第七書 二十九話 救済
痩せた平原に根を下ろしたばかりの、ゾクリュ守備隊ご一行。
彼らは奇妙な空気をたたえていた。
安堵とそして少しばかりの不機嫌をシェイクした、表現するのに難しい空気である。
その組成の大半を締めている安堵は、嫌々ながら砲撃準備を進めていた兵らが産んだものだ。
安堵の空気を産んだ理由は他でもない、砲撃の中止が決断されたからだ。
よかった! なんとか同胞を吹き飛ばさないで済みそうだ!
声にこそ出さないものの、彼らは今すぐにでもパブホールに駆け込んで、乾杯したい気分に駆られているだろう。
そんな中、腕を組み、眉間に皺を寄せて露骨に不機嫌な空気を立ち上らせている男がいる。
兵らに拘束砲撃の命を飛ばし、そしてつい先ほどそれを取り消した男、ボリス・フィンチその人であった。
この方針転換は彼の心変わりによってもたらされたものではない。
唐突にこの現場に乱入してきた者どもによって、そのような決断をせざるを得なくなってしまったのである。
外野のちょっかいによって、思い通りにいかなくなってしまった形となる。
ボリスからすれば、面白いと思う道理がなかった。
ボリスの不機嫌は刻を負うごとに深刻化してゆく。
いまや腕組みだけのみならず、つま先を貧乏ゆすりさせて、その苛立ちを必死に抑えようとしていた。
はじめの内は露骨に安堵の表情をたたえていた兵らも、いまは不機嫌な隊長代理に忖度して、努めて真顔を作らざるを得なくなってしまった。
みるみると上がってゆくボリスの怒りのボルテージ。
貧乏ゆすりはいよいよ激しくなり、もはや引きつけもかくやという具合になった頃合いであった。
兵らに歓喜をもたらし、ボリスに苛立ちを与えた外野どもが到着した。
そしてその到着はゾクリュ守備隊に大きな喫驚をもたらした。
「どうやら……僕らは間に合ったようだね。いやあ、まずは一安心」
鉄火場に似合わぬ気の抜けた声に、守備隊の兵たちは顔を見合わせた。
まさか。
どうして。
彼らの視線を言語化するならば、そんなところだろう。
そしてここでもボリスは大勢とは全く別な感想を抱いたようだ。
抱いた不快感、これを一層強くさせたようである。
眉間はもはや眉と眉がくっつきそうなほどとなり、目尻と頬は神経質そうにぴくぴく、いかにも不随意の振顫を見せた。
「……ずいぶんと。華々しいご帰還だな? フィリップス」
急に帰ってきた本来のゾクリュ守備隊隊長、ナイジェル・フィリップスに皮肉をぶつけることで、ボリスは感情の爆発を抑えたようだ。
開口一番に嫌みったらしい皮肉を言われてしまえば、大まかに人は二つの反応を見せるだろう。
萎縮してしまうか、はたまた逆上してしまうか。
そのどちらかだ。
しかし多くの中央軍を引き連れて帰ってきた、ぼさぼさ頭の壮年将校はレアケースであったようだ。
生来ののんびりとした性格が幸いしてか。
ナイジェルはボリスの皮肉を受けて恐縮することも、怒りを覚えることもなかったようだ。
目を軽く丸めて、驚きを表現。
いやいや、ボリスはなににご立腹なのだろう? とわざとらしく不思議がっていた。
「おや。フィンチ大佐。なにやらご機嫌斜めなようで」
「……私の立場から見てみろ。私はたったいま、横槍をもらったのだ。さあ、食事だと心躍らせているその瞬間に、しつけがなってない犬がテーブルに飛び乗ってくれば。誰であろうと眉をひそめるだろうよ」
「うーん。ごもっとも。それに的確な例え話。たしかにそれなら……って、うん? それって……」
全肯定まであと一歩のところで、ナイジェルは頷きかけた首をぴたりと止めた。
はて?
