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第一章 十八話 牢屋でティータイム(未遂)

 鼻に刺す饐えたにおいは、きっとカビによるものだろう。

 洞窟に似たにおいだ。

 戦時中には身を隠す際、よく洞窟に入ってたのでお馴染みであった。

 いわゆる懐かしのかほり、ってやつだろう。


 だが、そのにおいは戦場では珍しくないものの、日常生活ではそうかぐものではない。 

 最近の穏やかな生活を思い出しても、精々水車小屋を直した時に鼻についた程度か。


 只今、そんな日常には相応しくないにおいに俺は包まれていた。

 折角平穏を手にしたのに、どうしてか。


 その理由を求めることはとても簡単だ。

 目の前をじっとみればわかる。


 見よ。

 冷たい黒鉄色の鉄格子がずらりと横一列に並んで、俺の居る部屋と外を隔てているではないか。


 今、俺は守備隊が所有する牢屋に放り込まれていた。

 そう、収監されているのだ。


 乙種を片付けた後、ばたばたと応援にやって来た守備隊の内に、ソフィーが指揮する組があった。

 そして彼女らは俺を見つけるなり、さっさと取り囲んで、両手に手錠をかけてしまったのである。


 まあ、当然だろう。

 一種の観察処分を受けている者が、進んで混乱の中に飛び込んでしまったのであれば、それは逃亡以外の何物でもあるまい。

 捕縛するのは当たり前で、即刻銃殺されなかっただけありがたい、と見るべきだ。


 ただ、俺がすんなりと事を受け入れたのとは対照的に、収監に納得していない人間も居た。

 それも相当ご立腹だったらしく、あの堅物のソフィーに面と向かって抗議と批判を叩き付ける真似までした。


 ちなみに言うならばその人物とは、今、俺のすぐ傍、鉄格子の向こう側に居る。

 簡素な椅子に腰掛けながらこちらを眺めていた。


 膝に新聞を置いた彼女は、おもむろに口を開いた。


「ウィリアムさん。新聞、読み聞かせましょうか? 興味深い記事がありますよ。内燃機関搭載のオートモービルが遂に発売されるようです」


「あー。うん、ありがとう。でも別に読んで貰わなくてもいいかな? その記事取っておいてくれれば、屋敷に戻った時に読むから」


「では、そのように」


 そう言うと、彼女――アリスは丁寧に新聞を畳んで、傍らに鎮座する鞄にしまい込んだ。

 まるですぐ近くに居る看守を、無視するかのような態度で。


 つまりだ。

 その猛抗議を行ったのはアリスだ。

 そしてその抗議は今もなお続いていた。


 今、この場にアリスが居ることがまさにそれだ。

 只今の時間は、本来面会が許されている時間ではない。

 そもそも、面会はきちんとした面会室を通して行われるので、こうして牢に直接赴くことなんて、あり得ないことだ。


 にも関わらず、アリスは現にこうしてここに居る。

 あまつさえ、かび臭く、冷たい牢の外側で寝泊まりすらしている。

 いくら何でもアナーキーにすぎる行いだ。


 この捕縛自体が不当なのだから、ならばこちらも守備隊の規則に付き合う必要がない。

 やめて欲しくば、さっさと俺を解放しろ。


 これが、アリスの言い分らしい。


 当然はじめの内はゾクリュの守備隊も、そんな横紙破り認められぬ、と突っぱねようとした。

 が、いつものニコニコ顔で、アリスは追及をのらりくらり躱してしまったのだ。

 それでもめげずに、守備隊の面々が職務に忠実にあらんとすれば、なんと彼女は脅迫という手段に出た。


「なら、隣の空いている牢に私が入りましょう。兵糧庫を魔法で爆破すれば、収監されるに十分ですよね?」


 そんな物騒な台詞を、普段通りの柔らかい笑顔で言ってのけるのだ。

 恐怖でしかない光景だった。

 実際俺もその場面を目にしたのだけど、背筋が凍るほど怖かった。


 質が悪いのは彼女は本当に、それを現実に出来る魔法の腕前を持っている点にある。

 しかも、そう言ってのけた時のアリスの顔は、にこやかなれど目が据わっていたのだ。


 彼女なら、本当にやりかねない――

 その場に居た誰もがそう思ったはずだ。


 ただでさえ乙種騒ぎで隊内がごたついていて、てんやわんやなのに、これ以上厄介事を抱えるなんてもうこりごりだ。

 

