者どもはなんなのだ? 幽霊か?」
「幽霊なもんか。元分隊員は全員が全員、終戦後もきちんと各地に足跡を残しているよ」
「それは極めて大きい矛盾ではないか。もし、大尉の報告が真であるのならば、だ。二人を除いたその他は、墓の下で安眠していなければならない」
「その通りだね」
「だが、現実はそうではない。みな無事だ」
「そうだね」
「なら答えは一つしかないだろう」
ボリスは短くぴしゃりと言い切った。
これから表明する自らの考え。
これが誤っているはずもないという、強い自信に満ちた声色であった。
「プリムローズ大尉の報告は正確ではない。戦闘によるストレスで壊れてしまった。そのせいで幻覚を見てしまった。こちらの方が、まだ信憑性が高い――そのはず、なのだが」
ボリスは言葉を句切って、ナイジェルの顔を見た。
締まりがなく、どこかニヤついた印象を受ける柔い顔は、ゆっくりと二度、三度と横に振られる。
すなわち否定。
ボリスが信憑性が高いと見た解釈が誤っている――
それを無言で伝えるジェスチャーであった。
ボリスは鈍感な男ではなかったようだ。
彼はきちんと正確にものぐさな大佐の意図をくみ取ったらしい。
呆れが色濃いため息を一つ吐いたのちに。
「……フィリップス」
「なんだい?」
「私は。気が。長い方では。ないのだが」
「……ははは」
ボリスは低く唸るような声を絞り出した。
こめかみにはわずかに青筋が立っている。
そして、一句一句短く言葉を区切ったこともあいまい、ボリスが敢えて口にしなかった意図がより鮮明に浮かび上がった。
いいからさっさと要点を話せ。
ボリスが真に言いたいこととはこれであろう。
ナイジェル自身も冗長に過ぎた自覚はあるのか。
目を逸らしながら乾いた笑声を上げた。
気まずさを抱いた人間が見せるお決まりの反応だ。
「ん、んん! たしかにはじめの内はみんな信じなかったさ」
とってつけたような咳払いののちに、ナイジェルは態度を変えた。
勿体ぶるような口ぶりを止めて、ボリスの要望に応えることにしたようだ。
「だって、分隊は全員健在だったからね。貴君が言うとおり、過度のストレスで見てしまった、幻覚だと思われた。ところが、だ。戦いが終わってしばらく経ったあと、最奥部に調査隊を送ったら――」
ナイジェルは息を継いだ。
これから語るつもりなのだろう。
にわかには信じがたいクロードの報告を、王国の上層部が真実と見なした要因を。
それを聞き逃がさぬためか。
ボリスはナイジェルの方へと重心を傾けた。
「――綺麗だったらしいんだ。彼らが戦っていたはずの現場が。激戦を繰り広げられたそこがあまりにも綺麗だったんだ」
「戦闘の痕跡がなかった、ということか? 巣に弾痕や刀傷がなかった、ということか?」
「いや、あるにはあったそうだよ。ほんの少しだけだったらしいけどね。だから、戦いが行われていたのは確かだ。でも、問題は傷の方向にあった」
「方向?」
「最奥部で見つかった戦いの痕跡とはね。構造体についた傷はね。九割方は奥から手前に伸びていたものなんだ。その部屋の主が、侵入者を迎え撃ったことを示唆するものだったんだ」
「……なんだと? それはつまり」
「その通り」
ボリスが言わんとしていたこと。
これをきっちりと読み取ったのか。
正解。
ナイジェルは右の人差し指と中指を束ねて指す、かの分隊で流行っていたジェスチャーを披露した。
「会敵してからずっと、そこでの戦況は人類が不利であったらしいんだ。それも相当な不利だ。逆方向へ伸びた傷は一つか二つだけらしいからね。これが意味することは――」
「――反撃すらできないほどに押し込まれていた、ということか。そして、最奥部に残った戦闘の痕跡。これが少ないことを鑑みれば」
「まさにあっという間の出来事。一気呵成に攻められて、勝敗がついてしまった。と、いうことさ」
あの分隊が手も足もでなかった。
人類最高峰の戦力を持つ六人が歯牙にもかけられず、あっさりと敗れてしまったかもしれない――
最奥部に残された戦闘の痕跡は、不言にそう証言していると聞いたボリスは、頭を打ん殴られた衝撃を覚えたのだろう。
一歩、二歩。
じっと直立すること能わぬ、とばかりによろよろと空足を踏んだ。
「もちろん、残された痕跡だけでは、戦闘がどのように移ろっていったのかを推測できない。分隊が放った数少ないカウンターが、グランドマザーに致命傷を与えた可能性もあるからね」
「だが、その線はない、と判断されたのだな?」
ボリスの問いにナイジェルは今度は無言で肯んじた。
「どこで、どんな攻撃を受けて隊員が命を落としたか。その攻撃の余波で構造体のどこに傷がついたか――大尉の証言と現場は見事な一致を見せてしまったんだ。こうなると、大尉の言動が一気に現実味を帯びてくる。狂を発したとは言えなくなってしまった」
