第七章 三十話 告解
結論から言うと、度胸試しは俺の勝利に終えた。
誰しもが躊躇いを抱く中での一歩は、最悪の事態には繋がらなかった。
一歩を合図として、わっと邪神が殺到することはなかったのだ。
罠ではない。
囲まれる心配はない――
これが明らかになってからの動きは速かった。
誰であっても拘束砲撃で吹き飛ばされるのは嫌なのだろう。
俺に追従したみなの歩調は、一歩を躊躇っていたのが嘘のように思い切りがいいものであった。
それでこそ先陣を切った甲斐があったというものだ。
かくして俺たちは奇妙な沈黙に包まれながら逃亡を再開した。
その静けさは、とても居心地の悪いものであった。
それもなにかを口にすることすら憚れるような、一等強烈なやつ。
そんな奇妙な静寂の中を俺たちは往く。
ひとかたまりとなって、包囲していた邪神の群れを割りながら丘を下る。
先頭に居るのはエリーだ。
現実離れしたカミングアウトで、この空気を作った張本人。
すっかり大人しくなった邪神どもは、彼女が近付くや否や、そそくさと身を退いて通り道を作った。
おかげで銃をぶっ放し、強引に道を作っていた時とは比べものにならないくらいに、俺たちの歩みのスピードは速くなった。
行く手を遮るモノがなくなったのだから当然だ。
丘を順調に下り続ける。
荷車が壊されてしまった地点は丘の中腹あたりであった。
そこを出発したのはほんのついさっき。
だというのに、行く手をじっと見つめてみれば。
それまで距離と邪神の群れによって、ぼんやりとしか見えていなかった丘の麓の風景。
これが、ずいぶんはっきりと俺たちの網膜に投影されるようになっていた。
あと少しで脱出完了、といったところだろう。
本来それは全員が安堵のため息を、一斉に吐いてもおかしくはない報せ。
だけど、いくら待てども、いくら耳を澄ませども、その手の音は聞こえてこなかった。
鼓膜を震わせるのは、各々が立てる足音のみ。
気まずい沈黙は絶賛継続中。
とうとうそのしじまに耐えかねる者が現れた。
それは他でもない――
「……エリー。質問、してもいいかな?」
「どうぞ?」
――俺自身であった。
この場にあるほとんどの視線が俺に集まる。
目を向けてこないのは、俺が質問を投げかけた相手であるエリーのみ。
彼女の視線はずっと前に向けられている。
俺が言葉をかけたときもそれは崩れてなくて、彼女は背中越しにどうぞ、と答えたのだ。
「その。さっきのことなんだけど」
「さっきの? 私の正体について?」
「そう。その……なんというか」
「とても信じられない?」
「うん。むしろ、あれをはい、そうですか。と、すんなり聞き入れる方がおかしいと思う」
「でも、現状は。私の告白を肯定すべきではなくて?」
エリーの告白は、にわかには信じられない話であった。
今日び劇でもないような思い切ったシナリオと言わざるを得ない。
けれども、絶対に嘘である、と断言できないのが厄介であった。
とても都合が悪いことに、彼女の話には説得力があるのだ。
現に俺たちは見てしまったのだ。
エリーに頭を垂れ、彼女が望むとおりに道を作る邪神の群れを。
あれを見てしまえばあの告白が詐話である、とは言えないだろう
「それに」
ずっと前を向いたままのエリーの顔が横に動く。
その赤目がちらとこちらに向けられる。
いや、エリーが見たのは俺ではないか。
正確に言えば、俺の隣でよろよろと力なく歩を刻んでいる――
「クロードは。もうすっかり私が邪神の類いだって認めてしまっているようだよ。さっきのやりとりで、確証を得たようだよ」
――件の問答以降、すっかり血色を失ってしまったクロードに向けられていた。
視線に話題。
それらを向けられたクロードであるが、彼がその二つを真っ正面から受け止めることはなかった。
虚ろながらも前を向いていた両目がふいと脇に逸れる。
彼は道の傍らに群生する低木を眺めはじめた。
これはジェスチャーだ。
なにがあってもエリーが向けた話題に、一切乗る気はないと示すための。
エリーの口ぶりとクロードの態度。
この二つから察するに、クロードはエリーの正体に関するなにかを知っているに違いない。
それに。
彼は知っているのだ。
俺や他の分隊員が忘れてしまっている最終戦闘のことを。
百年も続く戦争が、どのような幕引きを迎えたのかを。
エリーの正体に、戦勝の瞬間。
俺たちが知り得ず、また知りたがっている重要な情報を彼は知っている。
と、なれば。
俺が質問者になる必要があるだろう。
彼にとって、きっとその方が語りやすいだろうから。
「……クロード」
「……あん?」
「話して、くれないかな?」
「……なにを、だよ」
「隠していることを」
「……なんだよ。それは」
「最終戦闘のことを。俺たちに話してくれないかな?」
クロードが見せた反応は、やはり芳しいものではなかった。
脇目を逸らして、むっつりと口を閉ざす。
顔色は悪いままであった。
この露骨なジェスチャーと蒼白となった顔面。
きっと俺が思っている以上に、最後の戦いはロクでもないものだったのだろう。
最終戦闘が、クロードのトラウマになってしまっているのならば、今の俺の行いは傷口に塩を塗っているだけに過ぎない。
良心がずきりと痛む。
けれども。
質問は続けなければならない。
「話す気になれないのは重々承知している。俺だって、クロードが話す気になるまで気長に待つつもりだった。でも――」
俺は首を回す。
後ろを見る。