 彼ら守備隊はそんな思いでもって、彼女のやっていることを黙認することにしたのだ。

 もちろんこれは、言うまでもなく臭い物に蓋ってやつだ。


「では、お茶をお入れしましょうか? 残念ながらここには、金属のポットとカップしかなくて、いくらか香りは飛んでしまいますけど。でも味気ないお水よりはいいでしょうから」


「うん。とてもありがたいし、出来るなら飲みたいんだけどさ。流石にほら。収監されてるのに、お茶するのは、いくらなんでも……」


 流石に牢屋という抑圧的な場で、ティータイムってのはまずかろう。

 隅っこの机で、居心地悪げに頬杖を突いている看守に眼をやる。

 やっぱ駄目だよね? っと眼で語りかけながら。


 対する彼はゆっくりと頷く。

 流石に勘弁してくれ――と。

 俺に倣って、それなりに軍歴を重ねていそうな彼も目で語る。


「気にすることはないと思いますよ。やっぱり何度考えても、この抑留は不当ですから。不当なことしてる人たちに対して、私たちが大人しく言うことを聞くなんて、妙なことだと思いません?」


「俺の無実を信じてくれるのはとても嬉しいけどさ。でも、不当が正当かを決めるのは俺たちじゃないと思うんだ」


「では何が判断するのでしょうか?」


「法とか、それを生業とする法律家だとか、裁判官だとか」


「ですが、その判断基準が誤っている場合はどうしましょう。今みたいな時とか。なら、やはり抗議するしかないでしょう」


「……法治国家の理念を否定しないで欲しいな。いや、まあ、確かに腐敗や不正が横行してる時は、アリスの言うことも間違いじゃないと思うけどね」


「ええ。ですから、そうしているのです。私にとっては、今、ウィリアムさんが拘留されていることが、そういったことに匹敵するのです」


 アリスは普段はとてもいい子なんだけど、時折妙に頑固になる事がある。

 言うまでもなく今がそうだ。


 クロードが根回しをして、その内解放されるからと言い聞かせても、これだ。

 頑として屋敷に帰ろうとしない。 


「それはそうとして、お茶っ葉は何にしましょうか? 実は、面白い葉っぱが手に入りまして。金木犀という東方の花を混ぜたもので、とても甘い香りがするのですよ。どうでしょう?」