「たしかに、大尉の言動が幻覚で片付けるのが難しくなったようだが……だが、しかし、それでも」
ボリスはナイジェルの言に理があるのを認めつつも、しかし、と言葉を続ける。
それは異論がある者が紡ぐ台詞。
いくら報告と証拠が一致しようとも、である。
それでもなお解消されない大きな矛盾が、依然として存在していた。
そのせいでボリスは、先の台詞に頷くことができなかったのだろう。
そしてどこか勿体ぶるナイジェルとは対照的に。
ボリスは如何ともし難い矛盾とやらを、ストレートに言い放つ。
「しかし、彼らは生きている。今もきちんと生きている。プリムローズ大尉の報告とは、真っ向に対立する矛盾。これが解消されていないではないか」
「そうだね、その通り。死人を蘇らさせない限り、今の状況はありえない。でも、今がこうしてある以上、起きたんだよ」
「死者が蘇るということが、か?」
「そう」
「ふん、馬鹿らしい。神の奇蹟でもあるまいし」
ボリスはふんと鼻息を漏らした。
その音色にはいささかの嘲りが含まれていた。
よろず短気なボリスなれど、あまりにも強引で短絡的な論調に、怒りを覚える前に呆れを覚えたようである。
それほどまでに、ナイジェルの話の持っていき方はあまりにお粗末であった。
だが、嗤われたナイジェルはいたって真面目であった。
ナイジェルは常日頃は緩んでいる顔を引き締めて、じっとボリスを見た。
ボリスも気がつく。
ふざけているのではなさそうだ、と。
不信感はいまだ拭い切れてはないものの、ボリスは話を聞く姿勢を示すためか。
嘲りに歪んだ唇を横一線に結んで、ニュートラルな表情を作り直した。
「フィンチ大佐。忘れてないかな? あの場に一応神と称されているモノがあったことを」
「なに?」
「邪神だよ、邪神。グランドマザーだよ」
「……顔を見るに。冗談、ではないのだな」
じろりと見定めるようなボリスの視線。
それになめ回されるナイジェルの面立ちは、やはりおふざけの色がこれっぽっちも感じ取れなかった。
素面では到底言えないはずの、とても出来の悪いジョーク。
これを顔色一つ変えずに言い放てるのだ。
相応の根拠を持っているのだろう、と踏んだのか。
今度はボリスがニタリと嗤うことはなかった。
ナイジェルとどっこいどっこいの生真面目な視線でもって、件のナイジェルを射貫いた。
気の小さい人間ならば、それだけですくみ上がってしまいそうなボリスの眼光。
ナイジェルはこれを真っ正面から受け止めながら、次の句を紡ぐ。
「もし、もしも、だよ? 邪神というネーミングが、敵性生物に与えた呼称以上の意味を持っていたのならば。僕ら人類が持つ、神に対する畏れ。これが本能的に働いて、ヤツらを無意識に神、と呼称していたのならば」
「……くどいぞ、フィリップス。また話が迂遠になった」
「――つまり僕はね。こう言いたいんだ」
やれやれ、本当にせっかちだなあ。
ナイジェルはそう言いたげな吐息を漏らして、台詞を区切って。
きっと次に続く言葉を強調するためだろう。
一拍の間を置いて。
ナイジェルは再び口を開いた。
「つまり、邪神は正真正銘、神の一種だったんだよ。超常的な存在だったのだよ。だから奇蹟を起こせたんだ」
「ふん、馬鹿らしい。現状という結論ありきの、とんでもない理論展開ではないか。それにだな。もし、仮にそうだとしても、向こう側に彼らを蘇らせる旨味がない。聞くに耐えん戯れ言と言わざるを得ないな」
「ところがそうではない。状況によっては、十分にあり得る事態だよ。邪神の習性を考えればね」
「習性だと……? いや?」
嘲笑から真顔になり、そして邪神は神の一種である、というナイジェルの言を受けて再び嘲笑へ――
この短い間で目まぐるしい変化を見せていたボリスの表情に、また新たな動きが認められた。
ナイジェルが言うところの習性とやらに心当たりがあるのか。
ボリスは嘲笑を急遽取り下げ、まさか、と大きく目を見開いた。
「まさか。人身御供、か?」
「その通り」
正解。
ナイジェルは再び例のジェスチャーを披露した。
人身御供。
生け贄を要求する代わりに、邪神が人間の望みを叶えんとするその習性。
出来るか否かをさておけば。
死した者を邪神が蘇らせる理由は、たしかにこれ以外ないだろう。
そして、どうにもナイジェルは、人身御供があったというエビデンスはきちんと有しているようだ。
「そして厄介なことにね。プリムローズ大尉の報告の中にはこうあるんだ。アリス・クーパーが斃れた直後、ウィリアム・スウィンバーンが」
ナイジェルはこの話題になってからでは、もっとも自信に満ちた声を作ってみせて、こう言い放った。
「自らを代償に。彼女と戦友たちの蘇生を願ったんだ。グランドマザーに、ね」
現状に繋がるような人身御供が。
グランドマザーから。
たしかに、人類へと持ちかけられた、と。