なにかを思案する風に小首をかしげた。
どうにもさきのボリスの発言に引っかかりを覚えたようである。
「それってさ。暗に僕のことバカ犬って言ってない?」
「暗に、ではない。直接そうだ、と言っているのだ」
「あ、ひどい」
がっくり。
ナイジェルは大げさに肩を落とした。
今のやりとりを見ていたゾクリュ守備隊員らから苦笑いの気配。
ナイジェルのそれには、どうやら場の空気を弛緩させる作用を含んでいたようだ。
ああ、なんとフィリップス大佐はマイペースなことか。
やはり緊張感とは無縁なお人であるのだな。
呆れをともなった納得と懐かしさ。
苦笑いの気配を分析するならば、その二つが主成分だろう。
けれども嫌な雰囲気ではない。
むしろ兵らは歓迎すらしていた。
だが、兵らの歓迎ムードとは真っ向から違う雰囲気を醸し出す人物が居た。
それが件のナイジェルと相対するボリスであった。
彼の額にはうっすらと青筋が立っていた。
横槍を入れられたことを抜きにしても、だ。
生来病的なまでに真面目なボリスからすれば、どこかヘラヘラとしていて軽薄な態度のナイジェルを認めることができないのだろう。
生理的とも言える嫌悪を抱いているのだろう。
「それで? いまさら貴君が、そしてどうして中央軍が出しゃばってくるのだ? どうして私の頭を押さえつけた? ここは私の戦場であるのだが」
「その通りだね。かつてはそうだった」
「……ほう? かつては、か」
かつては。
そうだった。
過去をことさら強調する言い回し。
その上、ナイジェルはぴしゃりと言い切った。
人間がこうも自信たっぷりに断言する理由なんて、古今東西において一つしかない。
とても強烈なエビデンスを有している――これだけだ。
「辞令は?」
そのエビデンスの正体は、相当に高いところから下された辞令。
これしかないだろう、とボリスは確信した。
ボリスの確信は正鵠を得ていた。
ナイジェルがゆったりと肯んじて。
書面を取り出すためか。
懐をまさぐった、のだが。
「あ、あれ? ええっと……たしか……」
ここにきてナイジェルのだらしなさが遺憾なく発揮されてしまった。
どうやら辞令が刻まれた紙面をどこにしまったのか、それを忘れたらしい。
懐だったり、ズボンのポケットだったり。
とにかく手を伸ばして、もぞもぞ、もぞもぞ。
やや焦りの見られる顔で、身体のあちらこちらを探りはじめた。
「お、あった、あった。あー、よかった。ここ、ここ。ここにある」
「……なんてズボラな。くそ、生暖かくて気持ち悪い……! ん、んん! では、拝見する」
格闘すること幾星霜。
ナイジェルはシャツの胸ポケットから艶があって、いかにも上質な紙片を取り出し、そのままボリスに押しつけた。
身体に長い間密着していたせいだろう。
その紙にはナイジェルの体温が少しばかり移っていた。
潔癖症の気があるボリスからすれば、虫唾が走る事態とはまさにこのこと。
ボリスはその薄い唇を、今日一番に歪ませながら書面に目を落とした。
左から右に。
右から左に。
幾度も幾度も紙面上で目線を往復させて。
ピリオドまでしっかりと目を通したのちに。
大きく、重々しいため息、ボリスは吐き出した。
「全隊! 傾注!」
そしてため息とは打って変わっての大音声、蒼天の空に高々と響いた。
軍人の条件反射と言うべきか。
二人のやり取りを見守っていた守備隊員の踵がぴたりとくっついて、背筋がぴんと伸びて気をつけの体勢、すぐさま作られた。
「勅令により、現刻をもって私は指揮権をフィリップス大佐に譲渡する!」
突然の指揮権譲渡。
真っ当な軍隊であるならば、兵らの心配を煽って然りの事態。
けれどもこの場においては、そんな当たり前の反応は欠片も見られなかった。
むしろ見て取れるのは――隠しきれない喜びの気配のみ。
歓喜の影はボリスが言葉を紡ぐ度にみるみると濃くなっていく。
そして。
「――爾後は中央軍と協同し邪神討伐にあたれ! 以上だ!」
勅令を伝えきるや否や、喜びは大爆発。
欣喜雀躍なる言葉は、まさに今、この時を表現するために世に生を受けたのか。
そう思わざるを得ないほどに、兵らは口々に万歳を、興奮が極まった者に関しては間近の者と抱擁を交わし、小躍りで喜びを表現する始末であった。
指揮権を譲渡しただけでこうも兵らに喜ばれるとは。
いくらボリスが嫌われていようとも、いささかこの反応はオーバーと言わざるを得なかった。
ゾクリュ守備隊の面々がナイジェルを心から慕わねば、このような歓喜は見せないだろう。
こんなずぼらな男のどこがいいのか。
ボリスは兵らの感性が、まるっきり理解できなかった。
他者への不理解は往々にして不機嫌に繋がりやすいもの。
これ以上この場に居ては、高まり続ける一方の不機嫌が爆発してヒステリーを起こしてしまうやもしれぬ。
これ以上の醜態を見せるのは御免被るとボリスは、我慢の限界を迎える前に立ち去ろうとした。
街の方角へと振り返り、大股で歩み出す。
けれどもナイジェルに対して、なにか一言二言を言わねば気が済まないのだろう。
ボリスはすれ違いざまにその足を止める。
鋭い視線。
横目になりながらこれをナイジェルへと叩きつけた。
「……フィリップス、どんなペテンを使った? どんなルートを使った? どうやってこんな勅令を拵えた? どんな危うい綱渡りをした? そうするまでに、あの丘の住民が気に入ったのか?」
「たしかにあの人たちとはお友達になりたいな、と思ってるし、なんとかしたいとも思ってるさ。でも、この件に関しては僕はなにもしてないよ」
「はん。いい加減を口にするな。彼の者は王の、いや、宰相の意向で裁かれたと聞いている。しかし、勅令では裁いた彼を救え、とあるのだ。この急転直下もいいところの翻意。なんらかの暗闘の結果、としか私には思えない」
「フィンチ大佐。僕はね。本当になにもしてないんだよ。してたつもりにはなってたけど、なにもできてなかったんだよ。ずっと、爺さんたちの掌の上で踊らされていたんだよ」
「……どういう意味だ?」
苛立ちのせいでとても鋭利となっていたボリスの目が、にわかに緩くなった。
訝しみによって、ほんのちょっぴり柔らかくなった。
なにもできていなかった?