 ううむ、どうやって彼女を説得しようか、と頭を悩ませていても構わずアリスは続けてくる。

 どうやらもうお茶をするのは、彼女の中では既定路線のようだ。


 説得する手立てが思い浮かばず、思わず助けを求める視線を看守に投げかけた。


 どうにかしてくれ。

 俺らの行き過ぎた行動を諫めるのが君の仕事だろう、と。


 が、対する看守の反応はとても冷たいもの。


 知らん。

 お前のメイドだろ、お前が何とかしろ。


 そんな雰囲気を醸すや否や、ぷいと視線を背けて、我関せずの態度を作り出した。


 ……この給料泥棒め。

 あとでソフィーに言いつけてやる、と子供染みた復讐心を抱いたところで、思わぬ助け船がやって来た。


「……相も変わらず、この場に留まり続けるか。このメイドは」


 呆れかえった声と共にこの場にやって来たのは、先ほど看守の怠慢を密告してやろうと心に決めた相手、ソフィーその人であった。


 その声に、本当にお茶を入れる準備をしようとしていたアリスの動きは止まる。

 そしてソフィーを真っ直ぐ見て、にこりと笑って。


「ええ。だって、メイドですから。それにしても、今日はウィリアムさんに取り調べを行うので?」


「ああ、そうだ。何故、あのような暴走に到ったか。その動機を詳らかにしなければならないからな」


「お暇なんですね。だって毎日同じこと聞いているではありませんか。僭越ながら、他にすべきことがあるかと。時間をもっと建設的にお使いになっては?」


 ちくりと一刺し。

 それを受けて、まだフレッシュさが抜けきれない、守備隊の副官は一度顔をしかめた。


「……毎日、飽きもせず主人にべったりな女に言われたくはない」


「ええ。それが私の仕事であり、生きがいですので」


「私とてこれが仕事だ。これ以上建設的な時間の使い方など、思いつきはしない」


「でしょうね。軍属ではない者に討伐させてしまったという失点、どうにか帳消しにしたいですものね。少なくとも、貴女にとっては建設的な時間でしょう」


 ちくり、ちくりと嫌味を言い合う、二人の若い女性。

 終始しかめっ面のソフィーと、笑顔の仮面を着け続けるアリス。

 そんな二人の間には、他者には見えない火花が散っていることだろう。

 そりゃもう、ばちばちと。


 空気が一気に悪くなった。

 この相性の悪すぎる二人のお陰で。


 アリスはソフィーが俺をさっさと捕縛してしまったがことが気に入らない。

 ソフィーは乙種討伐直後に、アリスに詰め寄られた件を根に持っているらしい。

 そんなわけでこの二人、出会えばこうしてちくちくやり合う仲になってしまった。


 アリスが他人に対してここまで攻撃的になっているのは、これまで見たことがなかった。

 だから最初の内は珍しいものを見た気分で、とても気楽でいられた。


 が、こうして二人が出会う度ちくちくやられると、ちょっと気が滅入ってくる。

 しかもその原因が俺にあるとなれば、気が気でいられなくなり罪悪感すら覚えた。

 心なしか二人が小言を口にする度、鳩尾のあたりがしくしく痛むような気がする。

 胃痛を覚えるのはクロードの仕事であって、俺ではないというのに。


「……おい、あんた」


「なんだい?」


 がしがし角をぶつけ合う二人の目を盗んで、看守が俺に声をかける。


「止めなくて……いいのか?」


「言えばアリスはやめてくれるだろうけど。奴さんが、何かちくりと言えば、また言い返すだろうしなあ。そっちも上官、止めなくていいの?」


「……勘弁してくれ。あんたンところのメイドと違って、こっちのは根っこの性格がキツいんだ。八つ当たりの対象にされたら敵わん」


「そりゃ災難」


 ソフィーに聞こえないように、彼は努めて小さな声で呟く。

 幸いにして彼女には聞こえてないようで、飽きもせずにアリスと小言の応酬を続けている。


「なら、もう止める手立てはないね」


「あんたなあ……聞けば乙種倒せるほど強いんだろ? なのに、女の喧嘩止めるのにそんなにビビってどうすんだよ」


「じゃあそっちはどうなのさ。普通の騎士級と戦うのと、目の前のこれ止めるの、どっちがいい?」


「……済まない、無理を言った。騎士級と戦った方がマシだわ」


「だろう?」


 きっぱりとした答えが返ってきた。


 人類同士の喧嘩の仲裁はその後のフォローなどといった、後始末が極めて面倒なものが付きまとうものだ。