分隊が、戦友が、殿下が、親衛隊が、守備隊が居た。
みなの顔はホコリで汚れていた。
戦っていたからこその汚れ。
もし、汚れの原因となったさっきまでの戦い。
その発端が一年前の最終戦闘にあるならば――
「ここまで多くの人を巻き込んでしまったこの事態。その因果が、俺たちにあるのならば。それはもう説明しなくちゃいけないと思うんだ。巻き込んでしまった人たちのために」
――義務があるはずだ。
話さなければならない義務が。
そうクロードを諭す。
でも、クロードは一向に俺を見ようとしなかった。
そして横を向いたまま。
俯き加減で。
ぼそぼそと、声を絞り出した。
「……言えねえよ」
「クロード」
「言えるわけねえ! 言えねえんだよ! 言いたくねえんだよ!」
この短い間でクロードの情緒は完全に乱れてしまったようだ。
よろよろとした歩みを止めたと思ったら、その場で地団駄。
ボソボソと言葉を紡いだと思ったら、今度は大声。
それも腹の底から、あらん限りの声を吐き出した、といった体。
その証拠に今の絶叫三連発は、完全に声が裏返っていた。
急に立ち止まったクロードに俺たちはつられて足を止める。
分隊も、守備隊も、親衛隊も。
皆ぴたり、歩みを止める。
突然の大声に、いずれもが顔に喫驚を張り付かせていた。
「仕方がないなあ」
けれども例外が居た。
驚愕に目を丸めなかった者が居た。
先頭を歩んでいたエリーだ。
彼女はふう、やれやれとばかりにため息。
まるでワガママな幼い弟を見守る姉のような、呆れ色濃い声を紡ぎながら、踵を返してくるり。
クロードを真っ正面に見据えて。
「じゃあ、私が代わりに話すよ。あの最奥部でなにがあったのかを」
その気がないのなら、私が話してやろう。
エリーはそう言い切った。
もちろんそれはクロードの心情にまったく忖度していない発言だ。
案の定、ただでさえ蒼白なクロードの顔から、さらに血の気が失せてゆく。
きっと怖れか、それとも絶望か。
とにかく負の感情が彼の唇を細かく震わせていた。
「や、やめろ」
震える唇と格闘して、ようやく紡いだクロードのその言葉に力強さはない。
頼むからやめてくれ。
言わないでくれ。
ただただそう哀願するだけであった。
けれどもエリーは、クロードの願いを聞き入れようとはしなかった。
無慈悲に、ゆっくり。
真実を語るために口を開いた。
「簡潔に言うとね。貴方たちは負けていたんだよ。勝ち負けの二元論で語るのであればね」
「……は?」
口から音が漏れ出てしまった。
それは辛うじて疑問の音色を含ませることに成功した吐息だ。
エリーが語ったことがあまりにも予想外であったために、思わず漏らしてしまった音だ。
呆然。
今の俺の表情は、この言葉がこの上なく似合う代物であろう。
そしてそれはなにも俺だけに限ったことではなかった。
分隊の面々。
アリスも、ヘッセニアも、レミィも、ファリクも。
皆一様に目を丸くして、あるいは口をわずかに開いてぽかん。
やはり呆気にとられた顔を作っていた。
負けた?
俺たちが?
馬鹿な。
もし、俺たちがあの最奥部でエリーの言うとおりに負けていたのならば。
グランドマザーの巣が俺たちの墓標となったはずだ。
けれども俺たちは生きている。
もし、最終戦闘に敗れていたのならば。
人類は終戦を迎えていなかったはずだ。
今も邪神との戦争を続けていたはずだ。
でもご存じのように、戦争はすでに終えている。
だから、エリーの言ってることは嘘八百だ。
取るに足らない戯れ言だ。
そうだ。
そのはずだ。
そうだというのに。
どうして。
どさり。
すぐ隣でなにかが崩れる音。
クロードが腰を抜かし、尻餅をついた音。
かたかた。
かたかた。
音がする。
歯の根がまったく合ってない音。
恐怖におののく音。
それが隣から聞こえてくる。
青を超え、白をも突き抜け、もはや土気色と化したクロードの顔から、口から。
かたかたと音が聞こえてくる。
どうして?
なんで?
こうもクロードは怯えているのだろうか?
わからない。
尋常ならざるクロード。
そんな彼を無視することに決めたらしい。
エリーはクロードを一瞥もせず次の句を紡ぐ。
「特に。レミィ、ファリク、ヘッセニア、そしてアリス。貴方たちは――」
「やめろ! 言うな! 言わないでくれ! やめてくれ!」
絶叫。
大絶叫。
腰を抜かしたクロードから。
声がからからに枯れてしまうほどの大音声。
クロードは、それでもってエリーの台詞をかき消そうと試みた。
だが、しかし。
その努力は無駄に終わった。
クロードの絶叫を読んでいたのか。
エリーは彼が叫ぶや否や、それまで滑らかに動いていた口をぴたりと止めて。
すうと小さく息を吸い込んだのちに。
「――命を。落としていたんだよ。あの戦いで。あの最奥部で」
さっきのそれとは比べものにならないほどに馬鹿げていて。
それでいて深刻な台詞を。
くしゃり。
眉根を寄せて、いかにも苦悶の顔を作りながら。
「――私が。殺した」
小さく、ぼそりと告白、いや、告解をした。
またしても現実味の薄い表明。
とてもではないが信じられない台詞。
けれども、どうしたことか。
どう聞いても嘘っぱちなエリーの台詞を受けて。
腰を抜かしたクロードは、力任せに、とても悔しげに地面を打っ叩いて。
喉の奥から情けない嗚咽を漏らしていた。
それはどう見ても。
彼女のとんでもない言葉が。
真実である、と認めているようにしか見えなかった。