掌の上で踊らされていた?
はて?
いかにも意味深な台詞。
馬鹿げた陰謀論のにおいすら嗅ぎ取れる発言。
論拠はほとんどこじつけなのに、さも真実のような結びで締める陰謀論を、ボリスは心から嫌っていた。
この世で最も愚かな連中のための娯楽である、とすらみていた。
けれども、である。
そんな愚者の娯楽たる陰謀論を支持するかのような台詞を、ナイジェルは紡いだのだ。
これにはボリスは驚いてしまった。
ナイジェル・フィリップスはだらしない男だけれども、とても切れ者で、優秀な将校であるのは間違いない。
そんな男があのような言葉を吐くと言うことは。
本当に自分たちの頭の上にある世界にて、なにやらロクでもない陰謀があったのではないか?
そうであるならば――
陸軍の末席につく者として看過できないだろう。
ボリスはじっとナイジェルの横顔を眺めた。
横目ではなくて、きちんと首を回してナイジェルを見た。
櫛の通っていないぼさぼさ頭に、なんだか眠たげな眼。
普段通りのナイジェルの顔だ。
素面、とも換言できる。
表情から思うところを推察するのは至難であった。
故にボリスに許された行動は一つしかない。
続く言葉を聞き遂げるために、この場にしばらく留まること――これだけだ。
足を止め、続きを求めるボリスの雰囲気を敏感に読み取ったか。
ナイジェルは小さく息を吐いたのちに再び言葉を紡いだ。
「もし、さ。見誤っていたのならどうだろう? 王国の最上層部が、どうしてもウィリアムさんを裁きたかった、という前提がさ。逆だったらどうしよう?」
「逆、だと?」
「そう。逆」
ゆったり、マイペースにナイジェルが頷いた。
まだ、彼の言葉には重要な情報が含まれていない。
だから、ボリスはこの場を立ち去ることができない。
ボリスはとうとう身体の正中をナイジェルの方へと向けた。
腰を据えて話を聞く姿勢を示した。
「王は、そして宰相は。端っから彼を裁くつもりはなかったんだ。ややこしい手段でもって、救済しよう、と試みていたんだ」
「救済、だと?」
「そ、救済」
「……詳しく。話を聞こうか」
「もちろん、喜んで。でも、今はちょっと時間がないんだよね。嫌でも仕事で忙しくなるから。ながら語りでいいなら、すぐにお話できるんだけどなあ」
ちらとナイジェルがボリスを見た。
にっ、とイタズラっぽい笑顔を伴いながら。
この思わせぶりな表情。
そして強調したながら語りの部分。
これら二つを鑑みるに、ナイジェルが婉曲的にボリスに要求したこととはこれであろう。
手は多いに越したことがない。
だから手伝え。
この場に残って手伝え。
そうしたら語ってやろう。
ナイジェルはボリスの答えを待とうとしなかった。
遠回しな要求を告げるや、軍人らしさが見事に欠如した気だるげな足取りでもって、いまだ歓喜のただ中にある兵らへと歩みだした。
「……くそ。やはり。不愉快な男だ」
ボリスは舌を大きく打った。
嫌いな男の思い通りに動きのは、はらわたが煮えくり返るほどに不愉快であろう。
しかし、真実味のある陰謀の影を見過ごすことなぞ、ボリスにはできなかった。
ナイジェルとは対照的なキビキビとした歩調でもって。
ぴたりとくっつきそうなほどに眉間に皺を寄せながら。
ボリスは先行く猫背を追いかけた。