 それに対して、騎士級はただ倒せばいいだけ。

 なんと気楽なことだろうか。


 それに仮に俺が仲裁しようとも、自然とアリスの肩を持ってしまうだろうし。

 仲裁どころか、ソフィーをヒートアップさせかねないだろう。


 さて、男二人が仲裁を放棄したことによって、永遠に続くかと思われたこの口喧嘩も唐突に終わりを迎える。


「ソフィーちゃーん? 居る?」


 にわかに響いた、ソフィーを呼ぶ妙に軽い声によって。

 声の主はすぐに見つかった。

 廊下へと続く扉からひょっこり出ている男の顔が、その人だろう。


 男を認めて看守とソフィーは姿勢を正して、敬礼を捧げる。

 ソフィーがこうして進んで敬礼をする点を見るに、あの男は高級将校であるらしい。


「隊長! いつお帰りになられたのですか」


「おお、居た居た。たった今帰ってきたところ。それはそうと、ソフィーちゃんは、こんなところで何してるの?」


 どうやら男は王都に呼ばれていたゾクリュ守備隊の隊長であるようだ。年は三十半ばだろうか。

 例によって、自然な流れで階級章を見る。

 どうやら彼は大佐であるらしい。


 その事実に少しだけ驚いた。

 正直そこまで彼が高位だとは思っていなかったからだ。


 彼の階級を低く見積もってしまった理由はいくつかあるが、一番大きいのはその態度だろう。

 なんというか、あまりに軽すぎる。


 佐官となると一種の威厳ある態度で部下にあたるものである。

 が、どういうわけか、彼にはその威厳ってやつが、影も形も見られない。

 それはもう、ソフィーから見て、ただの先任少尉と見えてしまうくらいに威厳がない。

 少なくとも、俺の知る限りでは自身の副官を、ちゃんづけで呼ぶような佐官は居なかった。


「はっ。件の観察処分者が例の騎士級騒動に乗じて、観察を逃れようと試みまして。その聴取を」


「そっか、そっか。ご苦労さん。いやあ、ソフィーちゃんは真面目でいいね。僕の留守を預けて正解だよ」


 偉い偉いと、さながら子供を褒めるような口ぶりで、彼女の勤勉さを讃える隊長。


「でもねえ」


 でも、と含みを持たせる言葉と共に、ちらりと彼は俺に眼を寄越して。

 そしてぽつり一言。


「彼はもう釈放しなくちゃいけないんだ」


「……は?」


 きっと上司の言葉は、彼女からすれば想定外もいいところなのだろう。 

 ぽかんと呆けた顔をして、気の抜けた声を上げた。


「……何故、ですか」


 それでもなんとか顔を引き締め直して、彼女は上官に問う。

 どうして、事がそう進んでしまったのかを。


「納得出来てないみたいだね。まあ、仕方ないか。それじゃ、論より証拠。はいこれ、勅令書」


 部下がそういった反応を見せるのは、予想の範囲内であったらしい。

 大佐は迷いのない動きで、見るからに上質な紙で拵えた封筒をソフィーに手渡した。


 勅令、つまりは王族直々の命令だ。

 俺を釈放せよ、そんな危うい令を誰が下したのか。

 今更考える必要はない。

 元上司である、王女殿下であろう。


 さて、この街の守備隊長が勅令を携えて帰ってきた、ということは――


 もう一度視線を廊下へと続く扉へと向ける。

 やはり、クロードがそこに居た。

 あの封筒は彼の取り次ぎによるものだろう。

 俺の視線に気付くと、彼は軽く手を上げてそれに応えた。


「まあ、そういうことなんだよ。超ノーブルなお人からのお達し。従わざるをえないんだよ。これが」


「し、しかし」


 ソフィーは食い下がった。

 俺とて彼女の気持ちは解る。


 彼女は規律と成文法でもって、今回の問題を処理しようとした。

 その姿勢は将校としては百点満点を与えるべきもので、とても正しいものだ。


 にも関わらず突然横槍が入って、問題がなかったことにされようとしている。

 ちゃんと正しいことをしているのにも関わらず、目を瞑れ、と言われたのだ。

 これは彼女からすれば、面白いものではない。

 胸中は強烈な不満に満ちていることだろう。


「気持ちはわかるけどねえ」


 そんなソフィーの心中を大佐は慮る。

 言葉遣いはとても軽いけれども、どうやらこの人は、気遣い上手な人であるらしい。


「これね。下手につついちゃ、すごく面倒な案件なんだ。僕はまあ、左遷人事には慣れてるけど、ソフィーちゃんはそうじゃないだろう? 学校卒業してすぐに窓際コースは、僕としても心苦しいんだ」


 真面目に事案を処理しようとしたら、どういうわけか、出世コースから外され閑職に着かされる。

 こんな馬鹿らしいことはあるまい。

 だから、こそ彼はこうして彼女を諭しているのだろう。


 時には自分を曲げることも必要だと。


 そして、ソフィーはやはり優秀な人間だ。

 自身の上司の言わんとしていることをくみ取ったか。


「……はっ。了解しました」


 大きな深呼吸の後に、そう答えた。


「ん。ごめんね。折角頑張ってお仕事してたのに」


 心底申し訳なさそうな声色で上司も答える。

 正直、案件が俺関係の案件なだけに、俺もなんだか申し訳ない気分になってしまう。


 あの行動が最も犠牲を少なく抑える方法であったと、今でも自信を持って言える。

 が、もうちょっと根気よく、彼女と意思疎通を図るべきだったと、今更過ぎる後悔を抱いた。


「さて」


 なんとかソフィーを抑えた大佐は、次に看守と目を合わせた。

 物を言わずに、彼の要求することを読み取ったらしい。

 看守はすぐさま腰にぶら下げた鍵束に手を伸ばし、この牢の鍵を探し始めた。


 その様子を満足げに頷いた大佐は、鉄格子越しに俺に向き合って口を開く。


「貴方が、ウィリアム・スウィンバーン?」


「はっ。その通りであります」


「もう軍属じゃないんだから、そんな口調で答える必要はないですよ。あと、姿勢を正さなくっても」


「あっ……助かります。癖、なんでしょうね。佐官と聞くとどうにも、背筋が伸びてしまうのは」


 言われて、自分が条件反射で背筋を伸ばしていることに、今更気がついた。

 ついでに佐官と会することが由来の緊張もだ。

 やはり十年間で染みついてしまった軍人の習性は、一年程度のブランクでは抜けきらないらしい。


「あっはっはっはっ。気持ちはわかりますよ。僕もね、ノーブルな人達とお話すると冷や汗がだらだらで……全く、王都に居たときには気が気ではありませんでしたよ」


「王都に住む貴族は、王家と近いせいか、別格に風格ありますからねえ。ええっと?」


「ああ、失礼。まだ名乗っていませんでしたか」


 社交場あるあるに一つ共感したところで、気がついたことがあった。

 まだ、この大佐殿の名を聞いていないことを。


「僕はナイジェル・フィリップス。ご覧通り、ゾクリュの守備隊長なんかをやっております。以後お見知りおきを」


 失敬、失敬、と照れ隠しに笑みを浮かべるその姿に、やはり威厳はなかった。


 少し遅れた挨拶が終わるや、鍵を見つけた看守が牢を開けにかかる。

 重苦しい金属のかみ合う音。

 そして軋み音を上げて、外と内を隔てていた境界は取り払われた。 


 一歩を踏み出し数日ぶりの外界へ。


「ウィリアムさん。どうぞ」


「ん。ありがとう」


 すぐにアリスが俺を出迎えた。

 収監の直前に預けていた、上着を広げながら。

 彼女の望むよう上着に袖を通すことで、その好意に応えた。


「すいませんでしたね。無駄に騒がせちゃって」


「いえいえ、とんでもない。確かにこうしてゴタゴタ起こっちゃったけど、貴方の行動のお陰で、この街の人間も、そして部下にも一人も死人が出なかったんだ。僕としては感謝しきりですよ」


「そう言ってくれると、助かります」


「それなのに、長い間拘束しちゃったみたいで。ですが、彼女を恨まないで下さいな。彼女は職務に忠実にあろうとしただけなんですよ」


「ええ、それは理解していますよ。だから恨んではいません」


「そいつは僕も助かります。それじゃあ、僕たちはこれから書類仕事があるんで。では」


 そう言って、ぺこりと頭を下げるなり、フィリップス大佐はソフィーを引き連れて、さっさと退出していった。

 足音が遠のいていく。


 その音が聞こえなくなった頃合い、大佐とは入れ替わりにこの陰気な空間に足を踏み入れる者が居た。

 クロードだ。

 どうやら大佐が見えなくなるまで、敬礼を捧げていたらしい。


「すまないな。遅くなって。ちっとシキユウだの王都だのと飛び回る必要があったんで、時間がかかった」


 そして開口一番、詫びの一言。

 釈放の根回しが遅れてしまったことについての謝罪だった。


「気にしてない。その顔見ると、大変だったって事は解る。だから謝らないで欲しいな」


 だが、責める気は俺にさらさらなかった。

 そもそも収監されたままでも、俺は構わなかったのだ。


 それに、何よりも今のクロードの顔は疲労の色があまりに濃すぎる。

 目の下の隈も濃ければ、髭だって剃り残しがちらほら見受けられる。

 普段身なりにも気にかける几帳面な男なのに、だ。

 全体的にくたびれた感が否めない。


 そんな男に激しい口調で詰める者が居たとすれば、それはただの人でなしに違いない。


「いいや、謝らせて欲しい。今回は俺らの調査不足が招いたことだからな」


「クロードのせいじゃないだろう。悪いのは隠そうとしたシキユウの連中さ」


「そう、そのシキユウなんだが」


 一度クロードは言葉を句切る。

 顔を見れば何やら苦々しげだ。


「現地に行って、連中をこってり絞って、アンジェリカについての情報をたっぷりと引き出してきた。聞くか? ただ、ちょっと気分の悪くなる話でもあるんだが……」


「頼む。それにしても、気分の悪くなる話だって?」


「ああ、そうだ」


 シキユウの守備隊が情報を遮断したせいで、アンジェリカの身に何があったのか、その正確なところを俺は知らない。

 

 これからも共に暮らしていく関係である以上、知っておいた方が良いと思った。


 しかしそれにしてもわざわざ、彼女についての話が後味の悪いものである、と断りを入れてくるとは。

 そこまでに酷い目にあったのだろうか。あの娘は。


 それを補完するように、クロードの顔はますます重苦しいものになった。

 彼はふう、と沈鬱なため息を一つ吐いて。


「……あの娘はな、人身御供(ひとみごくう)されたんだ」


 ため息と同じくらいに暗い音色の声で、ぽそりと言葉を紡いだ。

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